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10 影として生きる

光のそばには、必ず影が生まれます。

けれども、影にもまた、選び取る生き方があるのです。


 静御前の存在を知ってしまってから、美野は心の中に、大きな空洞が出来たように感じていた。

 美野は武家の出だから、行信に言われるまでもなく、武士が複数の側室を持つことは当然だと知っている。自分自身の母も側室だ。

 けれども、何人側室がいても、正室は正室として尊重される……と思っていた。


 しかし、自分はそうではない。


 義経は、はっきりと自分を嫌っている。そして、彼が妻と思っているのは、静御前一人。

 自分――美野は、鎌倉の間者。義経の妻として、義経を鎌倉の悪意から守ろう、という自分の決心は、全く的外れで、滑稽にさえ思える。

 ようやく見いだした生きがいを見失いかけ、美野は呆然と数日を過ごした。


 それでも、美野は、なんとか気を取り直そうとした。いつまでも、惚けているわけにはいかない。『妻』として認められなくても、義経を鎌倉の悪意から守ることは出来るかもしれない。それにはどうするべきか……。必死に立ち直ろうとしている美野に追いうちをかけたのは、梅枝だった。梅枝は、どこからか静御前のことを聞きこんできて、美野を責めた。


「北の方さま。義経さまが、この屋敷の離れに、卑しい女を住まわしていらっしゃること、ご存じですか?」


「静御前でしょう」


 梅枝は目をつり上げて、まくしたてた。


「ご存じだったのですか? いったいいつから?」


「二、三日前に」


「なぜ、私にお話しくださらなかったのですか?」


 梅枝は冷たい目をして言った。


「義経さまの身の周りのことは、すべてこの梅枝を通じて鎌倉へご報告するようにと、政子さまもおっしゃっていたでしょう?」


「側室のことなど、報告の必要があるのでしょうか? そんな」


 内々のことを、という言葉を、梅枝はさえぎった。


「必要があるかないかは、この梅枝が判断いたします。北の方さまは、すべて私にお話ししてくだされば、それでいいのです」


 美野は返事をしなかった。鎌倉武士の娘……介八郎の娘としての矜持が、それを拒否した。だが、梅枝は、美野の沈黙を誤解したのか、重ねて言った。


「静は白拍子あがりというではありませんか。そんな身分の低い女に……まあ、義経さまにふさわしいと言えば、言えなくもないけれど。万一、静に先に男の子でも生まれてしまったら、どうなさる……」


「お下がりなさい」


 梅枝の言葉を最後まで聞きたくなかった。

 出て行くように指示したにもかかわらず、梅枝は立とうともしなかった。


「下がりません。今一度、北の方さまのお役目を……」


「あなたが下がらないのなら、わたくしが出て行きます」


 美野はそのまま部屋を出て、庭に向かった。

 ずんずんと歩きながら、美野は、今つけ加えられたもうひとつの役目を考えた。

 武家に嫁ぐからには、跡継ぎを産むことは最優先されるべき役目であると承知している。もちろん、そうなるだろうと思っていた。

 だが……。間者としての鎌倉から送りつけられた自分が産む跡継ぎに、どんな価値があるのだろう。

 幸い、梅枝は追いかけては来なかった。


 池のほとりの人目につかないところで、考えをまとめることにした。

 そして、思いついた。


「人質……」


 跡継ぎが産まれたら、鎌倉の人質にすればよいのだ。我が子を人質に取られた義経は、鎌倉の意向には逆らえなくなる。


「ならばなおさら……」


 自分が、義経の子を産むことはないだろう。そんなことは、義経だって十分承知のはずだから。

 そう思いついたとたん、涙が溢れた。だが、声を上げて泣くことだけは、したくなかった。この前、その醜態を行信に見られてしまっていたから。

 天を見上げ、涙をこらえていたとき、人の足音がした。

 気づいても、美野はふりかえることさえできないでいた。少しでも動いてしまえば、涙が溢れてしまう――。


 足音はゆっくりと近づき、美野のすぐ後ろで止まった。しばらく様子を見るかのようにじっとしていたが、美野が動かないことに気づいたのか、その足音の主は美野のすぐ後ろに寄り添った。美野の姿を、ほかの者の視線から隠すように。


 彼は、声をかけるでもなく、ただ背後に立っているだけだった。けれども、伝わってくるあたたかみで、美野にはそれが誰だか分かった。

 美野の気持ちがおさまり、振り向くまで、彼はそこから動こうとはしなかった。


「行信……」


 かすかに涙の跡が残る顔で美野が言うと、行信は黙って微笑んだ。その笑顔に、美野はふと疑問がわき、彼にたずねた。


「行信はなぜ、九郎さまの影武者になったのですか? いやではなかったのですか?」


 そんな美野の唐突な問いにも、行信はうろたえることなく、穏やかに答えた。


「私は、武士とは名ばかりの、平泉の貧しい家の長男に生まれました。ほとんど農民と同じような暮らしをしていました」


 行信は、淡々と自分の生いたちについて語った。低く、静かな声……。美野は目を伏せ、聞くことに意識を集中させた。


 鞍馬山を逃げ出した義経が、平泉に到着したのは、十六才のときだった。行信はそのとき、十七才。義経より一才年長だった。

 藤原秀衡は、義経を歓迎し、自分の子どもと同様に育てた。いずれ、天下を我がものにしようという野心を抱いた秀衡にとって、義経という源氏の嫡流は、喜ぶべき素材だったのだろう。

 そんな話は耳に入ったが、貧しく身分も低い杉目家にとっては、雲の上の話でしかなかった。


 しかし、二年後、義経が十八才のとき、狩りにやってきた秀衡を、行信の父が道案内したことにより、行信の運命は変わった。そのとき、行信は秀衡の目にとまったのだ。

 瓜二つとまではいかないが、行信は義経とよく似ていた。顔だけでなく、背の高さ、身体つきなどがほとんど同じだった。

 その直後、行信は秀衡に呼ばれ、義経の影武者を命ぜられたのだ。


「いやではなかったのですか?」


 美野がたずねた。


「そんなことは言えません。御館(みたち)の命令は絶対ですから」


 次の日から、影武者としての生活が始まった。行信は、昼も夜も、義経のすぐそばについていた。容姿が似ているのは当然のことで、影武者は、義経の動作や言葉遣い、ちょっとしたくせまで知りつくし、似せなければならない。


 行信は、毎日義経のすぐそばに……それこそ影のように付き添い、彼の行動のすべてを自分の身につけた。

 それでいて、行信の存在を義経の周りにいる人間、いや義経にさえも気づかれてはならない――と秀衡から命じられていた。


 その時、美野は何故か息苦しさを感じ、思わず尋ねていた。


「誰にも気づかれないように? なぜ?」


 その問いに、行信はにっこり笑って答えた。


「敵をあざむくには、まず味方から……というでしょう?」


「それで、うまくいきましたの?」


「周りの者には、気づかれませんでした。けれど、御大将はだませませんでした」


 行信が影武者となって一月もたたないうちに、義経は行信の存在に気づいてしまった。 ある日、馬の遠乗りに出かけた義経は、ものすごい速さで馬を飛ばし、一緒についてきた秀衡の子息である泰衡たちをふり切った。

 行信だけは、必死についていった。けれども、ついに林の中で見失ってしまった。途方にくれていると、いきなり背後から、義経に声をかけられた。


「おまえ、名は何という?」


 行信は答えなかった。


「なぜ、いつも私のすぐそばにいるのだ? しかも、誰にも気づかれないように」


 行信は、自分の馬から降り、義経の馬の足元に座った。そして、頭を下げたが、言葉は一言も発しなかった。

 義経は同じ質問を何度か繰り返したが、行信が答えようとしないのを悟り、黙って引き返していった。


 その後、義経は秀衡を問いつめ、行信が影武者になったことを知ったらしい。

 遠乗りの二、三日後の深夜、義経は突然、寝所からぬけ出した。行信は当然あとをつけた。庭をずんずんと歩いていた義経は、急に立ち止まると、はっきりとした声で、


「杉目!」


 と呼んだ。

 名を呼ばれた瞬間、身体が反射的に動いた。けれども、返事をしてはいけないと、動きそうになる心を抑え込んだ。黙っていると、重ねて、「杉目!」と呼ぶ。


「杉目! かまわぬ。近くへ来い」


 行信は、義経のすぐ後ろに座った。義経は振り返ると、行信のすぐ前に同じようにして座った。行信が驚いて後ろへ下がろうとするのを手で制し、義経はこう言った。


「お前が私の影武者になったことは、秀衡殿に聞いた。しかし、私は影武者などいらぬ。源氏の嫡流とは言え、私は九男。流人の身だが、兄・頼朝が源氏の嫡子。兄ならばともかく、この私に影武者など必要ないのだ。義経は、自分の命を捨てなければならないときがきたら、身代わりなど立てずに、潔く死にたいと思う。反対に、生きねばならないときならば、どんなことをしても生き延びる……自分の力で。だから、お前はもうこんな影のような仕事をしなくてもよいのだ」


「ですが……」


 行信が言うと、義経は笑顔を見せた。


「やっと、お前の声を聞くことができたな。お前が用済みだと言っているのではない。遠乗りで私についてきたことといい、日ごろのお前の動きは、並大抵の武士ではできることではない。お前さえよければ、このまま私のそばにいてくれていいのだ。ただし、義経の影武者としてではなく、杉目小太郎行信という一人の武士として」


「御大将……」


 思いがけない義経の優しい言葉に、行信は涙があふれた。それ以上何も言えないでいると、義経は行信が承知したと思ったらしく、


「秀衡殿には、私から言っておく」


 と言って、寝所に戻っていった。

 行信はそのまましばらく、感激の涙にひたっていたが、ふと思いついたことがあった。


「私は、恥ずかしくなったのです」


 行信は、美野に言った。


「影武者を言いつかり、その仕事をしていながら、私は真実、影武者の意味が分かっていなかった。影武者とは自分という存在を殺して、はじめて役目が全うできるのです。私には、その覚悟がなかった。それなのに、御大将は、杉目行信として生きろ……とおっしゃってくださった。私は考えたのです。こんなにりっぱな主君を持てることは幸せだ。それならば、自分のできる限りのことをして、御大将にお仕えしよう。そう私は決心しました。けれど、私にできる最良のことは何でしょう?」


 行信は美野に言った。美野が黙っていると、行信は話を続けた。


「腕の立つ武士なら、御大将の周りに何人もいます。けれど、御大将に似ている者はいない。影武者という仕事は、私にしかできない――それならば、私は今度こそその仕事――影武者としての役目を全うしよう。そう考えたのです」


 翌日、行信は秀衡に呼ばれた。そして、


「義経殿が、お前を影武者としてではなく、杉目小太郎行信として郎等に加えたい、と言っているが、お前はどうする?」


 と言われたとき、行信は迷わずに答えた。


「私は、このまま源九郎義経の影武者として、お仕えしたいと思っています」


 行信の決心が堅いことを知り、義経はそれ以上何も言わなかった。そして行信は、影のように義経に従い、鎌倉へ――そして近江、一ノ谷を経て、京へと来たのだった。


 行信の話を聞いているうちに、美野は自分の心が風のない湖沼の水面のように静まっていくのが分かった。それと同時に――以前の行信と同じように――恥ずかしくなった。

『わたくしは影武者、北の方という名の……』などと言っておきながら、影武者がどんなものであるか、理解していなかった。

 そして、自分の不幸にばかり目がいって、自分のするべきことを見失っていた。


 行信は、自分の運命をしっかり受け止め、自分にしか生きられない道を進もうとしている。その一生が、誰の目にもふれない影だけに終わっても、彼は悔いがないのだろう。


 それならば、自分も行信に見習おう……そう美野は思った。自分も、北の方という名の影武者を全うする人生をおくろう。決して悔いることのないように。

 そう決心すると、目の前の暗雲が晴れたような気持ちになった。


「ありがとう、行信。おかげで、わたくしの生きる道が分かったような気がします」


 美野は、立ち上がった。

 行信は、何に礼を言われたのか、さっぱり分からない様子だった。けれども、行信は不意に目をふせた。まるで、なにかが眩しくてたまらない……という風情だったが、その理由は、美野にはわからなかった。


 このとき、行信は見てしまったのだ。

 苦しみを乗り越えた強さをたたえながら、きらきらと輝く美野の瞳を――。その姿に震える自身の心に戸惑いながら……。


行信と美野。

二人が選んだ道は違って見えて、実はよく似ています。

この先、それぞれの「影」が、どこへ導くのか──。

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