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18 魂の約束

運命が大きく動き出す、その前のほんの束の間の、穏やかな高館の日々を見届けていただければ幸いです。


 翌日から美野の体調はさらに悪くなり、床から起き上がれなくなってしまった。めまいがひどく、食欲もなく、吐き気もした。そんな美野の世話をしてくれたのは、月影だった。

 朝夕の食事も運んでくれ、何くれとなく気を遣ってくれた。その心遣いの細やかさは、男とは思えないくらいだった。実際、男とは思えないくらい美しい若者だったが。


 美野が寝こんで五日もたった頃、ひどく吐いた美野の世話や、後始末をしてくれた後、月影が言った。


「お方さま……大変失礼なのですが……御懐妊なのではありませんか?」


 気づかれてしまった、と思った瞬間、血の気が引いた。妊娠していると周囲に知られたら、いったいどうなるのだろう。……義経は……行信は……そう考えをめぐらすと、ここで認めるわけにはいかなかった。


「そういうことは、ないと思います。旅で疲れたのでしょう」


 なんとか、月影に返事をする。


「そうですか」


 美野の言葉を信じたかかどうかは、月影の表情からうかがうことはできなかった。


「もし、あまりおつらいようなら、医師を呼びますが」


 と言われたが、医師に診せたら、妊娠は確定してしまう。


「もうしばらく、様子を見てから……」


 と、やっとの思いでいった言葉に、月影は黙ってうなずき、部屋から出て行った。。

 美野がほっとため息をついたとき、廊下で月影の話し声が聞こえた。


「大丈夫だと思う。旅のお疲れが出ただけだろう」


「そうか、よかった」


 と返事する声は行信のものだった。美野のことが心配で、行信はずっと廊下で待っていたのだろう。その声に安らぎと、それ以上の申し訳なさを美野は感じていた。


 二日後、美野は自分からすすんで、夜具を片づけた。

 妊娠していることは、間違いないらしい。何日も寝こんでいたら、医師を呼ばれてしまう。

 ともかく、しばらくの間は秘密にしなければならない。美野のおなかの子が、義経の子でないことは、誰よりも義経が一番よく知っている。

 行信を愛したことを後悔していないし、義経は、おそらく気づいているだろう。

 だが、義経が許してくれても、周りの郎等は行信を許さないだろう。

 主君の北の方と関係を持ったとなれば、ただでは済まない。


 子どもができたことを、行信に知らせるつもりはなかった。行信を困らせるだけだから。

 おなかが目立つようになったら、隠し切れないことは十分承知している。だが、もう少し時間が欲しい。もうしばらくは、このまま隠し続けようと決めた。

 つわりで苦しくても、できるだけそれを表に出さないようにした。


 ある夜、美野は深夜に目が覚めた。急に気分が悪くなり、吐き気を押さえることができない。隣に寝ている義経の様子をそっとうかがった。義経はぐっすりと眠っているようだった。

 美野は、静かに床から出た。そっと部屋をぬけ出し、庭へ出た。そして、庭の木の根元に座りこみ、木陰で吐いた。

 気分がおさまると、美野は空を見上げた。夜空には、いつものように鼓星が輝いている。


 星空を見上げるときは、いつも行信がそばにいた。だが、今はいない。初めて高館ですごした夜を最後に、行信とは言葉も交わしていない。

 夜はもちろんのこと、昼間、姿を見かけて美野が声をかけようとしても、行信がそれをさせなかった。

 一人で見る鼓星は、心が安まるどころか、淋しさがつのるばかりだった。美野は、視線を下に向けた。

「高館」という名が表すように、この館は小高い丘の上に建っていた。その裏手には、衣川が流れている。月の光を反射して、衣川の水面は、はかなげに光っていた。

 美野は、背後に人の足音をきいた。一瞬、胸をときめかせたが、それは行信のものではなかった。


「子を……宿しているのか?」


 義経の声だった。美野はゆっくり振り向き、うなずいた。


「そうか……」


 義経はじっと衣川を見つめている。


「九郎さまにこのことを知らせたのは、月影ですか?」


「そうだ」


「勘のいい人なんですね……少し、こわい」


 美野が言うと、義経はふりむき、言った。


「月影が気づいたのは、あれが女だからだろう」


「女!?」


 美野は驚き声を上げた。確かに、男にしては美しすぎると思っていたが、女だとは考えもしなかった。


「事情があって男の姿をしているが、女なのだ。だから、美野のことを心配している」


「そうですか。……ご郎等は、みなさんご存じなのですか?」


「知っているのは、私と佐藤忠信くらいのものだろう。美野も、他言はしないでくれ」


「はい」


 美野がそう言ったとき、義経は唐突に、


「すまない」


 と、頭を下げた。

 何に謝られているのかわからないでいる美野の顔ではなく、夜空の星を睨み付けるようにしながら言った。


「行信と夫婦にしてやりたいが、周りの者が許さないだろう。だから……その子は私の子として育てる。到底耐えられないだろうが……すまない、我慢してくれ。行信には……私から話しておく」


 おそらく、それが今できる最善のことなのだろう。義経の精一杯の誠意に、美野は、別の涙があふれた。


「夜風は身体に毒だ……寝所へ戻りなさい」


「九郎さまは?」


「私はもう少し、川を見ている」


 美野は寝所へ戻ったが、その夜、義経はついに寝所へは姿を見せなかった。


 翌年の春、桜の花のつぼみがほころびかける頃、美野は産気づいた。

 その日、行信は、庭の木陰に長い間たたずみ、回廊を侍女たちが忙しそうに行き交うのを見ていた。朝から、産婆が来たり、近所の女たちが手伝いに来たりして、館はにわかにあわただしくなっていた。けれども、日が暮れかけている今も、無事生まれたという知らせはない。


「初めてのお産は、長引くものだと、産婆が言っていた」


 姿の見えない行信を捜しに来た月影が言った。

 行信は祈るように目を閉じた。


「行信……」


 月影が何か言いかけたとき、元気のいい赤ん坊の産声が館中に響きわたった。

 月影と行信は顔を見合わせた。そして館へ戻ろうとする月影に、行信は言った。


「月影……お方さまが……お方さまがご無事かどうかだけを……」


 月影は最後まで言わせずに、


「わかった」


 とうなずき、屋敷の中へ入っていった。


 月影が庭へ戻ってきたとき、木陰に立っていたのは行信でなく、義経だった。行信は、義経の足元に座り、頭を下げていた。月影は立ち止まり、物陰に身を隠した。

 義経は行信の前に跪き、言った。


「美野は元気だ。生まれた子は、女だった」


 行信は下を向いたまま顔を上げられずにいた。義経は落ちている小枝を拾い、地面に字を書いた。


「この名で、いいな?」


 行信の声は聞こえない。義経は続けた。


「おまえにも、美野にも、つらい思いをさせてしまう。義経の子として、大切に育てるから……許してくれ」


「御大将……」


 行信はそれ以上、言葉が出ない様子だった。義経は行信の肩を二、三度たたき、その場を去って行った。


 行信は、義経が地面に書いた文字を、それが我が子であるかのようにいとおしそうにいつまでも撫でていた。そこには「雪野」と書かれていた。

 月影は、自分が言うことはもう何もないと悟り、その場を離れた。


 そんな二人のやりとりも、義経の郎等たちに、雪野のことがどう伝わったのかも、美野には知らされなかった。

 とにかく、雪野は義経の子としてあつかわれたし、美野自身も、義経の北の方として生活に変化はなかった。美野は一日の大半を雪野とすごし、そしてその暮らしに満足していた。

 行信とは顔を会わせることがあっても、話をすることはできなかった。それは少し淋しかったが、その淋しさも、雪野がうめてくれた。


 高館の木が紅く色づく季節になっていた。美野は庭に筵を敷き、はいはいを始めた雪野を遊ばせていた。そばには月影がいた。

 義経の郎等の中では、月影が一番よく雪野の世話をしてくれた。美野自身も、女だと知ってから安心して頼れるようになっていたので、月影と話す機会は多かった。


「前から聞きたかったのだけれど……あなたはどうして、男の姿をしているの?」


 侍女が席をはずしたとき、美野は聞いてみた。


「それは……」


 月影は言葉を濁した。美野はあわてて言った。


「ごめんなさい。言いたくないのなら、無理に言わなくていいの。いろいろ事情があるのでしょうから」


「申し訳ありません」


 月影は頭を下げた。


「あなたに、お願いがあるのだけれど……」


 美野は、声をひそめて言った。


「何でしょう?」


 美野の真剣な表情に、月影は居住まいを正した。


「あなたは、ずっと九郎さまに従っていかれるのでしょう?」


「そのつもりですが……」


「それならば……もし、もし、わたくしに何かあったら……」


「何か……?」


「ええ……もし、わたくしが……死ぬようなことがあったら、雪野をお願い」


「お方さま!」


 月影の声は知らず知らずのうちに大きくなっていた。美野は唇に手をあて、月影を制した。


「不吉なことを、おっしゃるものではありません」


 月影は声を落として言った。


「お方さまには、雪野さまのためにも、長生きしていただかなくては……」


「そうしたいけど……だめかもしれない」


 近頃の不穏な状況は、美野にもわかっている。

 鎌倉から、義経を差し出せと何度も催促が来ている。

 義経の生死は、藤原泰衡の判断にかかっている。彼が鎌倉に従えば、義経は虜囚として鎌倉に送られるか、あるいは、ここで死を迫られるか……。


 反対に鎌倉に楯を突けば、おそらく戦になる。

 そうなれば、義経は先頭に立って鎌倉と戦うだろう。

 どちらにしても、今の平和な暮らし長くは続かない。そして、義経の命が危険にさらされれば、影武者である行信は、おそらく……。

 行信が死ぬときは、自分も一緒に……その気持ちは、雪野が生まれた今も変わってはいない。しかし、雪野を道連れにするのはしのびなかった。


「お願い。あなたしか頼める人はいないの。わたくしにもしものことがあったら、あなたが母親代わりになって。勝手なお願いだとはわかっているけれど……本当に、ほかに頼める人はいないの」


 美野の真剣な表情に、その決意が堅いことを月影は悟った。


「わかりました。けれども……。お方さまや杉目殿を死なせることなど、御大将は決してなさらないでしょう」


「九郎さまはそういうお方でしょうけれど……」


 これ以上、義経の優しさに甘えるわけにはいかない。

 なにより、行信への思いを隠しながら、表向きは義経の妻である今の暮らしに、美野は疲弊していた。

 そんな美野の気持ちをどうくみ取ったのか、月影が不意に言った。


「今、御大将と、とある企てをしております。その企てがうまくいけば、お方さまの辛い立場も、変わっていくと存じます」


「企て?」


「詳しくは申せませんが」


「その企て、行信は知っているの?」


「……杉目殿には、まだ……」


 月影の表情が不意に曇った。

 その陰りの意味を、美野は推察できてしまった。

 どんな企てかわからないが、なにをするにしても、義経の影武者は役に立つのではないだろうか。いざというとき、身代わりの行信が死ねば、その企てはうまくいくのではないか。


 そして、必要となれば、行信は進んで死を選ぶ。それがわかっているから、月影は、あえて行信にはその企てを話していないのだ。

 だが、早晩、行信も知らされるだろう。そして、行信が死を選ぶのならば……。


「……人が死ぬと、どうなるのかしら……」


 つぶやくような美野の言葉に、月影は目を見張った。


「あの世というものがあるのかしら。そこでなら、人は思いのままに暮らせるのかしら」


 もし、そうなら、あの世で、行信と夫婦として暮らしたい。

 そんな儚い夢を思い描く美野の耳に、月影の言葉が届いた。


「あの世とやらがあるのかどうか、私にはわかりません。ですが、私は、輪廻転生を信じております」


「輪廻転生……」


 聞いたことのある言葉だった。その知識は美野にもある。


「人は、生まれ変わる……と?」


「はい。身体は朽ち果てても、魂は生き続け、再びこの世に生まれ出る。そして、魂が結ばれている二人なら、生まれ変わっても、きっとまた巡り会える。……私は、そう信じています」


 それならば……ここで二人が死んでも、また巡り会えるということなのだろうか? ほんの少しの希望を美野が感じたとき、月影が言葉を足した。


「……それでも、命を軽んじてよいとは思いません。ただ、この世で別れてしまっても、それで終わりではないし、人を愛しいと想う強い気持ちは、たとえ死であっても、断ち切ることはできない……そう、信じています」


 月影が、なにを思ってそんなことを言ったのか、美野にはわからなかった。

 けれど、その月影の言葉は、まるで救いのように美野の心の深いところに落ち着いた。



次回、最終話。

北へ向かう物語は、ひとつの答えにたどり着きます。

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