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11 影に恋して

人は、自分が何を待っていたのか、その人の顔を見るまで、気づかないことがあります。


 義経が来ないことを梅枝に責められても、美野は動じなくなっていた。


「九郎さまほどの武士なら、側室の一人や二人、持って当然でしょう。そんなことであなたが騒いだら、かえってわたくしの恥になります。堂々としていなさい。北の方は、この美野なんですから」


 ある日、あまりに梅枝がうるさく言うので、美野はそう言った。その日から、美野と梅枝の立場は逆転し、梅枝のほうが美野の機嫌を伺いながら話かける……という風に変わっていった。


 けれども、義経との関係は何ら変わりはなかった。美野は、そのほとんどの時間を庭の散策に費やしていた。時折、兄・重房から今の情勢を尋ね、そして、考え続けた。

 義経を、鎌倉から守るために、自分が出来ることはなにか……を。


 庭を歩くのは考えをまとめるためだけ……と言い切れないことを、美野自身知っていた。

 だが、行信と逢えても、この前のように長く話すことはなかった。行信は常に「北の方」として接していたから。

 それでもいい、と美野は思った。

 行信の姿を見るだけで、美野の心には温かいものがあふれる。その温かさは、美野に落ち着きを与え、楽に息が出来る。

 影武者としての行信の生き方、それがわたくしの指針になる。

 そう、美野は思っていた。


 義経と美野との会話はないまま、年は明け、元暦二年となった。

 平氏追討を命じられていた範頼は、食料の調達もままならず、ほとんど立ち往生という様子だったらしい。結局、事態を進展させるためには『戦の天才』義経に頼るしかないと、ついに頼朝も折れた。


 一月十日、義経は、京を発っていった。北の方として見送りに出ている美野を、義経は見ようとはしなかった。

 義経の視線は、この場にはいない静御前を捜すように、空に浮かぶ雲に注がれていた。

 そして、美野の目は、出陣する武士たちの最後尾に近い所に、うつむきかげんに立っている行信に注がれていた。


 桜が散り、新緑がまぶしい頃、義経が平氏を敗ったという知らせが、京へ届けられた。

 京は喜びと興奮でわきかえった。一年近くの滞在で、義経はすっかり、京の人々の心をつかんでしまっていたのだ――と美野は実感した。

 美野は、人々の噂話をつなぎ合わせながら、見たこともない海戦の様子を思い描いていた。


 義経と範頼の率いる源氏軍は、まず、屋島で平氏を敗走させた。

 そして、戦いは壇の浦へと移っていった。早朝から始まった戦いは、当初は平氏が優勢だったが、正午頃から、両軍の優劣が逆転し始めた。午後、潮流の変わるとともに、源氏の勝利は確実となる。

 平氏の武将のほとんどは、壇の浦で入水。幼い帝――安徳天皇も、平氏と運命をともにした。わずかに生き残った平氏の武将や女性たちは、源氏軍にともなわれ、京へ帰ってきた。


 戦勝の知らせが京へ届いてから二十日ほどたって、義経たちは京に帰った来た。法皇への報告をすませた義経は、堀川館へ戻ってきた。

 美野は、義経を出迎えた。義経は、美野に儀礼的に声をかけた。


「今、帰った」


「お帰りなさいませ。御戦勝、おめでとうございます」


 美野は頭を下げた。無事な顔を見られてうれしい……とは思う。ほっともしている。しかし、自分は少しも安堵していないことに、美野は気づいていた。そして、その理由にも……。


 義経の視線が美野から逸らされ、誰かを捜すように宙をさまよう。

 義経はすぐに、静御前のもとに行くのだろう。おそらく静御前は、喜びの涙で義経を迎えるのだろう……そんなことをぼんやりと考えた。


「そなたの父上も兄上も、大活躍をなされて、無事にお帰りだ」


 義経の言葉に、美野がまず感じたのは安堵、そして次に、後ろめたさ。なぜなら、その安堵が、義経の無事を知ったとき以上のものだったから。

 そして、自分を鎌倉の間者と疎みながらも、わざわざ「父上も兄上も無事」と言ってくれた義経の心遣いに気づけば、後ろめたさはさらに大きくなる。


「ありがとうございます」


 美野は、もう一度頭を下げた。妻としての愛情は望めないとしても、義経が自分のことを気にかけてくれているのは、やはりうれしかった。

 そのとき、美野は、いつも義経のそばにいる継信の姿が見えないのに気づいた。弟の忠信はいるのに……。


「九郎さま……継信は? 姿が見えませんが……」


 義経は唇をかみしめた。


「死んだ、屋島で。……私をかばって……敵の矢に当たって……」


 義経は懸命に涙をこらえている様子だった。

 美野はなぐさめる言葉が見つからなかった。どう言ったら、義経の心が救われるか、それがわかるほど、美野は義経のことを知ってはいなかった。

 こんなとき、静御前なら、きっとよいなぐさめの言葉が言えるのだろう……と、思ったが、特に悔しさは感じなかった。

 義経の様子を見て、忠信が声をあげて泣き始めた。そして、涙ながらに言った。


「兄は本望でございましょう。御大将の身代わりとなれ……また、手厚く葬っていただけました」


 義経は黙って、忠信の肩に手をやった。何も言わなくても、この二人はお互いの気持ちが手に取るように分かるのだろう。


「それで……」


 美野は小さな声で言いかけたが、みんな、義経と忠信の様子に気を取られていて、誰一人、気づいてくれなかった。

 美野は口を閉じた。聞きたいが……聞くのはよそう。美野は言いかけた言葉を、胸の中にしまった。「それで、杉目小太郎行信は無事ですか」という言葉を。


 その夜、凱旋を祝っての宴の騒がしさを遠くに聞きながら、美野はいつものように一人で眠ろうとしていた。義経は当然、静御前のもとですごすのだろう。

 横になろうとしたとき、几帳がさっと開いた。そこに立っていたのは、梅枝だった。


「何をするの、いきなり」


 梅枝は、ため息をつきながら、美野を見下ろし言った。


「今夜も、お一人なのですね」


 美野が黙っていると、梅枝は続けた。


「お帰りになった晩だというのに……お方さまがもっとしっかりなさらないから、義経さまを、あんな白拍子あがりの女に……」


「やめて!」


 美野はさえぎった。


「静御前を、そんな風に言うのは……」


 梅枝は、心底驚いたようだった。美野が静御前をかばうなどとは、考えられないことのようだった。


「九郎さまが大切に思っていらっしゃるお方です。侮辱することは、許しません」


 美野の語気の強さに、梅枝は一瞬ひるんだ。だが、おどおどしながらも、梅枝は重ねて言った。


「お方さまがそんな風では、私が困ります。義経さまのご様子を、政子さまにご報告できません。少しは、お方さまも努力なさってください」


「わたくしに聞かなくても、あなたはあちこちに聞き回って、何でも知っているでしょう?」


 それは、確かな証拠はなかったが、日頃の梅枝の様子から、美野が推測したことだった。しかし、その通りだったらしく、梅枝はサッと顔色を変えた。そして、口の中でブツブツと、


「政子さまに叱責されるのは、私なのに……」


 などと言いながら、部屋を出て行った。


 その夜、義経は、美野の待つ部屋へは、ついに姿を見せなかった。期待していなかったが、美野は自分ががっかりしていないことにも気づいていた。むしろ、安堵している。

 美野が知りたいのはただひとつ、杉目小太郎行信の安否、そして、美野が今逢いたいと思う人も、行信ただ一人だった。


 翌日、美野は庭を歩いていた。庭を歩けば行信に会える――そんな気がしていた。美野の足は、自然に厩舎の方へ向かって行った。

 夢中で歩いていると、不意に誰かにぶつかってしまった。


「っ!」


 美野がよろけると、ぶつかった相手の手がさっと伸び、美野の体を支えた。


「申しわけありません」


 それは、今までに見たことのない、若い武士だった。


「失礼いたしました」


 彼は、もう一度謝ると、美野をじっと見つめて言った。


「北の方さま……でいらっしゃいますね?」


 美野はうなずいた。


「美野といいます」


「河越重頼殿の、ご息女であらせられますか?」


「はい」


 答えながら、この人はいったい何者なのだろう……と美野は思った。

 わざわざ、父のことを確認したりして……。まさか、わたくしが河越重頼の実の娘でないことに気づいている?

 そんな思いが美野の顔に表れたのかもしれない。彼はあわてて言った。


「失礼いたしました。私は、月影(つきかげ)と申します。壇ノ浦の戦のあとで、御大将の郎等に加えていただきました」


 月影は、軽く頭を下げると、どこかへ行ってしまった。美野は、その後ろ姿を見ながら、あらためて月影の様子を思い出した。

 背は行信よりやや高い。ほっそりとしなやかな身体つきで、長い髪を高く結い上げていた。面長で、切れ長の目、通った鼻すじ、ひきしまった口もと――。女性と言ってもおかしくないほど美しい顔立ちの人だった。

「月影」という名前も不思議に思う。姓なのか、名前なのかもよくわからない。姿を見ると武士のようだが、身分は低いのかもしれない。


 だが、そんな物思いも長くは続かなかった。美野は、行信の姿を求めて、厩舎へと足を向け、白馬の手入れをしている行信の姿を見つけた。


「行信」


 行信は、ゆっくりとふりかえり、言った。


「河越小太郎殿をおさがしですか?」


「いえ、わたくしは……」


 美野はうつむいた。

 重頼と重房には今朝会った。数日後には河越に戻ると言っていた。

 二人とも美野を一人残していくことを心配していた。美野も心細くはあったが、今朝は行信の安否が気がかりで、そんなことで悩む余裕はなかった。


『あなたに会いたかったのです』


 美野はそう言いたかった。だが言うことはできない。ただ行信を見つめていた。そして、


「行信……」


 と、もう一度呼びかけた。


「……よかった。無事で……」


 ふいに涙があふれた。自分でも気づかないうちに、涙は頬をつたっていた。


「お方さま……」


 美野の涙が意外だったのか、行信はうろたえていた。そんな行信の姿を見て、美野は涙をぬぐった。


「……けがもなくて……無事でよかった」


 行信は、じっと美野を見つめていた。その行信の瞳を見つめかえしながら、美野は自分の気持ちから目を逸らすことはできないと覚悟を決めた。

 自分が待っていたのは、義経ではなくて、行信だったということを。そして、この言葉にできない感情に名前をつけるとしたら、「恋」であることに。


 しばらく見つめあったあと、口を開いたのは、行信だった。


「御大将も無事に戻られ、戦も勝利をおさめられ、お方さまにも、さぞかし、御安心のことでしょう」


「心配だったのです。行信の顔を見るまでは。佐藤継信も亡くなったと聞きましたし……」


「継信殿も本望でしたでしょう。御大将の身代わりとして死ねたのですから」


「本望」という言葉が、美野の心にひっかかった。たしか、忠信もそう言っていた。「兄も本望でしょう」と。でも、美野には納得がいかなかった。

 いや、以前の美野ならば、素直にその言葉を聞けただろう。郎等が、仕える大将の身代わりに死ぬことは当然のこと。それは、武士の誉れだ……と。


 けれど、何故か今は、そう思えない。

 詳しくは知らないが、継信にも大切な人はいたはず。その人にとっては、継信が一番なのだから、義経の代わりに死んだと言われて、素直に納得できるのだろうか?

 いつか、行信が影武者として死んだら……。義経の身代わりとして死ねたのだから、それが、行信の望みだったのだから……と、自分は納得できるのだろうか?


「継信にも、大切な人が、悲しむ家族も……いるでしょうに」


「ですが、それが武士の生き甲斐かと……」


 行信は意外そうな声を出した。


「それでも……」


 継信に生きていてほしかったと思う人はいるはず、と言いたかった言葉はさえぎられた。


「お役に立っても、甲斐のない御主君もいます。郎等の命など、何とも思わない方も。けれども、御大将は違います。お役に立つ甲斐のあるお方です」


「甲斐のある?」


「はい。継信殿が亡くなったときの、御大将の悲しみは……見ている私たちがつらいほどでした。けれど、継信殿は幸せだ、と誰もが思いました。御大将に抱かれながら、亡くなったのですから。その上、継信殿を手厚く葬るようにと、僧に馬までおやりになって……」


「馬?」


「大夫黒です。法皇さまから賜った」


「ああ、それで……」


 行信が手入れをしていたのが、黒い馬でなく、白馬だったわけがわかった。


「御大将のためなら、死んでもよい――誰もがそう思ったはずです……あの時」


 美野は思った。やはり、納得できない。義経の命も、継信の命も、行信の命も、もしかしたら、命の重さは同じなのではないだろうか。それぞれに、大切な人がいて、その人が死ねば、悲しみ苦しむ人がいるのは、同じはず……。昔はそんなことは思いもしなかったが、今では、そう思う。


 けれども口には出さなかった。以前の美野と同じように、今の行信には理解できないことなのだと感じたからだった。

 行信は、美野の次の言葉を待っているようだった。美野はちょっと考えて、こう続けた。


「戦は終わったのですから、安心できますね。もう、戦で人が亡くなることはないのだから」


「そうだといいのですが……」


 行信の表情は曇った。


「まだ、何かあるのですか?」


「軍監の梶原景時殿が、どうやら、頼朝さまに讒言を……」


「梶原……景時……」


 その名前を聞いた瞬間に、美野は呼吸が出来なくなった。


「はっ……あっ……」


 驚きの表情を見せる行信になにか言わなくては……と思うが、声も出ない。


「お方さま……お方さまっ……っ!!」


 視界がだんだん狭くなり、行信の顔が周りからじわじわと見えなくなる。


「ゆき……のぶ……」


 美野が最後に見たのは、行信の瞳の深い色合いだった。



戦は終わりました。

けれど、物語は、ここから別の方向へ動き始めます。

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