寿綾乃という女 第4部 92
「…じゃ、綾乃さん、行ってくる…」
ナオキは、朝食を食べ終えると、部屋を出て、会社に向かった…
マンションの地下駐車場には、会社からの迎えの送迎車が、すでに、待っている…
社長のナオキを待っている…
だから、毎日が、同じルーティンというか…
朝、七時半に、会社の送迎車が、地下駐車場に、迎えに来る…
ナオキは、その時間に合わせて、地下駐車場に、降りてゆく…
これが、ルーティン…
藤原ナオキのルーティンだ…
一日のルーティンだ…
これを、退屈だと、思うものも、いるだろうが、たとえ、今のこの生活を捨て、漁師や、大工になっても、同じだろう…
毎朝、同じ時刻に、起き、同じ時刻に、家を出る…
また、仕事の内容も、変わらない…
漁師が、船に乗って、魚を取るべく、海に出るのと、同じく、ナオキは、会社に着けば、下から上がって来た報告書を読んだり、会議に出て、積極的に発言したり、業務の報告を受ける…
つまりは、誰もが、やっていることは、同じ…
同じことを、繰り返しているだけだ…
もちろん、ナオキにすれば、業務の報告といっても、同じ報告は、ただのひとつもないだろう…
しかしながら、傍から、見れば、やっていることは、大差ない…
なにより、私は、会社にいるときは、社長秘書として、ナオキの傍らにいた…
社長の藤原ナオキのもっとも、身近な場所にいた…
だから、わかる…
社長のナオキが、会社で、一日中、なにをやっているか、わかるのだ(笑)…
だから、もしかしたら、それを、退屈だという人間も、いるかもしれないが、今も言ったように、誰もが、似たようなものだ…
仮に、今、誰もが、転職すれば、最初は、まったく違う仕事に就けば、新鮮に感じるが、それが、毎日続けば、退屈になる…
が、
退屈だからといって、簡単に仕事を辞めるわけには、いかない…
誰もが、仕事をしなければ、生きてゆけないからだ…
まあ、もっとも、あの諏訪野伸明など、一部のお金持ちは、違うだろう…
仮に、一生、仕事をしなくても、十分、食べていけるだろう…
それほどの資産を持っているだろう…
しかしながら、それほどの資産を持っていても、一日中、なにも、しなければ、退屈に違いない…
年がら年中、家にいても、暇に違いない…
それゆえ、大抵は、遊びに夢中になる…
ゴルフやヨット、クルマなど、遊びに夢中になる…
いわば、仕事の代わりに、遊びをするのだ…
ハッキリ言えば、時間潰し…
いくら、お金があって、生活に困らなくても、なにもしなければ、退屈で仕方がない…
それゆえ、仕事の代わりに、遊びに夢中になる…
そういうことだ…
そして、そんなことを、考えたとき、ふと、誰かの言葉を思い出した…
昔、新聞か、雑誌、ネットで、見た言葉を思い出した…
仕事も、遊びも、夢中になるのは、いい…
だが、誰しも、限度というものがある…
仕事でも、昔のバブルの時代では、ないが、二十四時間戦えますか? に近い働き方をするものがいるとする…
それは、ある意味、精神が、病んでいるというか…
精神科に通院を勧められる人間だと、言っていた…
それは、なぜか?
それは、人間、誰しも、限度というものが、あるからだ…
ほどほどというものがあるからだ…
例えば、女好きの男がいるとする…
それが、五十になっても、六十になっても、若いときと同じく、いつも女の尻を追っかけていると、したら、どうだろう?
なにか、おかしいと思うだろう…
仮に、セックスが好きだとしても、いつまでも、同じことを、繰り返していては、病気の可能性が、疑われる…
普通は、誰もが、飽きるからだ…
それゆえ、精神病の可能性が、疑われる(爆笑)…
そういうことだ…
そして、そこまで、考えたとき、
…だったら、私は、どうなんだろ?…
…私、寿綾乃は、どうなんだろ?…
と、思った…
正直、今は、暇…
暇を持て余している…
すでに、会社は、退職した…
実際は、非常勤の取締役という形で、残っているが、出社したことは、一度もない…
あくまで、肩書…
社長のナオキが、私にお金を与える名目で、私に非常勤の取締役という肩書を与えたに過ぎないからだ…
また、正直、非常勤の取締役という肩書で、会社に出社はしたくない…
なぜなら、私は、会社で、社長のナオキの愛人と見ている社員が、大勢いた(苦笑)…
明らかに、大勢いた…
そんな私が、非常勤の取締役という肩書で、会社に出社すれば、
「…ほら、やっぱり!…」
と、言われるのが、わかっているからだ…
会社で、後ろ指を指されるのが、わかっているからだ…
だから、出社したくない…
恥ずかしいから、出社したくない…
みっともないから、出社したくない…
そういうことだ…
そして、それを、思えば、伸明は、どうなんだろ?
と、思った…
仮に、いますぐ、仕事を引退したら、どうなんだろ?
と、思った…
やはり、ゴルフやヨットやクルマで、遊ぶのだろうか?
仕事の代わりに、遊びに夢中になるのだろうか?
あるいは、女の尻を追っかけるのだろうか?
今度、会ったら、聞いてみたい…
ぜひ、聞いてみたいと、思った…
思ったのだ…
そして、そんなことを、考えていると、ふと、あの諏訪野伸明の結婚のことを、思い出した…
…あの伸明が、結婚って、本当なんだろうか?
と、考えた…
再び、考えた…
もう、何度目か、わからないほど、真剣に考えた…
が、
やはり、答えは、同じ…
何度、考えても、同じだ…
なにしろ、あの伸明が、ナオキに、電話で、ハッキリと、
「…結婚する…」
と、告げたくらいだ…
間違いなく、伸明は、結婚するだろう…
当たり前だ…
なにしろ、本人が、言っているのだ…
間違いはない…
が、
それを、考えると、心が、落ち着かないというか…
心が、ざわざわする…
心が、波打つ…
私は、口では、伸明となど、私風情の女が、結婚など、できない…
所詮は、身分違いの相手と、心の中で、思っているが、実際は、逆…
真逆だ…
ホントは、伸明と結婚したい!…
日本有数のお金持ちと結婚したい!…
だが、ナオキが、いる…
もはや、夫婦同然の藤原ナオキが、いる…
FK興産社長の藤原ナオキが、いる…
藤原ナオキがいる以上、私は、藤原ナオキの元から、去ることは、できない…
なにしろ、ナオキは、恩人…
間違いなく、恩人だ…
この寿綾乃=矢代綾子の恩人だ…
その恩人のナオキの元から、去ることは、できない…
たとえ、ナオキに言われても、去ることは、できない…
これは、もしかしたら、私の生きざま…
あるいは、私の生き方なのかも、しれない…
以前も、言ったが、私の生き方は、母に影響されている…
ハッキリ言えば、母によって、私という女は、出来上がっている…
私は、おおげさに言えば、母の作品と言っていい…
母のカラダから産まれ、そして、カラダだけではなく、中身も、母の影響を受けた…
大いに、受けた…
中身というのは、思考形態…
ひらたく言えば、考え方だ…
それゆえ、今だに、母の教えに縛られている…
母が、こんなことは、しちゃいけないよと、言ったことは、することは、できない…
恩を受けたひとには、恩で、返さなければ、いけないよと、言われたことから、逃れることは、できない…
絶対に、できない…
もし、ナオキを裏切れば、私は、一生、後悔するだろう…
同時に、自分を許せないだろう…
なにしろ、母の教えに背いたからだ…
だから、自分を許せない…
そして、こんなことを、考えれば、考えるほど、いかに、自分にとって、母の存在が、大きかったのか、わかる…
わかるのだ…
話を元に、戻そう…
伸明のことだ…
伸明は、本当に、結婚するのだろうか?
どうしても、信じられない…
それは、なぜか?
それは、伸明が、私を好きだからだ…
手前みそではなく、私を好きだからだ…
そして、私を好きな理由の背後には、あの建造の存在がある…
私の背後に、母の存在があるように、伸明の背後には、建造の存在がある…
私と結婚して、私の一生の面倒を見るのは、建造の願いだからだ…
血が繋がっていないにも、かかわらず、自分を後継者にしてくれた五井家前当主、建造の願いだからだ…
だから、私ではなく、あのハルカという女と、結婚することは、建造の願いを無視することになる…
あの長谷川センセイの妹のハルカと結婚することは、そういうことになるからだ…
が、
一方、ナオキが、伸明から、聞いたように、ハルカと結婚することで、五井北東家の団郁馬と対決することが、できる…
五井北東家の団郁馬は、五井西家と組んで、本家を揺さぶろうとしている…
本家=伸明を揺さぶろうとしている…
が、
伸明が、ハルカと結婚することで、西家と北東家を切り離すことができる…
伸明が、ハルカと結婚することで、西家を本家側に取り込むことが、できるからだ…
だから、伸明が、結婚するというのは、わかる…
ハルカと結婚するというのは、わかる…
が、
やはり、それを、すれば、建造の願いを無視することになる…
だから、どうしても、疑わしくなる…
伸明が、本当にハルカと結婚するのか、疑わしくなるのだ…
私は、思った…
もう、何度目か、わからないほど、考えた…
そして、考えれば、考えれば、わからなくなる…
いくら、考えても、答えが出ないからだ…
だから、考えても、仕方がない…
が、
考えてしまう…
いわば、無限ループに陥った…
それが、今の私だった…
今の私が、置かれた状況だった…




