寿綾乃という女 第4部 70
「…綾乃さん、昨日は、すまなかった…」
ナオキが、私に頭を下げる…
私は、
「…いいのよ…」
と、だけ、言った…
それ以上は、言わなかった…
言っても、仕方がないからだ…
だから、言わなかった…
そして、それは、ナオキも、同じだった…
それ以上、昨日のことには、言及しなかった…
なにしろ、私たちは、もう、十五年は、いっしょにいる…
だから、互いの性格は、わかっている…
互いに、なにを、考えているのか、わかっている…
二人とも、過去は、振り返らない…
未来だけを、考える…
そう言えば、カッコイイが、それは、要するに、ナオキが、会社を立ち上げて、まもない頃から、そう考えなければ、やっていけなかったから…
僕たちは、成功する!…
そう、思わなければ、やっていけなかったからに過ぎない…
お金もなければ、将来も、なにも、ない…
そんな青年たちが、考えることと、言えば、将来の成功だけ!…
それを夢見ることだけだからだ…
だから、今も、なにも、言わなかった…
すでに、終わった昨日の夜のことは、口にしなかった…
朝食が、終わり、
「…じゃ、綾乃さん、会社に行ってくる…」
とだけ、言って、ナオキは、家を出た…
マンションの地下駐車場には、すでに、会社からの送迎車が、迎えにやってきている…
私は、ナオキを送り出すと、考えた…
果たして、いつまで、こんな生活が、続けられるのか、考えた…
いつまで、ナオキが、社長でいられるのか、考えた…
が、
いつまでも、そんなことを、考えても、仕方がない…
物事は、なるようにしか、ならない…
それを、なにより、自分自身が、わかっているじゃないか?
病気になって、わかっているじゃないか?
癌になって、わかっているじゃないか?
そう、思った…
実に、そう、思った…
そう、自分に言い聞かせた…
私は、ナオキを送り出してから、今日一日、どう過ごそうか、考えた…
たしかに、体調は、よくなってきた…
が、
かといって、外出は、億劫…
外へ出て、歩くのは、億劫だった…
それは、昨日、スーパーに、買い物に出て、あの菊池リンと、会って、思った…
菊池リンと、会って、おしゃべりをして、それから、スーパーで、買った、食料品を持って、家に帰った…
これだけで、ひと騒動…
おおげさに、言えば、ひと騒動だった…
だから、ホントは、家に閉じこもっているのが、良いのだが、その反面、少しでも、カラダを動かさなれば、ならないとも、思った…
軽い脳梗塞で、病院に運ばれたときに、医者のセンセイから、
「…寿さん、少しでも、カラダを動かして、下さい…」
と、言われたからだ…
「…カラダを動かすというのは、例えば、家で、トイレに行くのも、カラダを動かすこと…トイレまで、歩くからね…または、机の前で、椅子に座って、両手を広げて、動かすだけでも、いい…それだけで、血の巡りがよくなる…」
と、言われた…
説明された…
「…まあ、一番、いいのは、散歩かな…」
「…散歩ですか?…」
「…歩くことで、カラダの血の巡りが、良くなる…」
「…」
「…寿さんも、体調が、良くなったら、少しでも、外に出て、歩くことです…ただ、歩くだけでいい…それだけで、カラダの中の血の巡りがよくなります…」
「…」
私は、医者のセンセイとの、会話を思い出した…
そして、
…散歩か…
と、ぼんやりと思った…
正直、カラダを動かすのは、億劫…
まして、散歩をするのは、億劫だった…
が、
しなければ、ならない…
少しでも、カラダを動かさなければ、ならない…
そう、肝に銘じた…
そう、肝に銘じたのだ…
それから、朝の食事が、終わった後の、食器を片付け、私とナオキの衣類の洗濯をした…
そして、軽く、部屋の掃除…
それらが、終わってから、私は、外に出ることにした…
外に出て、散歩に出ることにした…
とりたてて、どこにいくという当てはない…
だから、とりあえず、外に、出て、近所を、歩く…
それだけにした…
それだけでも、十分、気分転換になった…
ずっと、家に閉じこもっているよりも、よい気分転換になった…
そして、そう考えたとき、つくづく、自分は、無精者だと、思った…
これは、最近、気付いた…
病気になって、気付いた…
なぜなら、それまでは、ずっと、働きづめだったからだ…
田舎から、上京して、ほどなく、失踪したユリコの代わりに、ナオキの家庭に入って、ジュン君の面倒をみた…
そして、ジュン君が、少しは、手がかからなくなると、ナオキの会社の手伝い…
常に、忙しかった…
が、
それが、当たり前…
当たり前だった…
忙しいのが、当たり前だった…
高校生にも、関わらず、家では、すでに、主婦だった(笑)…
にもかかわらず、充実していた…
私の生活は、充実していた…
だから、忙しいも、なにもない…
私の人生は、充実していたからだ…
しかし、病気が、それを、変えた…
同時に、ジュン君の運転するクルマにはねられたことも、私を変えた…
それまでの、忙しい日々から、一転して、入院生活…
そして、自宅での療養…
ハッキリ、言って、することがない(苦笑)…
することが、なにもない…
最初のうちは、それが、嫌だった…
なにも、しないのが、嫌だった…
手持ち無沙汰で、仕方がなかった…
病気でいるにも、かかわらず、心の中では、手持ち無沙汰で、仕方がなかった…
が、それも慣れた…
まもなく、慣れた…
病気で、動けないことに、慣れた…
すると、どうだ?
今度は、することが、なにもないことが、日常になった…
そして、それが、手持ち無沙汰でなくなった…
むしろ、なにもしないことが、楽しいとすら、感じて来た(笑)…
病院から、退院して、家に閉じこもっているのが、楽しいとすら、感じてきた…
そして、つくづく、考えた…
ホントは、私は、無精者…
一日中、なにもしないのが、楽しい無精者では、ないのかなと、考えた…
それまでは、ずっと、忙しかった生活から、一転して、入院生活…
しかし、それに慣れてしまえば、むしろ、一日中、なにもしない方が、楽…
ただ、病院で、ベッドに横になっていたり、療養のために、家に閉じこもっている方が、楽…
そう、考えが、変わった…
そして、そんな状態に、陥ってから、
…ホントは、私は、無精者かも?…
と、気付いた…
これまでは、やらざるをえないから、やってきた…
ジュン君の世話も、会社の仕事も、やってきた…
が、
それは、ただ、やらざるを得ないから…
ホントは、なにもやりたくない…
一日中、家の中に閉じこもって、ゴロゴロしているのが、好き…
それが、私の本性かも?
そう、気付いた…
自分でも、まったく、思ってもない、本性かも、しれないと、気付いた…
それゆえ、億劫…
家から、外に一歩でも、出るのが、億劫(笑)…
そんな自分の本性に、気付いた…
だから、今日は、そんな、出不精の私に鞭を打って、出かけた…
ペットボトルを片手に、家を出た…
ペットボトルを片手にと、言ったのは、脳梗塞で、倒れたときに、医者のセンセイから、
「…寿さん、常に、水を飲むようにして下さい…」
と、言われたから…
要するに、血の巡り…
脳の中の血が固まることで、脳梗塞になったから、カラダの中の血の巡りをよくしていなければ、ならない…
血が固まることを、防がなければ、ならない…
それには、まず、水分を切らさないこと…
常に、適切に、水分を補給すること…
そして、カラダを動かすこと…
カラダを動かすことで、カラダの中の血の巡りがよくなるからだ…
それゆえ、私は、今、ペットボトルを片手に、家を出た…
昨日は、スーパーに買い物に行くときは、ペットボトルを持っていかなかった…
それは、やはり、飲み物を持って、スーパーに行くのは、嫌だったから…
まさかとは、思うが、万引きにでも、間違えられたら、嫌だったからだ(爆笑)…
だから、昨日は、持っていかなかった…
そして、今、ペットボトルを片手に、外に出れば、やはり、いい…
気持ちがいい…
家の中に、閉じこもっているよりも、気持ちがいい…
つくづく、思った…
そう、考え直した…
そして、行き先を考えた…
どこに、行けば、いいか、行き先を考えた…
ただ、周囲をプラプラ歩くのも、いいが、やはり、それでは、困る…
どこか、行き先を決めなければ、困る…
行き先を決めずに、ただ、周囲をプラプラ歩くのは、しんどいというか…
例えば、昨日のように、スーパーに行く…
あるいは、区役所に行く…
別に、区役所に用事はなくても、区役所の前まで、歩いて、行き、そこで、Uターンして、家に帰ってくれば、いい…
私の家から、例えば、区役所まで、歩いて、30分かかるとすれば、往復、一時間…
良い運動になるからだ…
そう、思った…
そう、思ったのだ…
ならば、やはり、区役所に向かうか?
そう、考えた…
区役所まで、歩いて、そこから、家にUターンして、戻るか?
そう、考えた…
そして、そう、考えると、自然に、足が、区役所に、向かった…
とろあえず、目的が決まれば、いい…
どこに、行くか、目的が、決まれば、いい…
そう、思ったのだ…
そして、そう、思って、歩いて、いると、前から、どこかで、見た顔が、歩いてきた…
私の見知った知人が、歩いてきた…
が、
少し、考えて、それは、他人のそら似…
他人のそら似に、違いないと、思った…
なぜなら、それは、今、ここに、いるはずのない、人間…
病院で、入院しているはずの人間だからだ…
五井記念病院に入院しているはずの人間だからだ…
そして、その人物は、諏訪野和子…
伸明の叔母であり、五井の女帝と世間で、呼ばれる人物に、そっくりだった…




