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17 星に願わず

願うことすら許されない夜、それでも空は変わらず、星は、静かに瞬いているのです。


 風花の舞う中、美野と行信は奥州平泉に着いた。

 二人で幸せで穏やかな時を過ごしたあの小屋をあとにしてから、三日後のことだった。

 追手のことも考えて、二晩は野宿で過ごした。叡山の旅の時のように、美野は行信の胸で眠った。だが、行信は美野を再び「お方さま」と呼ぶようになっていた。

 陸奥の山中で夫婦として過ごした一年間が、夢の中での出来事のように感じられた。そして、もう二度ともどってはこないその時間が自分の一生の中で一番大切なものになるだろうと、美野は予測していた。


 平泉の町は美しかった。京とよく似ていたが、京よりも、のびのびしている感じだった。そして、いたる所に金が使われていた。美野がひときわ美しい館に目をうばわれていると、行信が言った。


「お方さま」


 『お方さま』と呼ばれるたびに、美野の心に冷たいなにかが走る。けれども、美野はそれを必死で隠した。


「あれが、伽羅の御所です。藤原秀衡さまが亡くなられてしまわれたので、今は、御子息の泰衡さまが住まわれているのでしょう」


 藤原秀衡は、義経が十六才から二十二才まで平泉で過ごしたとき、義経にとっては父がわりともなってくれた人だと、行信は教えてくれた。

 兄・頼朝から追われる身となったとき、義経が最終的に頼れたのは、秀衡だけだったのだろう。しかし、その秀衡もつい最近亡くなったという。行信と美野は平泉に向かう旅の途中でそのことを知った。

 秀衡の跡は、嫡子である泰衡が継いでいる。泰衡とは兄弟のようにして育った、と、聞いたことがある。


「伽羅の御所に寄って、泰衡さまに御挨拶するのですか?」


 美野はたずねた。行信はもともとは藤原秀衡に仕えていたというから、戻ってきたことを報告するのだろう、と美野は思ったのだ。


「いいえ。私がここに――御大将のおそばにいることは、知られないほうがいいでしょう」


「どうして? 泰衡さまは、九郎さまの味方でしょう?」


 行信は首を横に振った。


「秀衡さまが生きていらっしゃっれば、私も伽羅の御所に参上いたします。しかし、泰衡さまは……」


「九郎さまをよく思っていらっしゃらないのですか?」


「いいえ。泰衡さま自身は、御大将のことは兄弟のように思っていらっしゃるでしょう。ただ、秀衡さまと違い、頼朝さまに逆らうだけの力があるかどうか……」


 美野はひどく不安になってきた。

 この美しい平泉の町に入ったとき、美野は「もう安全だ……」と思ったのだ。ここは行信の故郷でもあるし、義経が七年間も過ごした土地なのだ。行きかう人々も、みなのんびりしていて、優しそうに見えた。


 平泉までの三日間の旅は、ことに美野にとってつらかった。一年間の平和で穏やかな暮らしに慣れてしまっていたからか、ひどく疲れやすく、歩くことがつらかった。めまいをおこして倒れそうになることも、しばしばだった。

 行信はずいぶん気遣ってくれたが、それでも先を急ぐ気持ちがわかるので、美野はかなり我慢をしていた。

 とにかく、平泉にさえ着けば、もう一日中歩かずに済む。夜も、家の中で眠ることができる……と思い続けていたので、美野は、正直ほっとしたのだった。


 けれども、この状態では安心もしていられないらしい。

 美野の不安な顔に気づき、行信は言った。


「申し訳ありません。御心配させるようなことを言ってしまいました」


「泰衡さまは、九郎さまを裏切るのでしょうか?」


「そうと決まったわけではありませんから。少なくとも、ここしばらくはまだ大丈夫でしょう」


 ここしばらく――いったいどのくらいの時を言っているのか……一年……一か月……それとも、二、三日……?


「さあ、お方さま、行きましょう」


「どこへ?」


 反射的に聞いてしまった。伽羅の御所へは行かないと言っていたのに……。


「御大将はおそらく、あの上の館にいらっしゃると思うのです。以前に平泉にいらっしゃったときも、あの館でしたから」


 行信が指したのは、伽羅の御所と向かい合わせになっている小高い丘の上の館だった。


「土地のものは『高館』と呼んでいます」


 と行信は教えてくれた。

 行信に手を引かれながら、美野は坂を登った。息切れがして苦しい。今までなら、このぐらいの坂はなんともないはずなのに、何故か最近疲れやすい。最近体の調子がおかしいのは、なにか悪い病気なのだろうか……と美野は不安になった。


 登っていった行信と美野を最初に見つけたのは、鷲尾三郎義久という郎等だった。鷲尾は二人の姿を見ると、


「杉目殿……お方さま……!」


 と叫び、館の中に入っていった。


 義経は涙ながらに行信を迎えた。義経の周囲を取り囲む郎等たちは、驚くほど少なくなっていた。もともと心を許せる郎等は少ない義経だったが、今の義経を守っているのはわずかに二十人足らずだった。

 主な者は、鷲尾三郎義久、常陸坊海尊、増尾十郎兼房、伊勢三郎能盛、佐藤四郎忠信、そして、月影。外にも数名の郎等が、義経を囲んでいた。 

 静御前がいるのではないか――と美野は思っていたが、女性の姿はなかった。


 その夜、美野は義経の寝所へ通された。美野は北の方なのだから、当然のことだった。けれど、美野はその前に、行信の方をすがるように見た。行信に言ってほしかった。「美野は、もう私の妻です」と。

 行信は、一瞬だけ何か言いかけた。だが、その言葉が発せられることはなかった。夫婦として暮らしていたときには一度も見たことのない苦しげな表情で唇をかみしめ、そして、美野から視線を逸らした。


 義経が入ってきて、美野は身体をかたくした。義経は黙って美野の前に座ると、いきなり手を床につき、頭を下げた。


「すまなかった。許してくれ」


 何のことか分からず、美野がうろたえていると、頭を下げたまま義経は言った。


「私のために、河越重頼殿と重房殿を死なせてしまった」


 美野は胸がいっぱいになった。やはりこの人は誠実な人なのだ。


「お手をお上げください。九郎さまのせいではありません。それに……」


 もう、真実を隠す必要はない。

 誠実さには誠実さで返さなければならない。


「謝らなければならないのは、わたくしです。わたくしは、河越重頼の実の娘ではありません」


「そうではないかと思っていた。大事な娘御を、九郎ごときには嫁がせられないとお考えになったのであろう?」


 その苦い口調に、美野はようやく気づいた。

 堀川館での義経のよそよそしさは、鎌倉の間者であると疑っているからだけでなく、河越重頼の息女ではなく身代わりが嫁いできたことにもあったのだと。


「そのように考えたようです。河越重頼殿ではなく、総御前が……」


 その名を聞いて、義経は得心がいったという顔をした。総御前がどういう人間だか、義経は知っていたのだろう。


「わたくしの実の父は、上総介広常です」


「介八郎殿か!?」


 義経は、驚きを隠さなかった。


「はい。実は……」


 美野は、自分が郷の身代わりになったいきさつを話した。


「そうか……。介八郎殿の娘御であったのか。立派なお方であったのに。梶原景時に卑怯な手で殺されてしまい……。改めて、お悔やみ申し上げる」


 丁寧に頭を下げられ、美野は心が熱くなった。

 義経も、父の殺され方に憤りを感じていてくれたのだ……と。

 その想いが涙となってほほを伝う。

 そんな美野を見つめて、義経がいたわるようにいった。


「あなたにも、ずいぶん辛い思いをさせてしまったのですね。実の父ばかりか、義理の父である河越殿まで失って……」


 河越重頼と重房は、自分を本当の娘や妹のように大切にしてくれたこと、そして、美野自身も実の父や兄同様に打ち解けていたことも、美野は義経に話していた。


「私の味方だと、兄に誤解されて……鎌倉の御家人なのに……」


「河越の父も兄も、九郎さまをうらんだりはしていないでしょう。兄は、九郎さまの武者ぶりにすっかり心酔しておりましたし……父もわたくしにこう言ったのです。『義経殿はりっぱなお方だ。何があろうと、おまえはあの方の妻として生きていればよいのだ』と」


「だから、総御前の……いや、政子様の言いつけに従わなかったのか。そうとは知らずに、私は……」


「九郎さまが、わたくしを間者だと思い、疎んじていらっしゃることは気づいておりました。それは、仕方のないことだとも思っていました」


「何故、本当のことを言ってくれなかった?」


 義経の口調は後悔の色を帯びていた。


「わたくしは、間者などするつもりはありませんでしたが、梅枝は――政子さまがわたくしにつけた侍女は、事実、その仕事をしていました。わたくしにはそれを止めることができませんでしたから……」


「梅枝のことは、美野の罪ではあるまい」


「九郎さまなら、きっといつか、わたくしのことも、父や兄のことも分かってくださるはずだ――と、思っていたのです。ですから、わたくしは、その時を待とうと……」


「許してくれるか、今までのことを……美野にも、美野の父上にも兄上にもひどいことをしてきた私を……」


「九郎さまが、悪いのではありません」


 そのとき不意に、吐き気をおぼえた。こらえられそうにもなかったので、美野はあわてて立ち上がった。


「美野」


 戸惑う義経の横をすりぬけ、美野は庭へ走り出た。

 暗闇の中、よくわからない場所を走りぬけ、大きな木の下まで来た。そこで、吐いた。

 吐いたあとに、手で土をかけながら、美野は、ここ最近の不調の原因を悟った。

 それに思い至った途端、涙があふれてきた。


 美野は木の根元に座りこんだ。様々な思い出が頭の中を交錯し、涙は止まらなかった。雪こそ降っていなかったが、寒さは肌につきささるようで、凍え死んでしまうのではないか――そんなことをぼんやりと考えていた。


 そのとき、美野の耳に足音が聞こえた。美野は目を閉じ、その足音の主が近づいてくるのをじっと待った。足音が自分の前で止まったとき、美野は目を開き、顔を上げ言った。


「行信」


 行信は黙って美野の隣に座り、冷えきった身体を温めるように抱きしめた。そして、夜空の一点にすっと手を伸ばし、指さした。行信の指した空には、鼓星が輝いていた。


「きれい……」


 美野が小声でつぶやくと、行信は、


「私は、もう一度三つ神様に願い事をいたします」


 何を……とは聞かなかった。

 聞くのが怖かった。その願いがどんなものか、予想が出来たから。


「それでは、わたくしも願い事をいたします」


 美野と同じように行信も「何を?」とは問わなかった。

 二人で星空をながめながら、どのくらいの時を過ごしたのだろうか。うつらうつらし始めた美野に、行信は、ひどくかすれた声で言った。


「お方さま、ご寝所にお戻りください」


 美野の眠気は、一瞬にして消えた。


「寝所へ戻るということが、どういうことだかわかって言っているのですか?」


 行信はうなずいた。星明かりでは、その表情はわからない。だが行信が考えを変えることはないだろうと美野は悟った。


「わかりました」


 美野は言い、立ち上がった。

 行信が案内してくれた井戸で、手と顔を洗い、美野は寝所に戻っていった。

 かなりの時間がたっていたはずなのに、義経は眠ってはいなかった。夜具もかけずに座ったまま、灯かりをじっと見つめていた。その瞳は、今までに見たことのない淋しさが宿っていた。


『九郎さまも、決して幸せではないのだ』


 そう美野は思った。

 美野が寝所に入っていくと、義経は、


「大丈夫か?」


 とだけ言った。美野がうなずくと、ふたたび灯かりを見つめた。その瞳の暗さに戸惑い、美野はきいてみた。


「静御前は、今どうなさっていますか」


「行方が分からない」


 義経は目を伏せた。


「鎌倉を発った後の消息が分からないのだ。子どもを……生まれた子が男の子だったので、兄に殺されてしまって、その心痛から病になり、死んだ……という噂もある」


「お気の毒に……」


 美野は目に涙をためて言った。


「泣いてくれるのか? 静のために」


 義経は美野をじっと見つめていた。


「すまないが、ここにいる間は、私の妻のふりをしてくれないか。いろいろな方に、新しい妻をと、次々に娘を紹介されて困っていたのだ。それに、郎等たちも、美野を北の方だと思っている……夜、同じ部屋に寝てくれるだけでいい」


 義経の言葉は、信じられた。だいたい、義経はうそをついたことがない。むしろ、正直すぎるくらいの人間だから、これも真実の気持ちだろう。

 行信の目の前で、義経の妻を演じる……そんなことが自分にできるのか、まるで自信はない……が、おそらく、行信はそれを望むだろう。


 美野は覚悟を決め、義経に向かって頷いて見せた。


願いは口にすれば叶うわけではなく、言葉にしなかったからといって、消えるものでもありません。

この夜、三人は、それぞれに違う覚悟を胸に刻みました。

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