15 仮初めの名で
人は、探しているものを見失ったとき、ほんとうに欲しかったものに気づくことがあるのかもしれません。
翌日の夕方、歩き続ける二人の目の前に、寺が見えてきた。
「ここは、御大将ゆかりの寺……いらっしゃるかもしれません」
そう言って行信は寺の様子を伺いに行った。
『今夜は、この寺に泊めてもらえるといいのだけれど……』
そんなことを考えながら、美野は義経に会えることを少しも望んでいない自分に気づいた。美野にとって、この旅は終わらない方がいい。義経と合流すれば、自分はいやでも「北の方」に戻されてしまうだろう。河越の父兄が殺された今、義経も美野を鎌倉の間者とは思わないはずだが……。行信の妻として迎え入れてもらえるほど、甘くはないだろう。
それならば、義経は永久に見つからない方がいい、ついそう考えてしまう自分を美野は時に恥じ、時に、そんな自分を愛しく思ったりもした。
行信は、寺から走って戻ってきた。
「お方さま!」
と叫ぶ顔は、いつにない笑顔だった。
「まさか……」
美野の胸は早鐘のように鳴った。
「……九郎さまが、いらしたのですか?」
ふるえる声で、美野は尋ねた。
「いいえ……残念ながら」
行信は首を横にふった。
「ただ、御大将は、一月ほど前までこの寺に滞在されたとのことです……ご無事だったのです」
行信は、うれしそうに言った。
『そうか……九郎さまの無事を、行信は喜んでいたんだ』
義経を探す旅をしていながら、美野は義経のことをほとんど思い出しもしなかった。けれども、行信は違ったのだ。いつもいつも、心の中では義経の安否を気遣っていたのだろう。
「今夜はここに泊めてもらえることになりました」
行信に言われ、美野はほっとした。
そして、義経の無事よりも、今夜の宿の方を喜ぶ自分に、少し後ろめたさを感じていた。
行信が美野のことを、
「源義経さまの北の方さまです」
と紹介したおかげで、寺での待遇はたいへんよいものとなった。
食事もきちんとしたものが出されたし、風呂にも入れた。だが、寺の僧が延々と義経の話をするのには閉口した。美野は早く、行信と二人きりになりたかった。
そして、夜も更けて……。美野の通された部屋に夜具はひとつしかなかった。
「行信は?」
美野がたずねると、案内してくれた僧は不審な表情で、言った。
「杉目殿は、別の間に……」
美野は自分の失言に唇をかんだ。行信は自分を「北の方」と言ったのだ。義経の北の方とその郎等が、ひとつの部屋で休むはずはない。
「あの人も疲れていますから、充分に休むように伝えてください」
美野が言うと、僧は納得した顔でうなずいた。
うまくごまかせたことにほっとしながらも、美野は、
「わたくしは、九郎さまでなく、杉目小太郎行信の妻です」
と言えない自分が無性に悲しかった。
久しぶりにきちんとした夜具で眠れるというのに、美野はいっこうに寝つけなかった。
行信がいない――そのことが、これほどまでに自分を淋しくさせることに、美野は今さらにして気づいた。
暖かい夜具も、ひさしぶりの満腹感も、行信の肌のぬくもりに勝るものではなかった。
美野は涙を堪えながら、ひたすら朝を待った。行信の姿を見ることのできる朝を――。
「お方さま……お方さま……」
行信の低い声で、美野は目がさめた。
美野はすっかり旅仕度のととのっている行信の姿を見て、あわてて身を起こした。すっかり寝過ごしてしまったらしい。昨夜は遅くまで眠れなかった。それでも、いつのまにか寝ていたのだろう。
「ごめんなさい……」
そう言う美野に、行信は優しく言った。
「長い旅のお疲れが出たのでしょう」
旅仕度を整え、寺の僧たちに礼を言い、二人は再び山道を歩き始めた。昨夜泊まった寺が見えなくなった頃、行信は立ち止まった。
行信は美野を、適当な大きさの岩に座らせ、自分はその前に座り、言った。
「あの寺の僧たちに話を聞きましたが、御大将はもう叡山にはいらっしゃらないようです」
「それではどこに?」
「噂は様々です。伊勢……能登……京の公家にかくまわれているとも……西国で旗揚げの準備をしているとも……」
行信は淡々とした口調で言う。
「頼朝さまが、役人を使って必死になって捜しても見つからない御大将が、私たちに捜せるはずがないのかもしれません」
「……女のわたくしがいては、歩く速さも遅いですから」
美野は目をふせた。自分が足手まといになっていることは、最初から感じていた。旅の間中「一人で義経を捜したい」と行信にいつか言われるのではないか――と心配し続けていた。美野にとって最後通告とも言えるその言葉を、ついに行信が言うときが来たのだ……と覚悟をきめた。
しかし、行信の口から出たのは、まったく意外な言葉だった。
「これ以上、噂にふりまわされ、あちこちを旅しても、御大将を見つけることは無理でしょう。御大将は、このまま逃げ隠れして一生を終わるお方ではないはずです。必ず、いつかその存在を現されるときがくるはずです。その時を待ちましょう。それまで、私たちはどこかに身をひそめ、二人で静かに暮らしていましょう」
まるで、夢が叶ったような行信の言葉に、美野は無意識のうちにうなずいていた。
行信が選んだ場所は、陸奥の山の中だった。義経の行き先として、行信が考えたのは平泉だった。この場所ならば、平泉に行く途中で通るかもしれないし、情報も入りやすいだろう――行信はそう言った。
年が明けて――文治三年の正月を、二人は陸奥の山の中の粗末な小屋で迎えた。
二人の住む小屋は、村里から少し離れた場所にあった。
行信は、木を切ったり、川魚をとったり、土地を耕したりして日々を過ごした。
「お方さまを『美野』とお呼びしてもかまいませんか?」
小屋での初めての夜、行信は言った。
「こんな所まで、鎌倉の追手は来ないでしょうが、万が一ということもあります。夫婦を装っていた方が安心だと思います」
美野はうなずきながら、行信の「夫婦を装う」という言葉に傷ついていた。美野自身はもう夫婦のつもりでいたから。
そして、行信もそんな美野の気持ちには気づいていたのだろう。後ろめたそうに視線を逸らした。……だが、それ以上は何も言わなかった。
その後、行信は、自分の言葉どおり徹底して夫婦を装った。外では「美野」と呼び、物言いもやや命令口調だった。美野も行信を「あなた」と呼んで、川での洗濯をはじめとして、畑仕事も、様々な雑用も、何でもいとわずにやった。
しかし、小屋の中に入ってしまうと、行信の態度はよそよそしくなり、美野に仕事もさせなかった。旅の途中で野宿したときのように、美野を抱き寄せることも、なくなっていた。
美野には、行信の気持ちがだんだんとわからなくなっていた。
河越のあの夜、確かに結ばれたと思った気持ちは、自分だけが見た幻だったのだろうか。
不意に、涙がこぼれそうになることもあった。
けれど、美野はけっして泣くまい、と思った。
行信の気持ちがどうあれ、自分が行信を想う気持ちだけは、真実なのだから。
ある夜のことだった。美野がふと目覚めると、寝ているはずの行信が、夜具の上に起きあがっているのが見えた。暗闇の中、目をこらして見ると、行信は手に何かを持ち、それをじっと見つめていた。そして、それに静かに唇をつけた。
そのとき、美野ははじめてそれが何であるかわかった。そして、忘れていたことを思い出した。
それは、薄紅の桜の花びらの模様のある細長い布だった。古くなってしまった着物を細長く切って、美野が旅の間、髪をまとめるひも代わりに使っていたものだ。
山歩きをしているとき、崖の上から岩が落ちてきたことがあった。行信はとっさに美野をかばい、岩をよけた。そのとき、わずかに岩が行信の腕をかすった。美野はその細長い布を使って、行信の傷の手当てをしたのだ。
その布を使って手当てをしたことなど、美野は忘れていたし、とっくに行信は捨ててしまっているものと思っていた。
行信は、布に唇をあてたままじっと動かずにいる。その肩は、かすかに震えているようでもあった。おそらく、行信はこうした夜を何度も過ごしていたのだろう。そう考えながら、美野は行信の自分への想いを悟った。
「行信……」
美野がささやくような声で呼びかけると、行信ははっとして、布をかくそうとした。美野はその手を押さえ、布を取りあげた。
「こんな、思い出ではなくて……生きているわたくしが、そばにいますのに」
そう言うと美野は、唇を行信のそれに重ね合わせた。
次の瞬間、行信は美野を強く抱きしめていた。それは、暖をとるために抱きしめてくれたときとは全く違う、熱さと強さをともなっていた。
朝、美野が目覚めたとき、隣に行信の姿はなく、夜具も片づけられていた。美野はあわてて飛び起きた。河越でのときのように、またどこかへ行こうとしているのではないか、そう思って美野は小屋から飛び出した。
だが、行信はそこにいた。小屋の前の畑を黙々と耕していた。そして、美野に気づくと
「おはよう。美野」
と、微笑んだ。
「よく寝ていたみたいだから、起こさなかった」
そう言われて、美野は急に恥ずかしくなり、小屋へ駆け込んだ。だが、夜具を片づけながら、昨夜の余韻がまだ自分の身体に残っていることに気づき、震える手で自分の身体を抱きしめた。
春がやってきていた。
少し離れた場所にある村里の者たちも、二人の存在を認め、受け入れるようになっていた。行信は、土地の者たちとはなるべく接触しないよう努めている様子だった。しかし、美野は川などで土地の女たちと接する機会が多く、親しく言葉を交わすようになっていた。
中でもトキという娘は年令も近く、特に仲よくしていた。
ある日、川原で並んで洗濯をしているときに、トキが言った。
「美野さんは、お武家の出だよね?」
「……ええ、まあ……」
美野は、言葉を濁しながら答えた。トキとは仲がいいのでうそはつきたくなかったが、何もかもすべて話す……というわけにはいかない。
「一緒に暮らしている人は、美野さんの……?」
「夫です」
「何ていうお名前なのかしら?」
トキは重ねてきく。美野は考えをめぐらした。うその名前を言ってもいいが、それが困った事態をひきおこしてしまってはいけない。しばらく考えてから、ようやく美野は言った。
「小太郎……と言うの」
小太郎ならば、武家の長男にはよくある名前だから――現に、兄も河越小太郎重房だった――無難だろう。
トキは疑う風もなく、うなずいた。
「それが、何か?」
美野が尋ねると、トキは急いで言った。
「ごめんなさいね、変なことばかりきいて。近所の人がいろいろ噂していて……あたしが美野さんと親しいのを知ってるものだから、しょっちゅう聞かれるのよ。あの人は武士らしいが、何という名前なのか……とか、ひょっとして、平氏の残党じゃないか……とか、いいや、悪いことをして逃げてるんじゃないか……とかね」
「わたくしたちは、悪いことは何もしていません!」
美野は驚いて言った。「平氏の残党」ならともかく、「悪いことをして逃げている」という噂は耐えられない。
「それはあたしも言ったのよ」
トキは、言い訳をした。
「ふたりとも、まじめで優しい人だからって……絶対、悪いことをするような人じゃあないって」
「ありがとう」
そう言いながらも、美野は思った。そういう噂が立っても、仕方がないかもしれない、と。素性の知れない人間――しかも武士らしい――がやってきて、住み着いてしまえば、土地の者たちは不安に思うのが当然だろう。
けれども、本当のことは話すわけにはいかない。
「ごめんなさい。くわしい事情は話せないのだけれど……決して、あなたたちに迷惑をかけるようなことはしないから……しばらくの間、ここにいさせて」
そう美野は言った。
「しばらくって……じゃあ、いつかはどこかに行ってしまうってこと?」
「たぶん……そうなると思うわ」
うなずいたトキは、冗談めかして言った。
「こういう噂もあるのよ……あの方――小太郎さんて言ったわね――小太郎さんは、判官さま――源九郎義経さまじゃないかって……」
行信と美野は、歴史の表舞台から身を引き、名も立場も捨てた静かな暮らしを選びました。
でも、その春は、長くは続かなかったのです。




