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16 天児の夜

人は、幸せのただ中にいるときほど、その終わりに気づかないもの……。

それが、あまりにもささやかで、手のひらに収まるほどの幸福であれば、なおさら。


 トキがその名を言ったとたん、美野は自分の身体がびくっと震えるのを感じた。それを隠すように素早く目をふせ、言った。


「違うわ」


 そんな美野の変化を、トキは敏感に感じとってしまったらしい。しばらく黙っていたが、やがて言った。


「分かってるわ。冗談よ。でもね、みんなで言ってたのよ。義経さまなら、大歓迎だってね」


「義経さまだと、どうして?」


「だって、おごりたかぶっていた平氏をやっつけてくれたのは、義経さまでしょ? 頼朝さまなんて、ずっと鎌倉にいて……実際に戦ったのは、義経さまじゃない。それなのに、頼朝さまにうとまれて……お気の毒だって、みんなで言ってたの」


「でも、小太郎は、義経さまじゃないわ」


 美野はそう言ったが、トキはそれを言葉通りに受け取らなかったようだった。

 その証拠は数日たってあらわれてきた。土地の者たちが、毎日のように、数々の品を、行信と美野のもとへ届けるようになったのだ。畑でとれた野菜や穀物。けものの肉や魚。薪や木の実など、次々に届けられた。


「いったい、どうしたのだろう?」


 不思議がる行信に、美野は言った。


「噂が立ってしまったのです。あなたが源義経じゃないかって。トキさんにきかれたとき、わたくし、違うって言ったのだけど、どうしても変な言い方になってしまって。トキさんはすっかり、九郎さまだと思いこんでしまったみたい」


「そうですか……」


 行信は届けられた品物を見て言った。


「御大将は、やはり民衆に慕われていらっしゃるのですね。御大将かもしれない……と思っただけで、こんなに周りが親切にしてくれる」


「わたくし、もう一度、トキさんに違うって言いましょうか?」


 美野がきくと、行信が首を横に振った。


「放っておきましょう。私たちが名乗ったわけではないのですから。……それに、噂が立つと、かえっていいかもしれません」


「何故?」


「ここに御大将がいるという噂が立てばそれだけ鎌倉の役人の目をごまかすことができます。それならば、ここにいるだけで、御大将のお役に立つでしょう」


 なるほど――。と美野は思った。同時に気づいた。行信が、どんなときでも「自分は源義経の影武者」という気持ちを持ち続けているのだということに。

 美野自身は、義経のことを思い出すことも少なくなっているというのに。行信は、美野と同じではないのだ。


「何を作っているの?」


 話をしながらも、行信がしきりに木を削っているので、美野はたずねた。


「仏像を彫りたいと思ったのですが……」


 行信は削りかけの木を見せながら、言った。


「むずかしい……」


 彫りかけの木像を見て、美野はくすくすと笑った。畑仕事も釣りも、食事の仕度も、何でもこなす行信だったが、彫り物の才能はないようだった。


「仏像には見えませんか?」


 笑いをこらえている美野の顔を見て、行信は言った。


「仏さまと言うよりは……立って歩いている熊……かしら」


 がっかりしている行信の様子がおかしくて、美野は笑いが止まらなくなった。


「熊……ですか」


 木像を美野の手から取りあげながら、行信は、


「いつまで、笑ってるんですか」


 と言った。いつも落ちついている行信が、すねた子どものような表情を見せたのがおかしくて、美野はますます笑ってしまう。


「いつまでも笑っていると……」


 そう行信は言いながら、美野の身体を床に押し倒した。驚いた美野が一瞬笑い止んだすきをついて、行信は唇を合わせた。


「ねえ……」


 行信の胸に頭をあずけて、美野は言った。


「仏像はむずかしすぎるから、天児(あまがつ)を作ってみない?」


「あまがつ……ですか?」


「知らない?」


「聞いたことがありません」


「わたくしも、話に聞いただけなのですけれど。子どものための魔除けだとか、公家のお姫さまが遊びに使うとか……こんな形なのだけれど」


 美野は、話にだけ聞いている天児の形を囲炉裏の灰の上に棒きれを使って描いてみた。


「こんなふうに人の形を作ってくれれば、着物はわたくしが作って着せます。どうかしら?」


「きれいな丸を作るのは、かえってむずかしいような気もしますが……」


 美野の書いた図を見ながら、行信は言う。


「多少いびつでもいいのと思う」


「やってみましょう……」


 そう言うと行信は、優しく美野の髪をなでた。


 美野は、行信の作った天児に着せる着物を縫っていた。縫い物はけっして得意ではなかったが、何枚も作るうちに、かなりうまくなっていた。


「遅い……」


 昨夜、行信が彫り終えた最後の天児に着物を着せたとき、日がもうすっかり暮れていることに気づいた。縫い物に夢中で気づかなかったようだ。

 ふと不安になる。「最近、街道筋が騒がしい」と行信が言っていたことを思い出す。トキも、「よそ者の姿をよく見かけるのよね」と、心配そうに言っていた。


「ううん。きっと大丈夫よ」


 不安を振り切るように、美野は手元の二体の天児を手にとって見た。我ながらよくできている……と思う。

 今、手元にあるのはこれだけだった。今までに作ったものは、村里の子どもにあげてしまった。小さな女の子などは、とても喜んでくれた。

 天児をながめていると、足音が聞こえた。

 美野は顔をあげた。足音だけで、行信だとわかるようになっていた。


「お帰りなさい。遅かった……」


 言いかけて、美野は言葉をのんだ。行信の表情はいつになく厳しいものだった。


「村里で噂が流れています。御大将は、平泉にいらっしゃると」


 美野は何と答えてよいかわからなかった。黙っていると、行信は続けた。


「早い方がいいでしょう。村人に迷惑をかけてもいけないし……今夜発ちましょう」


 美野の返事を待たずに、行信は荷造りを始めていた。その姿をぼんやりと見ながら、美野は言った。


「平泉に……行くの?」


 行信は手を止め、まっすぐに美野を見つめた。


「はい」


「影武者となるために……死ぬために、行くのでしょう?」


「そうです……お方さま」


 美野は涙をこらえ、唇をかんだ。自分は、もう『お方さま』に戻ってしまったのだ。


「もう、美野とは呼んでくれないのですね」


 行信は……答えなかった。美野は心の中で叫んでいた。


『このまま、ここで暮らしましょう。二人で、夫婦として、一生ここですごしたい。平凡で、ささやかな暮らしを続けましょう』


 それは、この地についてから、美野がずっと心の中で思っていたことだった。いや、祈りとも言えるかもしれない。

『このままずっと、義経の行方が分からなければいい……そうなれば、わたくしたちは一生ここで、夫婦として平和に暮らせる』と、ずっと願っていたのだった。

 美野の心の中の叫びが、まるで聞こえたかのように、行信は美野の手を取った。


「私は、御大将の影武者です。影武者であることをやめてしまったら、杉目小太郎行信の生きている価値はなくなってしまいます。ですが、お方さまはそうではありません。もし、平泉には行きたくないとおっしゃるのなら……」


 美野は、行信の言葉をさえぎった。


「いいえ。わたくしは、杉目行信と一生をともにすると誓ったのです。行信からはなれるつもりはありません」


 美野は涙をふき、自分も荷造りをするために立ち上がった。

 そのとき、


「美野さん!」


 と叫びながら、トキが飛び込んできた。トキは、二人のただならない雰囲気にとまどいながらも、早口で言った。


「美野さん、大変なの。すぐに支度をして逃げて!」


「逃げる?」


 美野が問い返すと、トキは言った。


「このあたりに、源義経さまが隠れているっていう噂が、鎌倉まで届いてしまったらしいの。明日の朝か、早ければ今夜にでも、鎌倉の役人がここにやってくるわ。だから……」


 トキがそこまで言うと、行信がさっと立ち上がった。


「ありがとう、トキさん。美野、すぐに支度をしなさい。すぐに発たなければ」


 こんなにきっぱりと行信に命令されたことは、美野にとっては初めてのことだった。美野は、すぐに、支度を始めた。


「街道へぬける裏道を案内しますから」


 と言うトキのあとについて、行信と美野は夜道を走った。


「ここまで来れば、もう大丈夫でしょう」


 トキがそう言ったのは、街道近くの林の中だった。


「トキさん、いろいろありがとう。もうお会いすることはないと思うが、あなたたちのご恩は、決して忘れません」


 行信が言った。その仕草はとてもりっぱで、これならば、トキさんは、彼を源義経にまちがいない、と思うだろうなと、美野は感じた。


「美野さん、気をつけて……」


 トキは涙ぐんでいた。


「ありがとう、あなたのこと、忘れないわ」


 と、美野は言い、手元に残った天児のうちのひとつを差し出した。


「あたしに?」


 トキが聞くと、美野はうなずいた。


「ありがとう。大切にする」


 トキは、天児をなでながら、ためらいがちに言った。


「ひとつだけ、聞いていいかしら?」


「何?」


「『美野』と言うのは、あなたの本当の名前よね?」


「ええ。でも、どうして?」


 不思議に思って美野がきき返すと、トキは言った。


「決して誰にも言わないわ、あなたたちのことは。でも、あたしにとっては大切な思い出だから……思い出すときには、あなたを本当の名前で思い出したいの」


 美野は、自分たちのことをそこまで思ってくれているトキをありがたいと思いながら、答えた。


「まちがいなく『美野』はわたくしの名前です。わたくしの父は、河越重頼といいます」


 トキは黙ってうなずいた。


 夜明け前の街道を、行信と歩きながら美野は思った。

 トキが、その気になって調べれば、河越重頼の娘が源義経の正妻になっていることは分かるだろう。それを知れば、トキは「やはり小太郎さんは、源義経さまだったんだ」と思うはずだ。そしてそれは、トキの大切な思い出になるにちがいない。


 攪乱の意味もある。源義経がこの場所にいたのならば、平泉にいるのは義経ではないことになる。それだけで義経が安全になるとは思わないが、鎌倉を戸惑わせるくらいのことは出来るだろう。

 そう冷静に考える頭の外で、寂しい思いもあった。

 今、ここにいるのが義経とトキが信じれば……。それは、美野が愛しているのが、源義経でなく杉目小太郎行信であるという事実さえも消してしまうような気がした。

 美野と行信は夫婦であった――その事実を知っている人間が、この世には一人もいない――トキさえも、美野が愛しているのは源義経だと思っている――そのことが、美野にはむしょうに悲しい。


 だが、ふと思い直した。

 わたくしは「河越美野」ではない。

 上総介広常の娘・美野だ。


「そうね……寂しいなんて思う必要はない。だって……」


 自然と微笑みが浮かんだ。

 河越美野は確かに源義経の正妻だ。

 けれども……。

 上総介の娘は、杉目小太郎行信の妻だ。

 それは、紛れもない事実なのだから。


静かな夜ほど、不意に破られるものなのでしょう。

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