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14 願いの行き着く先

夜は、すべてを覆い隠します。

名も、身分も、立場も――。

けれど、その静けさの中でこそ、人は己の本心と向き合うのかもしれません。


「お方さまはなにも……」


 行信は、目を伏せた。それは、自分の表情を美野に見せまいとしているようでもあった。

 大物浦から河越までの旅の間中、常に美野を辛抱強く見守ってくれた行信の苦悩の表情が、美野を不安にさせた。


「わたくしはわがままなのですね。気が強すぎると、父にも言われたことがあります。だから……行信に見放されても……仕方ないかもしれません」


 ふっと涙が頬を伝った。このときになってはじめて、行信との別れの時が来たのだと気づいたのだ。行信が義経に命じられたのは、美野を河越に送りとどけること。その役目はもう終わったのだから。


「こんな、わがままなわたくしを、今まで支えてくれて、ありがとうございました」


 美野は涙をこらえ、言った。

 その言葉に、行信は顔をあげた。そして、美野の頬に伝う涙を見ると、行信の手はその涙をぬぐおうとするかのように伸び……だが、その前に引き戻され、胸元で強く握りしめられた。


「それは違います。お方さまをわがままなどと思ったことなど、一度もありません。河越から京へいらしたときは、立派な輿にお乗りだったのに……あのようにつらい旅を、恨み言ひとつおっしゃらずにいらしたものを、どうしてわがままなどと言えましょう」


「でも、馬にも上手に乗れなかったし……」


「いいえ。乗馬の経験がおありだったことに感服いたしました。行信こそ、お方さまに、野宿などさせてしまって、申し訳ないと思うばかりで……」


「そんな悲しそうな顔をしないでください。わたくしは、行信とともに旅が出来て……」


 幸せだった……という本音は言えなかった。


「行信に、感謝しています」


 ただ、精一杯の気持ちを込めて、行信の握りしめた拳を、両手で包み込んだ。


「わたくしは、九郎義経の妻ではありません」


「お方さま……」


「九郎さまの妻は、静御前ただ一人」


 行信は、自分の拳を包み込んでいる美野の両手を見下ろしている。


「わたくしが鎌倉殿の間者であることは、以前、話しましたけれど……」


 行信が眉をひそめる。以前、この話をしたとき、行信は美野の口をふさいだ。

 だが、今、美野は行信にすべてを知って欲しかった。


「河越重頼の娘でもありません」


 意外な話の成り行きに、行信は驚きを隠せなかった。


「わたくしの実の父は、上総介広常と申します。父は、梶原景時に殺されました」


「梶原に!?」


 美野は、父が景時に誅殺されたときのことから話を始めた。

 行信は、ただ、黙って話を聞いてくれた。

 時に涙で言葉がつまっても、急かすことなく、静かに待ってくれる行信に励まされるように、美野は長い物語を終えた。

 行信の目から落ちた涙が、美野の両手を濡らした。

 その温かさに、美野は、自分の気持ちを伝える勇気をもらった気がした。


「わたくしは……堀川館にいた頃から……初めて逢ったときからあなたのことが……。ずっとずっと、行信だけが心の支えでした。あなたを……お慕いしています。河越重頼の娘として源義経に嫁いだ美野ではなく、上総介広常の娘の美野として」


「お方さま……」


 次の瞬間、行信は美野を強く抱きしめていた。

 自分の唇に、行信の唇がそっと触れるのを美野は感じた。

 この日、ずいぶん泣いたが、まだ喜びの涙は残っていたのだ……そんなことを美野は思っていた。


 朝日のまぶしさと小鳥の啼き声に美野は目覚めた。身体じゅうに幸せが満ちている。

 そうっと目を開け、行信の姿をさがした。しかし行信はいなかった。

 小屋の戸が開き、誰かが入って来た気配に美野は振りかえった。


「行信……」


 言いかけた言葉を美野はのみこんだ。行信ではなかった。

 入ってきたのは、増尾十郎兼房だった。


「兼房……どうしてここに?」


「杉目殿に頼まれました。お方さまを、原太夫高春殿か千葉常胤殿のもとにお送りするようにと」


 その言葉に、行信がすべてを兼房に打ち明けたことを知った。兼房自身は、美野が河越重頼の娘でないことを知っていたので、話は早かったのだろう。


「急ぎましょう。ここに長居をして、総御前さまに知られたら、やっかいなことになります」


「総御前さま? 総御前は無事なのですか?」


 問い返しながら、河越の父や兄の死を知らされたとき、その妻であり母である総御前のことを全く思い出さなかったことに気づいた。


「総御前さまは、鎌倉で、変わらずに万寿丸さまの乳母をなさっています」


 兼房は、つとめて平静を装って言おうとしていたが、非難めいた口調になるのを押さえ切れないでいた。

 兼房の気持ちは当然だろう。自分の夫と息子が殺されているのに、それを命じた人間の子どもの乳母を続けているのだから。

 その思いは、美野も同じだった。平気で万寿丸の乳母を続けていられる総御前の気持ちがわからなかった。


「総御前に見つからないように、美野さまを本来の美野さま……上総介広常殿の御息女として暮らせるように手配して欲しいと、杉目殿が、今朝早く私の所に来て言ったのです」


「行信は? どこにいるのです?」


「杉目殿は発たれました」


「発った? どこへ?」


 美野の剣幕に驚きながらも、兼房は言った。


「義経さまのあとを追ったのでしょう」


「どこへ行ったのです?」


「さあ、行く先までは……」


 兼房は首をひねっている。


「どちらの方向へ行ったのです?」


「街道を、西の方へ……歩いて行きました」


「歩いて? 馬ではなく?」


「馬は、お方さまをお乗せするようにと、残していきました」


 美野は小屋を飛び出した。驚く兼房には目もくれず、そばの木につないであった馬に飛び乗る。


「お方さま、どちらへ!?」


 叫ぶ兼房には返事もせず、美野は馬を走らせた。行信に追いつかなければ……それしか美野の頭の中にはなかった。

 街道へ出て、美野は空を見上げた。太陽が昇り始めている。あちらが東だから……美野はつぶやいた。

 西の方向が分かると、美野は、思いっきり馬を走らせた。

 あまりおとなしい馬ではないし、こんなに速く走らせたこともない。旅の間、口輪はいつも行信が取ってくれていた。もし落馬したら……という不安もあった。

 だが、そんなことは言っていられない。急がなければ、永久に行信を失ってしまう。美野は夢中で駆けていった。


 早朝なので、街道にはほとんど人の姿はない。何度も馬から落ちそうになり、ほとんど気も遠くなりかけたとき、美野は前方に人影を見つけた。見慣れた、なつかしい後姿だった。


「ゆーきーのーぶー!」


 だんだん近づいてくる後姿に向かって、美野は力の限り叫んでいた。


 駆ける馬の蹄の音と、


「行信!」


 と叫ぶ女の声に、行信は思わず振りかえった。その行信の目に入ったのは、髪を風になびかせ、馬を走らせてくる美野の姿だった。

 美野は馬から降りる――というよりほとんど落ちるように、行信の胸に飛び込んだ。


「連れていって……わたくしを。行信と離れるのはいやです。千葉の館など戻りたくありません」


「お方さま……私は、御大将のもとに戻るのですよ」


「わかっています」


「御大将がどこにいらっしゃるか、よく分からないのですよ。捜しながらのつらい旅になるでしょう」


「かまいません」


「……お方さま……上総介広常殿の御息女にお戻りください。もう、自分を偽って暮らす必要はないのですから」


「ええ。わたくしは、もう自分を偽りません。上総介広常……平介八郎広常の娘美野は、杉目行信をお慕いしております。杉目行信の妻として、共に旅をしたいのです」


「御大将を見つけるのは大変なことです。頼朝さまの目をのがれて逃亡していらっしゃるのですから……もしかしたら、見つからないかも……」


「それなら、それでいいのです」


「私の役目は御存じでしょう? 御大将のもとに着いたら……私はたぶん、死ぬことになるでしょう」


「そのときは、わたくしも一緒に……」


「お方さま!」


「でも、考え違いをしないでください。九郎さまの北の方として死ぬのではありません」


 美野はあふれる涙をぬぐおうともせず、行信をじっと見つめて言った。


「あなたと……杉目小太郎行信と運命をともにするのです」


 その言葉が終わるか終わらないうちに、行信は美野を抱きしめていた。


 美野と行信は、叡山を歩いていた。二人で河越を発ってから、一年の月日が流れていた。

 二人ははじめ、義経を追って西国を目指していた。しかし、義経の船は大物浦の沖で難破。その後、吉野山に隠れた――との話を聞き、吉野へ行った。

 だが、二人が吉野に着いたとき、義経一行は、すでにそこを発っていた。


 吉野山で義経と別れた静御前が、鎌倉へ護送されることになったのが、翌年の三月。義経たちは、途中で静御前を助け出すのではないかと考えた行信と美野は、密かに静御前のあとをつけて、京から鎌倉まで旅したが、結局、義経は姿を現さなかった。

 静御前がいるうちは……と、二人ともしばらく鎌倉近くに潜伏した。しかし、七月末、静御前が産んだ義経の子どもが殺され、その後、静御前も行方不明になってしまった。


 二人が途方にくれているとき、義経は叡山にいるとの情報が入り、急いで旅立ったのだ。


「お方さま、申し訳ありません。今夜も野宿になってしまいます」


 日も暮れかけた頃、美野の手を引きながら行信は言った。

 わずかに手元に残しておいた砂金もなくなり、馬も手放していた。二人は歩いて旅するしかなかった。

 寺や民家に泊めてもらえるのはごくまれで、ほとんどが野宿ですごした。


「気にしないでください、もう慣れました」


 行信の熾したたき火の温かさは、美野をほっとさせた。秋も終わりに近づき、夜はかなり冷え込んだ。

 行信は、いつものように干し飯を湯でやわらかくもどしたものを、美野に差し出す。湯が沸かせないときは水でもどすし、それもできないときは焼き米をポリポリとかじる。

 この、湯でもどしたものが一番食べやすかった。差し出された焼き味噌をなめ、梅干しを口の中にほうりこむ。今日は、行信が野草を摘んできて、味噌汁を作ってくれた。


 旅に出始めた頃、行信が食事の仕度に手際がよいことに美野は驚かされた。長い旅の間、いつ補給をしているのか、乾飯、焼き米、味噌玉、梅干しなど切らしたことはなかった。美野が感心すると、行信は、


「武士ならば、誰でもそうです。戦に出るとき、兵糧は欠かせませんから」


 と、何でもないことのように言った。


『行信がいなければ、わたくしはきっと生きていられなかった』


 美野は何度もそう思った。

 上総の父兄とも、河越の父兄とも対等に話し、美野自身は男に負けないだけの知恵があるつもりでいたが、そんなのは、所詮、ままごとのようなものだったのだ……と、この旅で思い知らされた。


「寒いですか?」


 食事を終え、しばらくたったとき、美野の震えに気づき、行信が言った。

 美野がうなずくと、行信は手を伸ばし、さっと美野を抱きしめた。美野は、行信の胸に顔をうずめた。美野は、行信の身体の温かさを感じながら眠りについた。

 野宿のときは、寒さをしのぐためや安全のために、こうして行信に胸で眠ることが多かった。行信は、両腕に美野をすっぽりと抱えてくれた。しかし、それ以上のことは決してしない。河越での一夜以来、行信が美野の肌に直接触れることはなかった。


 流浪の身であったし、危険もともなっていたので、それどころではない――と美野は考えていたし、実際そうなのだろう。美野自身は、昼間、行信に手を引かれ歩き、夜は行信の胸で眠ることができれば満足だった。

 美野がふと目覚めたとき、月はまだ中空にあった。行信は、じっと炎を見つめていた。


「また、眠らなかったのですか」


 美野がとがめるように言うと、行信はあわてて、


「いえ、今、目がさめたのです」


 と言った。しかし、美野はそれが嘘であることを充分承知していた。野宿のとき、行信は仮眠程度でほとんど眠っていないはずだった。


「今度は、わたくしが起きてますから、行信は寝てください」


 美野は行信から離れようとした。だが、行信は美野を自分の胸にひきもどした。


「それではお方さまの身がもちますまい。私は武士ですから、こういうことには慣れています。戦の行軍に比べれば、楽なものです」


「でも……」


 抵抗する美野を自分の胸に抱えこみ、


「どうぞ、ゆっくりおやすみください」


 と、行信は言った。

 これ以上言っても無駄だろうと考え、行信の胸に再び顔をうずめた。行信がほっとするのがわかる。美野は、行信の腕の中で空を仰いだ。


「何か?」


 いぶかる行信に、美野は空を指し言った。


「見て」


 空には、鼓星が輝いていた。いつもと変わらない光だった。


「三つ神様に、また願い事をしましょうか」


 その問いに、幸信はゆっくりと首を横に振った。


「もう、願いは叶いました」


願いとは、叶えた瞬間に、形を変えていくものなのかもしれません。

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