寿綾乃という女 第4部 86
部屋の中に、入ると、ナオキが、
「…先にお風呂に入って来る…」
と、言った…
「…綾乃さん、すまないが、パジャマを用意して…」
「…わかったわ…」
私は、答える…
そして、答えてから、内心、笑ってしまった…
なにしろ、こんな私を誰かが、見れば、誰が見ても、ナオキの妻…
藤原ナオキの奥様に他ならない…
そんな私が、伸明と、結婚する?
バカも休み休み言って欲しいと、誰もが、言うだろう…
すでに、オマエは、結婚しているだろうと、言うだろう…
また、伸明自身、私のこんな姿を見れば、私との結婚は、諦めるだろう…
なにしろ、誰が、見ても、私は、100%、ナオキの妻なのだから…
あるいは、百歩譲って、私は、ナオキの妹と、言い張ることができるだろうか?
歳の離れた妹が、兄の世話をしていると、言い張ることが、できるだろうか?
考えてみた…
いったん、立ち止まって、考えてみた…
が、
それは、無理…
それは、できない…
なぜなら、夫婦や恋人と、兄妹では、距離感が違う…
男女の距離の取り方が違う…
どんなに、親しくとも、兄妹は、兄妹…
近くで、見ていれば、夫婦でも、恋人でも、ないのが、わかる…
互いに、相手の名前を呼び合っていても、わかる…
当たり前のことだ…
私は、家の中から、ナオキのパジャマを探した…
ナオキは、帰って来た…
体調を崩した私のために、このマンションに帰って来た…
が、
それは、一時的なことに、過ぎない…
すでに、ナオキは、以前、いっしょに、住んでいた、このマンションから、離れ、別のマンションに住んでいる…
が、
この家にも、ときおり、やって来る…
それゆえ、この家にも、ナオキの衣服が、置いてある…
ナオキが、この家に、戻って来たときに、着替えるためだ…
それゆえ、今、私は、ナオキの着替えを探した…
ナオキのパジャマを、探した…
そして、まもなく、見つかった…
すぐに、見つかった…
そして、そのパジャマを、お風呂から出てくる、ナオキのために、置いた…
まさに、奥様
藤原ナオキの奥様だ…
ほどなく、お風呂から出て来たナオキは、サッパリとした顔で、私の前に現れた…
リビングにいる、私の前に現れた…
さっき、見た真っ青な顔では、なくなった…
私は、その顔を見て、
「…ビールにする? それとも、チューハイにする?…」
と、聞いた…
すぐに、
「…ビール…」
と、ナオキが、答えた…
「…今日は、苦いビールが、飲みたい…ホントなら、ビールで、9%ぐらいアルコール度数が、高いビールを、飲みたい…その方が、酔えるから…」
ナオキが、笑って言う…
私は、それを聞いて、
「…なにを、バカなことを、言っているの…」
と、釘を刺した…
「…そんなに、飲みたいのなら、ウィスキーを飲めば、いいでしょ? 薄めず、ストレートで、飲めば、いいでしょ?…」
「…いや、やはり、苦いビールがいい…」
私は、ナオキの要望に応えて、冷蔵庫の中から、缶ビールを取り出して、ナオキの前に置いた…
「…どうぞ、冷えたビールよ…」
「…ありがとう…綾乃さん…」
ナオキは、出された缶ビールを、開けて、すぐに飲み出した…
ゴクゴクと、飲み出した…
「…うまい…」
ビールから、口を離すと、言った…
その表情からも、実に、うまいと、満足している様子が、わかった…
私は、
「…そんなに、ビールを飲みたかったの?…」
と、聞いた…
ナオキは、間髪入れずに、
「…飲みたかった…」
と、返した…
「…苦いビールを飲みたかった…ホントは、もっと、苦いビールを、飲みたかった…」
「…どうして、苦いビールを飲みたかったの?…」
「…それは…」
「…それは?…」
「…やっぱり、諏訪野さんの結婚だよ…」
「…」
「…何度も言うように、諏訪野さんは、綾乃さんと、結婚して、もらいたかった…」
「…どうして、私が、伸明さんと結婚して、もらいたかったの?…」
「…それは、もちろん、綾乃さんが、幸せになって、もらうためさ…」
「…どうして、ナオキじゃ、ダメなの?…」
「…ボクと綾乃さんは、長過ぎた…今さら、結婚もなにも、ないだろ?…」
「…」
「…四十を過ぎた男と、三十を過ぎた女…世間から、見れば、若いかも、しれないけれども、すでに、人生の半分近くをいっしょに、過ごした…だから、男女のときめきも、なにもない…そんな男と女が、今さら、結婚をしても、仕方がないだろ?…」
「…」
「…そこへ、今、諏訪野さんが、現れた…そして、諏訪野さんは、綾乃さんを気に入っている…綾乃さんは、諏訪野さんと、結婚することで、人生をやり直せる…人生を、リセットできる…」
「…」
「…これは、チャンスだと、思う…綾乃さんに、降ってわいたチャンスだと、思う…神様がくれたチャンスだと、思う…」
ナオキが、熱弁する…
それから、また一口、ビールを飲んだ…
ゴクゴクと、飲んだ…
それから、缶ビールから、口を離して、言った…
「…正直、綾乃さんにとっては、チャンスだと、思った…最高の相手が、綾乃さんの前に現れたと、思った…綾乃さんは、このチャンスを見過ごすことは、ないと、思った…」
それから、笑った…
私を、見て、笑った…
「…知ってる? 綾乃さん、人生に、そう、何度も、チャンスは、やって来ないってこと?…」
「…チャンス?…」
「…例えば、ボクは、成功した…誰が見ても、成功した…それは、ITバブルの波に乗れたから…その時期に、起業したから…もう二度と、あんなチャンスは、ボクの人生に、やって来ない…」
「…」
「…それと、同じさ…」
「…なにが、同じなの?…」
「…諏訪野さんとの結婚…」
「…どう、同じなの?…」
「…綾乃さんに、とって、諏訪野さん以上の相手は、二度と現れない…」
「…」
「…そして、綾乃さんは、まだ、若い…まだ、十分、キレイだ…街を歩けば、振り向く男も、大勢いるだろう…これが、十年後だったら、難しい…」
「…」
「…だから、チャンス…今が、チャンスなんだ…」
ナオキが、熱弁する…
私は、ナオキの言うことは、わかった…
痛いほど、わかった…
ナオキが、本気で、私を心配しているのが、わかった…
ナオキにとって、私は、家族…
すでに、家族なのだ…
血は、繋がらずとも、家族…
同じ家族なのだ…
だから、家族の幸せを望む…
そして、今、ナオキの家族である私が、幸せをつかみかけている…
それを、逃すなと、言いたいのだろう…
ナオキの気持ちが、わかった…
痛いほど、わかった…
でも、無理…
できない…
やはり、私にとっては、ナオキ…
いや、
それ以上に、今の環境がいい…
居心地が、いい…
だから、こうしている…
ひとりで、マンションに住んでいる…
そういうことだろう…
傍から見れば、どう見えるか、わからないが、自分は、今の生活に満足している…
だから、変わらない…
だから、変われない…
そういうことだろう…
伸明との結婚は、憧れるが、現実的ではない…
心のどこかで、決断できない…
だから、モラトリアムというか…
今のままで、いい…
今のままで、ずっといたい…
そういうことだろう…
そう、思った…
あらためて、思った…
そして、こんなことを、言うと、怒られるかも、しれないが、私と同世代の男女が、結婚しない理由も、わかってくる…
なぜ、結婚しないのか、わかってくる…
将来が、見えない…
自分の生活が安定していない…
等、色々理由があるかも、しれない…
しかし、結婚しない一番の理由は、今のままがいいから…
今の自分の生活に、不満が、ないからでは、ないか?
だから、結婚したくないのでは、ないか?
そう、思った…
そう、考えた…
そして、そう、思っていると、ナオキが、
「…綾乃さんは、諏訪野さんのことを、どう、思っているの?…」
と、直球で、聞いてきた…
これには、困った…
どう、答えていいか、困った…
それゆえ、
「…どう、思っていると、言っても…」
と、はぐらかした…
うまく、言えないからだ…
「…諏訪野さんが、嫌い?…」
「…それは、ないわ…」
「…だったら、好き?…」
私は、無言で、首を縦に振って、頷いた…
「…だったら、結婚すれば?…」
「…それは、できない…」
「…どうして、できないの?…」
「…それは…」
「…それは…」
「…ナオキ…子供じゃ、ないんだから、察しなさい…」
「…なにを、察するの?…」
「…私のような、どこの馬の骨とも、わからない女と、五井の御曹司が、結婚できるわけ、ないでしょ!…」
私は、怒鳴った…
自分でも、信じられないくらい、大声で、怒鳴った…
ナオキは、私の目の前で、呆気に取られた顔をして、私を見た…
ある意味、間の抜けた顔で、見た…
それから、言った…
ゆっくりと、言った…
「…綾乃さんの本心は、それ?…」
と、言った…




