寿綾乃という女 第4部 8
…一体、私は、どうしたら?…
これは、自分でも、意外だった…
正直、自分でも、こんな気分になるとは、思わなかった…
伸明を意識するとは、思わなかった…
すると、
「…どうしました? 寿さん?…」
と、伸明が、声をかけてきた…
…えっ?…
…どうしたって、なにが、どうしたんだろ?…
私が、疑問に思っていると、伸明が、続けて、
「…顔が、赤くなってますよ…」
と、告げた…
私は、これには、驚いた…
ビックリ仰天した…
まさか、中学生や高校生では、あるまいに、顔が赤くなっているとは、夢にも、思わなかった…
が、
目の前の伸明は、さすがに、それが、自分のせいだとは、思わなかったようだ…
「…熱があるんじゃ、ないんですか?…」
と、心配そうに、私に言った…
私は、どうして、いいのか、わからなかった…
伸明と、二人きりで、いる時間も、これまで、何度か、あったが、ここまで、伸明を意識することは、なかった…
男として、意識することは、なかった…
だから、困った…
実に、困った(苦笑)…
…さて、どうしたものか?…
私が、悩んでいると、
「…医者のセンセイを呼びましょうか?…」
と、伸明が、提案した…
私は、絶句した…
…さすがに、それは、困る(涙)…
センセイが、検査して、どこにも、問題が、ないのが、バレたら、困る(汗)…
それゆえ、
「…そんな、おおげさな…」
と、だけ、告げた…
小さく、告げた…
ホントは、もっと、大きな声を出せるのだが、小さく、告げた…
顔が、真っ赤になった原因が、伸明だと、知られるのが、恥ずかしいからだ…
だから、小さく、言った…
わざと、小さな声で、言った…
が、
私の声は、伸明には、届かなかったようだ(涙)…
「…大丈夫ですよ…寿さん…」
と、伸明は、自信ありげに、言った…
「…なんといっても、ここは、五井記念病院…五井グループの運営する、病院です…それになにより、ボクは、五井家の当主です…多少の無理は、聞いてくれます…」
伸明が、言った…
当たり前のことを、言った…
そして、そんな当たり前のことを、忘れていたというか…
私が、この五井記念病院に入院したのは、一人暮らしの私の身になにか、あったときは、契約している警備会社の方に、
「…五井記念病院に、運ぶように…」
と、手配していたからだ…
この五井の若き当主、諏訪野伸明と。知り合い、五井の一族の方たちと、知己を得た…
その縁もあり、以前、この五井記念病院に入院したことが、あるからだ…
だから、私の身に、なにか、あったときには、この五井記念病院に、私を運んで、欲しいと、事前に、周囲の人間に、要望していた…
それを、忘れていた…
すっかり、忘れていた…
だから、今、この伸明が、この五井記念病院のお偉いさんに、依頼して、私の病室に、すぐに、医師のセンセイを、呼ぶことは、可能…
実に、簡単だ…
なにより、この五井記念病院の理事長は、この五井の一族が、代々、就いている…
私自身、以前、この五井記念病院の理事長だった男性を知っている…
その男性は、なんと、私より、若い男性だった…
32歳の私より、若かった…
それでも、こんな大病院の理事長になれたのは、五井の一族だから…
五井の主要な一族出身だったからだ…
それは、ちょうど、皇族の方たちが、日赤等の、名誉総裁になられるのと、同じ…
同じだ…
言葉は、悪いが、お飾り…
お飾りに過ぎない…
この五井記念病院を例に取れば、五井の名前を冠した、こんな大病院をたかだか、私より、年下の、若造が、理事長になど、なれるわけがない…
五井の一族だからこそ、なれるのだ…
私は、今、それを、思い出していた…
思い出していたのだ…
伸明が、いきなり、立ち上がり、
「…では、センセイを呼びに、行ってきます…」
と、言った…
私は、慌てて、伸明の手を握った…
きつく、握りしめた…
さっきも、伸明の手を、握っていたが、いつのまにか、手を放していた…
だから、再び、きつく、手を握り締めた…
そして、
「…ダメ!…」
と、短く言った…
なにより、力強く、言った…
これには、私自身も驚いた…
私が、思ったよりも、力強い声を出せたからだ…
伸明は、当然のことながら、戸惑った…
なにしろ、ベッドの上にいる、私に手を握られている…
だから、私の手をほどかなければ、この病室は、出られない…
医者を呼びに、いけないからだ…
だから、困った…
伸明は、困った顔をした…
「…寿さん、手を放して下さい…」
伸明が、懇願した…
私に懇願した…
私は、再び、
「…ダメ!…」
と、言った…
強く、言った…
「…ダメって…」
伸明は、戸惑った…
私は、わざと、強い口調で、
「…ここにいて…」
と、言った…
言ったというより、もはや、命じたと言った方が、いいかも、しれない(笑)…
それほど、強い口調で、言った…
それから、わざと、
「…寂しいの…」
と、付け加えた…
女が、よく使う手だ(爆笑)…
ホントは、寂しくなんて、これっぽっちもない(苦笑)…
ただ、伸明に、このまま、病室を出て行かれ、医者を連れて来られては、困る…
それでは、私が顔を、赤くした理由が、わかってしまう…
なぜ、顔を赤くしたのか、わかってしまう…
今、軽い脳梗塞で、入院したことと、なんの関係がないことが、わかってしまう…
だから、慌てた…
実に、慌てた…
32歳にもなった、大人がすることでは、ないと、思う…
我ながら、実に、そう思う…
こんなことを、するのは、中学生や高校生…
いや、
高校生でも、やらないかも、しれない…
私は、思った…
私は、考えた…
伸明は、さすがに、私の手を強引に振りほどくことは、なかった…
さすがに、それは、できなかった…
それゆえ、ただ、私の手を握り、戸惑った…
終始、戸惑っていた…
私は、そんな伸明の表情を見るのが、好きだった…
我ながら、意地悪だと、思ったが、好きだった…
一体、こんなことは、いつ以来だろう?
考えた…
思えば、こんなことは、学生時代は、しょっちゅうだった…
ひっきりなしだった…
「…あの男のコ…綾子のことが、好きなのよ…」
よく親しい、女子に、学生時代、言われたものだ…
「…ほら、今も、綾子の方を、チラチラ見てる…」
そう、私の本名は、矢代綾子…
そして、その名前は、従姉の名前…
私の母の姉妹の娘の名前…
その従姉が、亡くなったので、代わりに、私が、従姉になりすまして、寿綾乃を名乗った…
従姉の寿綾乃が、大金持ちの血を引く、娘だと、母から、告げられたからだ…
その大金持ちが誰だか、わからなかったが、それが、五井だった…
つまり、私の叔母も、今の私と同じ…
今の私と同じで、五井の当主と恋に落ちた…
伸明の父の建造と、恋に落ちた…
が、
結婚は、できなかった…
建造が、同じ五井一族の昭子と結婚したからだ…
あの和子の双子の姉の昭子と結婚したからだ…
建造は、私の叔母と結婚したかったが、できなかった…
一族の圧力で、東家の昭子と結婚したからだ…
そして、建造は、その生涯を、五井本家の力を増すことに、全力を尽くした…
次世代の自分の子孫たちが、分家の圧力に屈しないためだ…
そして、今、その建造の努力の甲斐なく、息子の伸明もまた、分家の圧力にさらされている…
西家から、結婚の圧力にさらされている…
これは、一体、なんと言っていいか?
歴史は、繰り返すとでも、言えば、いいのか?
私は、今、そんなことを、考えた…
私は、今、そんなことを、思った…
そして、そんなことを、思っていると、伸明が、
「…寿さんと、こんなふうに、いっしょにいるのは、ずっと、以前、父の墓参りに行ったとき以来ですね…」
と、言った…
突然、言った…
私は、思わず、そんなこと、あったっけと、言いたかった…
が、
少し、考えて、そんなことが、あったと、思い出した…
この伸明と知り合って、まもなく、そんなことがあったと、思い出した…
伸明の父の建造が、急死し、その建造の墓に、夜、伸明の運転するクルマで、行ったことを、思い出した…
そして、建造の墓の前で、伸明とキスをしたことを、思い出した…
我ながら、黒歴史…
あっては、ならない黒歴史だった…
なんと言っても、まるで、子供のような、恋愛だったからだ…
いや、
恋愛ごっこだったからだ…
三十路を過ぎた女の恋愛では、ないからだ…
正直、かなり恥ずかしい…
今、思い出しても、かなり恥ずかしい…
まさに、黒歴史…
あっては、ならない黒歴史だった…
今、思い出しても、恥ずかしい黒歴史だった…
またもや、顔が赤くなったかも、しれない黒歴史だった…
そして、そんなことを、考えていると、いつのまにか、この伸明が、私の顔に、自分の顔を、近付けていることに、気付いた…
そして、その数秒後、いきなり、伸明が、私にキスをした…
突然、私の顔に、キスをした…
あまりに、突然…
突然の出来事だった…
青天の霹靂の出来事だった…




