寿綾乃という女 第4部 66
そして、そう思うと、私は、
「…それは、伸明さんに、言うことじゃ…」
と、言った…
「…伸明さんに、直接、言うことじゃ、ないの?…」
「…どういうことですか?…」
「…だって、私が、あの見合いの席にいたのは、伸明さんに、頼まれたから…決して、私が、好んで、伸明さんの見合いの席にいったんじゃないわ…」
「…」
「…伸明さんから、頼まれたから、仕方なく…」
私が、言うと、菊池リンは、黙った…
「…」
と、黙った…
「…私だって、嫌だったのよ…」
「…嫌だった?…」
「…だって、五井一族でも、なんでもない、私が、伸明さんの見合いの席に同席するなんて、おかしいでしょ? でも、伸明さんに、頼まれて…」
そう言うと、菊池リンは、なにも、言えなかった…
「…」
と、なにも、言えなかった…
真剣な表情で、私を見た後、
「ですよね…」
と、呟いた…
私の言葉に、納得するように、呟いた…
「…たしかに、綾乃さんの言う通りです…」
菊池リンが、答える…
私は、それを、見て、この菊池リンが、
…言わされている!…
と、思った…
あらためて、思った…
この菊池リンの背後にいる人物に、言わされている!…
そう、思ったのだ…
そえゆえ、私も、彼女、菊池リン同様、カップに残ったコーヒーを一気に飲み干した…
それから、私は、立ち上がり、
「…菊池さん…」
と、菊池リンの名前を、呼んだ…
「…なんですか?…」
「…私に言いたいことが、あるのなら、直接、言いなさい…」
「…直接って?…」
「…菊池さんの背後にいる人物…今日、こうして、菊池さんに、言わせている人物…」
そう言うと、彼女は、黙った…
「…」
と、黙った…
そして、私は、その姿を見て、
「…菊池さん…」
と、再度、呼びかけた…
「…綾乃さん、なんですか?…」
「…和子おばあさあが、倒れて、困るのは、伸明さんだけじゃないようね…」
「…伸明さんだけじゃない? それは、どういう…」
「…菊池さん、アナタだって、困るのは、いっしょじゃないの?…」
「…私が、困る? どうして、私が、困るんですか?…」
「…アナタの後ろ盾こそ、あの和子おばあさまでしょ?…なんといっても、アナタは、和子さんの孫なのだから…」
「…それは…」
「…和子おばあさまが、倒れて困るのは、伸明さんも、でしょうけれども、それは、アナタの同じ…」
「…」
「…いずれにしても、和子おばあさまの身になにか、あれば、困るのは、いっしょ…五井家内のパワーバランスが、崩れる…それゆえ、アナタは、和子おばあさまに代わる、新たなる後ろ盾が、必要になった…そして、今、その後ろ盾に頼まれて、私の元にやって来た…でしょ?…」
「…」
「…だから、私に言いたいことがあるのなら、その人物に、直接、私に言いなさいと、言ってやりなさい…」
私は、言うと、席を立った…
菊池リンは、なにも、言わなかった…
黙っていた…
黙って、席に、座ったままだった…
私は、買い物で買った、食料品を持って、スタバを出た…
まさに、主婦…
まだ、結婚もしていないのに、主婦だった(苦笑)…
私が、ひとりで、買い物袋を持って、歩く姿は、誰が、見ても、主婦そのものだったからだ…
そして、私が、主婦だという指摘…
それは、半分正しい…
半分というのは、曖昧…
私とナオキの関係が、曖昧だからだ…
結婚は、していないが、かつては、夫婦同然だった…
今は、私の自宅に帰ってきているが、それは、今だけ…
私の体調が悪いから、今だけ、心配になって、戻ってきてくれただけ…
このまま、ずっと、いっしょに暮らすかと、なると、別問題…
さっぱり、わからないと言うのが、答えだからだ…
一体、私は、この先、誰と結婚するのだろう?
ふと、思った…
ずっと、前に、週刊誌か、なにかで、読んだ記事を思い出した…
あるいは、母に聞いたのだろうか?
就活中の女子大生が、就職が、決まった経緯だ…
その女子大生は、当時、就職先が、決まらず、焦っていたそうだ…
そして、たまたま、バイト先の年上の女性と、その話になり、
「…だったら、パパに頼めば…きっと、なんとか、してくれるから、頼んでみれば?…」
と、言われ、その通りにしたそうだ…
パパと呼ぶから、てっきり、その相手のパパは、今でいうパパ活の相手だと、思ったら、実のパパだったそうだ(笑)…
その女性が、派手な女性だったから、そんな女性が、パパと、呼ぶものだから、彼女のパパ活相手だと、勝手に、思っていたそうだ(苦笑)…
そして、彼女の言われた通りに、彼女の父親の会社に、行ったが、すでに、その会社の今年の就職採用は、終わっていたそうだ…
それゆえ、今さら、あらたに、ひとは、雇えない…
「…困ったな…」
と、そのパパさんは、頭を抱えたそうだ…
実の娘に頼まれて、やって来た、その女子大生を無下にできなかったのだ…
すると、たまたま、同席していた、会社の取引先の相手の方が、
「…それでは、うちで、採用しましょう…うちは、まだ、採用が終了していませんから…」
と、申し出て、その女子大生本人も、驚く展開になったそうだ…
結果として、まったく、意外な会社に就職したそうだ…
それを、思い出した…
瓢箪から駒が出たというか…
本人も思ってもいない、意外な結果になった…
だが、人生では、そんなことは、たまにある…
自分でも、思っていないことが、稀にある…
となると、どうだ?
案外、私の結婚も、そうなるかも、しれない…
ナオキでも伸明でもなく、第三者の男と結婚するかも、しれない…
そう、思った…
そう、思いながら、一方で、
…そんなわけ、ないか!…
とも、思った…
そんな夢みたいなこと、あるわけないか?
と、思った…
そして、そんなバカなことを、考えながら、家路に着いた…
まさに、バカな女の典型…
32歳のバカな女の典型だった…
家に帰ると、張り詰めていた緊張が、一気に解けたというか…
実に、ホッとした…
病気のせいか…
はたまた、歳のせいか、家に帰ると、実に、ホッとする…
さすがに、若い頃は、そんなことは、なかった…
昔は、もっと、活動的だった…
会社では、ナオキの手伝い…
家では、幼いジュン君の面倒を見ていた…
それゆえ、同世代の女のように、遊び回ることなど、できなかったが、それでも、いまより、ずっと、活動していた…
今より、ずっと、動いていた…
それが、今は、できない…
できなくなった…
年寄りでは、ないが、できなくなった…
寿綾乃、32歳…
まだまだ、老け込む年齢ではない…
まだ、結婚もしていない…
まだ、子供も、産んでいない…
さすがに、老け込むには、早過ぎる…
いくらなんでも、早過ぎる…
病気のせいもあるが、いくらなんでも、早過ぎる…
私は、自分で、自分を奮い立たせた…
自分自身を叱咤激励した…
それで、なんとか、平衡感覚を維持したというか…
いつもの私になった…
いつもの、寿綾乃になった…
いつもの、矢代綾子になった…
いつもの、私になったのだ…
誰かに見られているわけではない…
部屋にひとりでいるだけ…
それでも、私は、いつもの、私になった…
会社で見る寿綾乃になった…
そして、そうなって見て、考えた…
もしや、私は、不器用な人間ではないのか?
ふと、考えた…
それまで、考えたことのないことを、考えた…
なぜなら、私には、オンとオフの区別がない…
会社でいるときと、家にいるときの差がない…
いつも、同じ、私…
いつも、同じ、寿綾乃だからだ…
だから、私は、不器用…
もしかしたら、不器用なのかも、しれない…
今さらながら、思った…
器用な人間は、オンとオフを使い分ける…
二重人格では、ないが、使い分ける…
会社でのオレ、アタシ…
家でのオレ、アタシと使い分ける…
が、
そんなことは、私には、無理…
私には、できない…
だから、私は、変な話、会社でも、家でも、制服を着た寿綾乃…
自分でいうのも、おかしいが、やり手の秘書だ(苦笑)…
それ以外の顔がない…
それ以外の姿が、ない…
だから、もしかしたら、そんな私が、結婚して、子育てに奔走する姿は、会社の人間には、想像もつかないことかも、しれない…
いや、
会社の人間だけではない…
私自身も、想像がつかない…
私が、子育てしている姿は、私自身、想像が、つかない…
私は、赤ちゃんに、授乳したりする姿は、自分でも、想像がつかない…
だから、まだ、結婚ができないのかも、しれない…
なにしろ、自分が、子供を産んで、その子供を育てる姿が、自分でも、想像ができないのだ…
そんな自分が、結婚や子供を産んだり、育てたりすることが、できるとは、思えない…
自分自身のことだが、まったく、思えない…
しかし、
しかし、だ…
買い物から、帰って来て、こんなことを、真剣に考えるとは?
もしかしたら、私は天然?
私は、少しばかり、抜けている?
そう、思った…
そう、気付いた…
同時に、気付いた…
こんなバカなことを、考えている私は、実に、平和な人間…
平和な女と、思ったのだ…
癌も、まだ、完治していない…
先日は、脳梗塞で、入院した…
まさに、満身創痍…
傷だらけの身だ…
それゆえ、天然の方が、いい…
少しばかり、抜けていた方が、いい…
その方が、深刻に考えないからだ…
物事を深刻に考えない…
軽く考えるからだ…
だから、いい…
少々、抜けていた方が、いい…
そう、思った…
自分勝手に、そう、思ったのだ…
しかしながら、そんな平和な時間は、夜になって、ナオキが、家に帰って来て、吹き飛んだ…
見事なまでに、吹き飛んだ…




