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最終話 高館、最後の夜

史実の陰に埋もれた、名もなき選択と、それでも確かに存在した恋の行方を描きます。


 春の終わりの夜のことだった。

 美野は、雪野の寝顔を見つめていた。その手にはしっかりと天児が握られている。ついさっきまでこの天児ではしゃいでいた雪野は、遊び疲れて眠ってしまった。


 美野は、天児に手を触れながら、陸奥の山中の小屋での暮らしを思い出していた。雪野が、あの小屋で生まれていたのなら、自分と行信の運命は変わっていたかもしれない。

 高館で生まれたために、行信は父親と名乗るどころか、一度として雪野を抱いたこともない。義経は、雪野に優しく接してくれている。もうすぐ、言葉が話せるようになったなら、雪野は義経を「父」と呼ぶのだろう。

 それは、はたして雪野にとって幸せなのだろうか。行信は、それを見てどう思うのだろうか。そんなことを考えながら、美野は雪野の頬にさわった。ふんわりと柔らかい感触が手にひろがった。


 行信と二人で暮らした日々の思い出の品は、雪野の持っている天児ひとつだけだと美野は思っていた。でも、そうではないのかもしれない。最大のあかしは、雪野の存在。雪野が生き続ける限り、自分と行信の絆は繋がっている――そう美野は思いたかった。


 そんな美野の物思いを破ったのは、月影だった。


「お方さま」


 几帳の中に入ってきた月影は低い声で言った。


「お願いがあります。何も聞かず、私と一緒に来てください」


「でも……雪野が……」


 寝ついたばかりの雪野を、美野は見た。


「雪野さまのことは、兼房に頼んでありますから……」


 月影が几帳を上げると、そこに兼房が座っていた。


「お願いです。今日しか日がないのです」


 月影の声には、切羽詰まったものがあった。


「今日しかって……どういうことなのですか?」


「何もきかずに……お願いします」


 月影に深々と頭を下げられて、美野はうなずいた。

 月影は冗談を言う人間ではない。彼女がここまで言うには、それなりの理由があるのだろう。

 月影が案内したのは、林の中にある小屋だった。月影に続いて美野が中に入っていくと、暗闇の中、一人の男の影が見えた。


「月影殿か。私がここに呼び出されたということは……」


 行信の声だった。美野の心臓はピクンと鳴った。月影は黙って灯りをともした。


「お方さま!」


 行信は驚き、月影の顔を見た。

 月影は言った。


「杉目。約束を果たす時が来たのだ」


「礼を言います、月影殿」


 行信は深々と頭を下げた。

 月影は、美野に、


「雪野さまのこと、御心配なく……」


 と言い、小屋を出ていった。


 美野は、行信の顔を見つめた。もう一年以上も親しく言葉を交わしていない。けれども、こうして見つめあっていると、その時間はなかったかのように思えてくる。

 美野は行信に手をさしのべた。行信はその手を取ると、美野を自分の胸へひきよせ、強く抱きしめた。


「行信……」


 美野の唇は行信の唇にふさがれた。そして行信は美野を抱き上げ、夜具の上に静かに横たえた。


 まどろみかけた美野が、ふと気づくと、行信は天井を見上げていた。

 急ごしらえだったのか、穴だらけの天井から星の瞬きがみえる。


 行信は美野の肩を抱きよせた。そして、空を指した。

 鼓星が輝いていた。もう一度、二人で星空が見られる夜が来るとは、美野は思ってもいなかった。そのとき美野は、月影の言葉を思い出した。

『約束を果たす時』と言っていた。月影と行信は、どんな約束をしたのだろうか。


「行信……月影が言っていた約束とは、何のこと?」


「それは……」


「隠さないで。こうしてあなたと二人だけで話せる機会なんて、少ししかないのだから……本当のことを言って」


 行信は、静かにうなずいた。


「秀衡さまが亡くなられて、すでに一年半。……泰衡さまは、頼朝さまの命令に逆らえなくなっているらしいのです」


 美野は息をのんだ。高館での平和な暮らしも、終わりを告げるときが来たのだろう。


「おそらく、ここ二、三日のうちに、いや、早ければ明日の夜にでも、高館は泰衡さまの軍に襲撃されるでしょう」


「戦が始まるのですね」


 美野の身体は自然と震えがきていた。話には何度も聞いたが、実際の戦は見たことがない。


「戦とは言えないでしょう。高館にいる者は二十人足らず……かなうはずがない」


「では……」


「御大将は、戦をしないですむ方法を、考えておいでです」


 つまり、それが、以前月影が言っていた企てだろう。

 そして、行信の表情に、覚悟を決めた者のすがすがしさを美野は見つけた。

 だからこそ、行信は今夜、何のためらいもなく美野を抱いたのだろう。その企ての成功のために、行信は影武者として死ぬのだろう。


「行信が死ぬときは、わたくしも死にます」


「美野には……生きていてほしい」


 美野はふっと微笑んだ。「お方さま」ではなく、「美野」と呼ばれたことが嬉しい。


「たぶん、そう言うと思っていました。でも、それは行信の身勝手……」


「美野」


「わたくしが何を言っても、行信の考えは変わらない。仮りに、わたくしが『今、ここから二人でどこかへ逃げましょう』と言っても、絶対に逃げたりはしないでしょう?」


 行信はうなずいた。


「それなのに、わたくしにだけ生きろというのですか?」


「雪野のことが……母親がいなくなっては、かわいそうで」


 美野の頬を涙が流れた。


「……だから、行信は身勝手。父親は、あなた。あなたは、父親であることよりも影武者として死ぬことを選んだ。だから、わたくしも、母親であることよりも、杉目行信の妻であることを選ぶのです」


 静かに告げる美野を、行信は抱きしめた。そして、一言、


「すまない」


 とだけ言い、それ以上はもう何も言わなかった。


 翌朝――。

 外から聞こえる物音で、美野は目を覚ました。

 行信も目を覚ましたらしく、小屋の外の様子をうかがっていたが、なにかに気づくと、不意に飛び出していった。


 間もなく、なにか争うような声と音が聞こえ、そして、静かになった。

 おそるおそる美野が外の様子をうかがってみると……。

 行信が、ひとりの男を取り押さえていた。

 男の右腕を逆手にねじ上げ、地面に身体を押しつけている。


「っ!」


 美野が、息を飲んだ気配に、地面に伏せていた男が顔を上げた。


「梶原っ!!」


 考える間もなく、そう叫んでいた。

 忘れたくても、忘れられない顔だった。


「やはり……?」


 行信の問いかけに、美野ははっきりとうなずいた。


「梶原景時です。間違いありません」


「やはり、そうでしたか。平氏との戦では、遠目に見ただけでしたので……」


「それにしても、どうして……?」


 こんな早朝に、しかも配下の郎等も連れずにひとりでなにをしているのだろう。


「ご説明願おう」


 行信が問いただすが、梶原は答えない。

 すると、行信が腕に力を込めた。


「うっ!!」


 梶原がうめく。

 美野は、梶原の顔を覗き込んだ。

 ひどく憔悴した顔だった。目は血走り、顔のあちこちに小さな傷もついている。よく見れば、着物も汚れ、あちこちにかぎ裂きが出来ていた。


「こんなところで、なぜひとりでいるのです? 梶原平三景時」


 呼び捨てにされ、梶原が美野を睨み付けた。

 だが、美野は怯まなかった。


「わたくしは、あなたをよく知っています。父の仇ですから」


「……父?」


「あなたが、卑怯な手で殺した、上総介広常」


「介八郎の……娘?」


 梶原の目が、驚きに見開く。


「この平泉に来たのは、義経さま追討のためでしょうけれど、何故、ひとりで?」


 梶原は答えない。


「言わないのなら、このまま、御大将の前に引き連れていくまでのこと」


「やはり、判官の配下か。だが、その判官の命も、今日限り」


 梶原は得意げに言ったが、美野も行信も驚かなかった。今日、高館が襲われるのは、ふたりにとっては自明のことだった。

 ふたりが平然としているのが意外だったのか、梶原は、いぶかしげに美野を見上げた。


「介八郎の娘が、何故ここにいる? 千葉常胤預かりになっていたはず」


「天の導きかもしれません。わたくしに、父の仇を討てという……」


「仇討ちをなさるのでしたら、助太刀いたします」


 行信が悠然と言い、梶原の顔から血の気が引いた……その時。


「卑怯な振る舞いばかりしていたつけが、回ってきたようだな、梶原景時」


 その声は、月影のものだった。

 美野たちを迎えに来たのか、月影は雪野を抱いていた。


「もし、お方さまが仇討ちをなさるおつもりなら、雪野さまを遠くへお連れいたしますが?」


 月影に問われ、美野は、はっと我に返った。

 梶原への憎しみだけで支配されていた美野の心に、雪野に対する母性が甦った。

 美野は、立ち上がると、月影から雪野を抱き取った。


「いいえ。このような卑怯な男、仇討ちの価値もありません。そんなことで手を汚してしまったら、雪野を抱けなくなります」


「わかりました。それでは……」


 月影は、行信と示し合わせて梶原を縛り上げると、彼を連れて、そこから立ち去った。


「あと少しなら、時間があるから……」


 と、行信に言い残して。


 その際、月影は、梶原がここにいたのは自らの郎等に裏切られたためだと教えてくれた。

 梶原は密かに義経の首級をとり、自分ひとりの手柄にしようとしていた。度重なる彼の卑怯な振る舞いに辟易としていた郎等たちは、示し合わせて、彼を騙したのだ。

 義経がいる場所に案内すると言って、深夜、森の奥深くに連れて行き、そこに置き去りにした。一晩中さまよい歩いた梶原は、偶然、美野たちのいる小屋までやってきた……というわけだった。


 美野は、父が彼をここまで導いたのではないか……と感じた。

 梶原はもう自滅しているのだから、仇討ちをする必要も、恨みを持ち続ける必要もない。そう、父が言ってくれている気がした。

 美野は、行信と雪野、三人の最後の時を過ごすために、小屋に戻った。


「雪野……」


 雪野は、美野と行信に、とても嬉しそうに天児を見せた。

 その天児を見て、行信は涙ぐんだ。


「さわっても……いいですか?」


 美野がうなずくと、行信は雪野の頬に手をふれた。


「やわらかい……そして暖かい……」


 美野は、雪野を行信の腕にあずけた。最初はこわごわと抱いていた行信だったが、思いがつのったのか、不意に強く抱きしめた。何も知らずに戸惑った表情を見せた雪野をあやしながら、美野はその行信の姿を心に焼きつけておこうと思っていた。


 その日の夜、高館は泰衡軍に襲撃を受けた。高館にいるわずかな武士だけで、応戦などできるわけがなかったし、義経には始めから戦う意思もなかった。

 叫び声や矢の音の聞こえる部屋で、美野は雪野を抱いていた。自然に震えてしまう身体を、なんとか抑えようとしたが、無理だった。そんな美野のそばには、ずっと月影が寄り添っていたくれた。


 やがて、鎧兜を身に着けた義経が入ってきた。


「美野! 月影! 用意ができた。行くぞ!」


「はい!」


 月影は答えたが、美野は、「はい」とは言えなかった。


「どこへ行くのです?」


「衣川を船で下り、北へ逃げる」


「北へ……では、戦はしないのですね」


 義経はかすかに笑った。


「この人数で勝てるわけはない。それに、いくら向こうから襲ってきたとはいえ、兄弟のようにして育ってきた泰衡殿と戦いたくはない」


「さあ、お方さま」


 月影に助けられて美野が立ったとき、やはり鎧兜に身を固めた行信がやってきた。


「行信、ちょうどよかった。美野と雪野をたのむ。船まで連れて行ってくれ」


 義経は言ったが、行信は動こうとはしなかった。


「行信」


 行信は義経の前に座り、手をついた。


「私を、ここで死なせてください。御大将の影武者としての役目、果たしたいと思います」


「ばかなことを言うな! 私はおまえを影武者として死なせようと思ったことなど、一度もないぞ! もう何人もの者が、私のために死んでいる……継信も、景光も……多くの者が……これ以上、死ぬのを見たくない!」


 行信は顔を上げた。澄みきった美しい表情だった。


「御大将……北へお逃げになっても、源九郎義経は生きているということになれば、頼朝さまはどこまでも追手を出すことでしょう。そうなれば、結局また誰かが死にます。ここで私が死ねば、源義経は死んだと頼朝さまも安心し、もう追っては来ないでしょう」


「それは分かっている。だから、月影が死体を用意してある。あれを残して行く」


「その死体、この行信も見させていただきました」


 行信は微笑した。


「おそれながら、御大将とは似ても似つかぬ容姿。年齢も、かなり上と見え、白髪混じり……あれでは、鎌倉の目はごまかせません」


「館に火をつけ、焼け首にしてしまえば……」


 そう言う義経の言葉を、行信はさえぎった。


「形をとどめぬ首級であれば、疑いはますます濃くなりましょう」


「行信……しかし……」


「お願い申し上げます。それが私の役目。そのために生きてきたのです。ここで死ななければ、杉目行信の生きる価値はなくなります」


 義経は黙っていた。美野にはその沈黙が何時間も続くように感じられた。やがて、義経は刀を腰から取り、行信の前に差し出した。行信は義経の刀を黙って受け取った。

 その瞬間、美野の心も決まった。


「お方さま……」


 月影にうながされても、もう美野は立たなかった。


「お方さま!」


 月影の悲鳴に近い声に、行きかけた義経は振り返った。


「美野」


「九郎さま……美野の最後のわがまま、お許しください。わたくしはここで、行信とともに死にとうございます」


 義経は黙って美野を見ている。


「わたくしが、九郎さまの北の方であることは、誰よりも、頼朝さま政子さまがよく御存じです。そのわたくしがともに死ねば、九郎さまの死は、一層真実味が増すでしょう」


「美野も、私を生かすために死ぬというのか?」


 義経は苦しげな声で聞いた。美野はゆっくり首を横に振った。


「出来るなら、ともに生きたかった。でも、それは叶いませんでした。だから……この世では寄り添うことが許されなかった夫と、あの世で添い遂げたいのです」


 義経は、行信を見た。

 行信は、しっかりと義経を見つめ返し、そしてうなずいた。

 美野は、雪野を月影の腕にゆだねた。


「いつかの約束……憶えている?」


 涙で声も出ない月影は、ただうなずくばかりだった。


「月影! 行くぞ!」


 義経は必要以上の大声で叫んだ。おそらく、涙を隠すために……。


「はい!」


 月影も涙を振り切るようにして立ち上がり、二人は足早に去って行った。


 残された美野と行信はじっと見つめあった。

 行信は、もう泣いてはいなかった。


「お方さま……」


 行信が言いかけると、美野はさえぎり、言った。


「美野と呼んでください」


「美野!」


 行信は、美野と雪野を抱きしめた。


「行信……輪廻転生を信じる?」


「輪廻転生ですか……?」


 美野の問いの意味が、行信にはすぐに分からなかったらしい。


「人は死んでも、魂は生きていて、いつか――何十年か、何百年かあとに、また生まれ変わる――それを信じる?」


「……考えたこともなかった……美野は?」


「わたくしは、信じています」


「それならば、私も信じよう」


「行信……わたくしは、生まれ変わったらあなたを待ちます。だから、あなたが生まれ変わったら、わたくしを捜してください。そして、もう一度、わたくしを……」


「捜します。そして……必ず見つけ出す。そのときこそ、夫婦になって、共白髪まで添い遂げましょう」


「うれしい」


 泰衡軍の射かけた火矢のためか、高館は炎につつまれ始めた。行信の美野のいる部屋にも、炎が忍びよってくる。


 行信は、美野を抱きしめていた手をはなした。そして、義経から受け取った刀を抜いた。


「美野……」


 行信は刀をかまえた。その手が、かすかに震えている。

 美野は静かに目を閉じた。それを見た行信の震えは止まった。


 炎は、影のように行信と美野をつつんでいった。



ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

美野と行信、そして雪野の物語は、ここで一区切りとなります。

雪野のその後については、前作「義経を追って」にて描いております。

最後までお付き合いいただけたこと、心より感謝いたします。

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