12 嵐の前
勝利の凱旋は、いつも祝福だけを連れてくるとは限りません。
京の都に戻った九郎義経を待っていたのは、栄誉ではなく、疑いと断絶の兆しだったのです。
頬にかかる冷たい水に、美野が目を覚ましたとき、一番最初に見たものも行信の瞳の色だった。
「お気づきですか?」
気づけば、美野は木陰に横たえられ、濡れた冷たい布が額に当てられていた。
「行信……わたくし……」
「急にお倒れになって……。今、誰かを呼びに行こうかと思っていたところです」
立ち上がろうとする行信の袖を、とっさに掴んだ。
「だいじょうぶ!」
行信がもう一度、美野の顔をのぞき込む。
「お方さま、ですが」
「もう、だいじょうぶ。このまま、もう少し休めば。誰も呼ばないで」
その言葉になにかを感じたのか、行信は座り直した。
心配そうな表情に、「だいじょうぶ」という言葉を繰り返す。
体の具合が悪いわけではない。「梶原景時」の名を聞いて、心が恐慌を来したのだ。
聞くだけで怒りと悲しみがこみ上げるその名前が、最悪の状況を示して美野の前に提示されてしまったのだから。
「……梶原景時」
思わずつぶやくと、行信が眉をひそめた。
「梶原に、なにか思うところがございますか?」
「……いえ、あまり、よい評判を聞かなかったので……」
当たり障りのないことを口にする。
関東武士の中での梶原の評判は、けっしてよいものではない。
殺される以前に、上総介も言っていたし、河越の父や兄からもいい話は聞いていない。
「やはり、そういうお方でしたか……」
「讒言とは、どのような?」
尋ねると、行信は一瞬ためらったが、それでも話してくれた。
「梶原殿は、頼朝さまがつけられた軍監でした。御大将にいろいろ指図なさいましたが、御大将は、それに従いませんでした。梶原の軍略では勝てないとお考えだったのだと思います。それを、梶原殿は遺恨に思ったのでしょう」
「実際は、九郎さまの軍略が勝利を導いたのでしょう?」
「そのとおりです。ですが梶原は、おそらく……」
「手柄は自分のものとして報告し、九郎さまについては罵詈讒謗を……」
「おそらく……」
「どこまでも、卑怯な男なのですね」
わかってはいた。双六に興じる父を不意打ちで殺すような男なのだから。
だが、現実に父は亡くなった。このままでは義経も……。
「ただでさえ、頼朝さまは九郎さまをよく思ってらっしゃらないのに……。その上、梶原の讒言がお耳に入ったりしたら……」
「御大将と頼朝さまの不仲を御存じだったのですか?」
行信は驚いて美野を見た。
「父から、だいたいの話は聞いています」
行信は何か考えこんでいる。
不意に、美野は行信になにもかも打ち明けたくなった。
さすがに、自分が上総介の娘だとは言えないが……。
「行信……わたくしは鎌倉の……頼朝さまの間者です。九郎さまの行動を見張るようにと、政子さまから、言いつかっています」
行信は、素早い行動で美野の口をふさぎ、辺りを見回した。そして小声で言った。
「めったなことを、おっしゃるものではありません」
美野は、自分の肩と口に触れている行信の手の温かさを感じていた。行信が静かに手を離すと、美野はささやいた。
「本当のことです。でも、わたくしはその仕事はしません。父も、九郎さまを信じて、ついていくようにと言っています。九郎さまが、わたくしによそよそしいのは、そのことに気づいていらっしゃるからかもしれません」
「どうして、お方さまの本当のお気持ちを、御大将にお話しにならないのです?」
「もう、いいのです」
美野はゆっくりと首を横に振った。
「きっと、いつかは、分かってくださるでしょうから」
義経に妻として想われたいという気持ちは、今の美野には全くなかった。ただ、自分や父が、義経を裏切ることはない……そのことだけは分かってもらいたかった。
そして、鎌倉と、梶原景時から、義経を守りたかった。義経を守ることが出来れば、父の敵を討ったのと同じことになる……そんなふうに思えた。
だから、それさえ出来れば、妻として認められなくてもいい。
もし仮に、義経が最後まで分かってくれなくても――そうならないことを祈ってはいるが――少なくとも、行信は自分の気持ちを知っている。行信だけは、自分や河越の父や兄が、義経を裏切らないことを信じてくれている。その思いが、美野の心に安らぎを与えていた。
暑い京の夏は過ぎていった。秋を迎え、そして、厳しい寒さが京にやってきた。
暗闇の中、美野は立っていた。目の前には荒れ狂う海と、波にゆれる何艘かの船があった。風は強く、立っているのさえやっとだった。
その中を、義経とその郎等たちは何か叫びながら忙しく走り回っている。美野はそんな中で、ぼんやりとこの半年ばかりのことを考えていた。
義経が京に凱旋した夏、悲劇はすでに始まっていたと、美野に、教えてくれたのは行信だった。
行信は折に触れて話してくれた。
頼朝が出した文書のこと。
腰越で足止めされたこと。
嘆願の書が、届いたかどうかさえ分からなかったこと。
行信は多くを語らなかったが、その声はいつも低く、ときどき、言葉を選ぶように間があった。
「その一つ一つが、御大将を追い詰めていったのです」
淡々とした口調に滲む悔しさが、義経の悲劇の大きさを、美野に伝えていた。
頼朝との面会さえ許されず、失意のまま京へ戻った義経は、なおも頼朝の機嫌が直ることを期待していた。
だが、その願いは裏切られた。
秋を迎えた頃、頼朝の使者として現れたのは、梶原景時の子・景季だった。病に伏す義経の様子を見て、仮病だと決めつけたという話を、行信は低い声で語った。
そして、土佐坊昌俊の夜討ち――。
義経はこれを退けたが、この一件で、兄との和解を完全にあきらめた。
法皇から院宣を得て、頼朝追討を掲げたが……京で兵を集めることができなかった。
人々は義経に同情しても、頼朝に刃向かおうとはしなかったからだ。
だから義経は、京を去る決断をした。
西国へ向かい、再び旗を揚げる――。
そういった話を、美野はすべて行信から聞いていた。
そして今夜――京に近い大物浦という所から、西国に向かって船出をしようとしている。
あいにく天気はくずれ始め、激しい風が吹き、雨も降っていた。こんな天候での船出は危険だったが、追っ手も迫っているので、延期はできないのだろう。
武士たちが次々と船に乗り、静御前も船に乗ったのが見えた。しかし、美野には声がかからない。不安な気持ちで待っていると、やがて、義経がつかつかと美野に近寄ってきた。
「美野は河越に戻れ」
体からさあっと血の気が引いた。
やはり、間者である自分を連れて行くつもりはないのか……。だが、義経のそばを離れたら、梶原から守ることも出来なくなる。あきらめとも悲しみともつかない気持ちが、美野の心を支配した。
「美野が憎くて言っているのではない。これからの旅は大変なものになる。女を連れて行くわけにはいかないのだ」
『静御前は乗りました』――美野はそう叫びたかった。しかし、声は出せなかった。
「このまま私についてくれば、命さえあぶない。河越に戻れば、美野の父は兄上の御家人。母は万寿丸の乳母……いくら義経の妻だったとはいえ、兄上も悪いようにはなさらないだろう」
自分が、本当の河越重頼の娘ならば、河越へ帰れることを喜んだかもしれない。けれど、美野は義経と行動をともにしたかった。ともにいれば、義経を梶原から守ることが出来るかもしれない。そして、義経のそばにいれば、義経の影である行信のそばにいることが出来る。
「いつもそばにいた、梅枝という侍女はどうした?」
義経はたずねた。
「京を退くとき、どこかへ行ってしまいました」
完全に頼朝に反旗を翻した義経に対して、間者はもう必要ではなかったのだろう。いつの間にか、梅枝の姿は消えていた。
「そうか……」
義経はしばらく考えていたが、やがて
「杉目!」
と、叫んだ。荷物を運んでいた行信は走ってきた。
「美野を河越へ帰そうと思う。行信、おくりとどけてやってくれ」
「御大将」
行信は、とまどった表情を見せた。
「不服か?」
義経は顔色一つ変えずに言う。最近の行信と美野の親しさを知っているのかいないのか、その表情からはうかがうことはできなかった。
「御大将のおそばを離れては、私の役目ははたせません」
義経は笑った。
「まだまだ、おまえに役立ってもらうときではない。そこまで落ちぶれはしないさ。美野を河越に送りとどけたら、戻ってこい。私はたぶん、西国で旗揚げしているだろう。だから、河越へ行ってくれるな?」
「……お方さまさえ、ご承知なら」
行信は言った。
「美野は承知している」
義経は、じっと美野を見た。美野はうつむいてうなずくしかなかった。そうしなければ、自分の行信への気持ちが、周りの者に分かってしまう。
「それから」
義経は、行信に言った。
「増尾十郎兼房が河越にいるはずだ。こんなことになるとは思わずに、使いに出していたのだ。増尾はもともと河越の武士。義経のもとに戻らなくてもさしつかえない……と伝えてくれ」
「わかりました。必ず伝えます。そして、必ず、御大将の旗揚げには戻ってまいります」
行信はきっぱりと言った。
「頼むぞ」
義経は行信の肩に手をやった。
「馬を一頭と、これを持っていくがよい。道中役に立つだろう」
義経は砂金の袋を行信に手渡した。
美野は嵐の中、船出する義経一行を見送った。
そして、行信と何人かの河越からの雑色をしたがえて、河越へ向かった。
行信は、命じられた役目を受け入れました。
それが、御大将を守るためであり、同時に、美野を守るためでもあることを、誰にも告げぬままに。




