寿綾乃という女 第4部 42
伸明は、マミさんの言葉に反応しなかった…
無言で、ハイボールの缶を、飲んでいた…
「…あの西家の叔父様と、叔母様は、これで、簡単に引き下がるタマじゃない…」
と、マミさんが、言った…
その言葉には、驚いたが、さもありなん…
たしかに、あの手の人間が、簡単に引き下がるとは、到底、思えなかった…
「…それが、あの態度…だから、余計に不気味…」
マミさんが、言う…
おそらくは、伸明の胸中を察して、言う…
が、
それだけでは、なかった…
伸明が、不機嫌な理由は、それだけでは、なかった…
それは、
「…まだ、あるよ、マミさん…」
と、伸明が、ハイボールの缶を飲みながら、言ったからだ…
「…まだ、ある? なにが、あるの? 伸明さん?…」
「…あのハルカという娘の態度だ…」
「…あの娘の態度?…」
「…そうだ?…」
「…それが、どうかしたの?…」
「…あれは、言わされている…」
「…えっ?…」
「…長谷川センセイか、西家の叔父様や、叔母様に、言われたのか、どうか、わからないが、明らかに、言わされている…」
「…どうして、そう、思うの?…」
「…だって、マミさん、考えてみて?…」
「…なにを、考えてみるの? 伸明さん?…」
「…テレビのバラエティーのやらせじゃないんだ…二十代後半の女が、見合いで、あんな態度を取るわけないだろ!…」
「…」
「…あれは、長谷川センセイか、西家の叔父様か、叔母様に、言われたに違いないんだ…わざと、わがままに、振る舞いなさいと、言われたに、違いないんだ…」
「…どうして、そんなことを?…」
「…たぶん、こちらの反応を見たいんだろ?…」
「…伸明さんの反応を見たい?…」
「…和子叔母様が、不在だから、ボクが、どういう対応をするか、試したんじゃないか?…」
伸明の言葉に、マミさんも、黙るしか、なかった…
「…西家の叔父様や、叔母様は、和子叔母様が、怖くて、仕方が、なかったんじゃ、ないかな?…」
「…どうして、そんなに、怖いの?…」
「…叔母様は、対外的には、五井を代表している…これは、紛れもない、事実…」
「…」
「…父の建造が、存命していたときから、叔母様は、五井の顔だった…双子の姉である、ボクの母が、表に出ることは、なかったからね…」
「…」
「…そして、父の建造が、亡くなり、ボクが、後を継いだわけだが、どうしても、叔母様の印象が、強い…五井と言えば、和子叔母様の印象が、強い…」
「…」
「…元々、父の建造は、穏やかで、決して、強烈なキャラクターでは、なかった…でも、叔母様は、結構、強烈で…」
伸明が、言うと、プッと、マミさんが、吹き出した…
それから、
「…伸明さん、それは、言い過ぎ…」
と、伸明を叱った…
笑いながら、叱った…
それを、聞いた伸明は、これも、笑いながら、
「…たしかに、言い過ぎかも、しれないが、事実だ…」
と、笑って、言った…
すると、マミさんも、今度は、なにも、言わなかった…
「…でも、だから、叔母様は、五井を代表することが、できた…五井の女帝と、言われることが、できた…その存在感は、圧倒的だった…だから、叔母様が、いなくなることが、どれほどの損失か、まさに、身をもって、わかった…」
「…」
「…叔母様が、倒れるなり、すぐさま、西家が動き出すとは、思わなかった…」
「…」
「…だが、まあ、これも、試練と思えば、いい…」
伸明が、笑った…
こわばった表情で、笑った…
「…試練って? 伸明さん?…」
マミさんが、聞く。
「…叔母様には、失礼だが、いつか、叔母様も、いなくなる…ボクや、マミさんよりも、はやく、いなくなる…」
「…伸明さん、それは…」
「…だから、その前に、叔母様に頼らず、ボクも、そして、マミさんも、この五井家を、まとめなければ、ならない…叔母様が、不在な、この時期に、うまく、五井家をまとめならければ、ならない…さもないと、いずれ、叔母様が、いなくなったときに、大変になる…」
「…」
「…これまでは、ずっと、叔母様が、ボクの後ろ盾だった…でも、いつまでも、そうは、いかない…今回の件で、それを、認識したよ…」
伸明が、しみじみと、呟く…
「…五井は、四百年…まさか、ボクの代で、バラバラになるわけには、いかない…」
「…バラバラって?…」
と、マミさん。
「…五井は、本家と、東西南北の分家を中心に固まっている…でも、そのバランスが、崩れれば、下手をすれば、バラバラになりかねない…」
「…」
「…父の建造が、あれほど、五井の一族の中で、本家の力を強化しようと、尽力したが、結果は、このざまだ…」
伸明が、力なく、笑う…
「…父に、申し訳ない…情けない息子で、申し訳ない…」
伸明が、言って、ハイボールの缶を一気に、呷った…
まるで、自分の情けなさを、飲み込むように、呷った…
それを、見て、私は、なんとも、言えなかった…
伸明のそんな姿を見て、なんとも、言えなかった…
同時に、平等だなと、思った…
人間は、平等だなと、思った…
伸明には、失礼だが、思った…
金持ちに生まれようと、金持ちに、生まれなかろうと、悩みは、常にある…
それが、わかった…
まざまざと、わかった…
ただ、金持ちと、金持ちでない、人間の最大の違い…
それは、おそらく、生活の不安…
貧乏人は、生活の苦労があり、金持ちには、生活の苦労がない…
それが、金持ちと貧乏人の最大の違いだからだ…
要するに、悩みの違い…
これだけだ…
金持ちであろうと、貧乏人で、あろうと、悩みは、尽きない…
ただ、悩みの中身が、違うだけだ…
私は、目の前の伸明を見て、あらためて、それを、実感した…
心の底から、実感した…
すると、私のそんな感情が、表情に、出たのだろう…
「…寿さん、なにを、考えているの?…」
と、マミさんが、突然、私に言った…
私に、聞いた…
私は、驚いたが、なんと、言っていいか、わからなかった…
だから、すぐには、答えなかった…
だが、すぐに、続けて、マミさんが、
「…寿さん、教えて…」
と、聞くから、少し、考えて、
「…いえ、人間は、変わらない…同じだなって…」
と、答えた…
「…それは、どういうこと?…」
と、マミさんが、聞く。
「…お金持ちも、お金持ちじゃない人間も、皆、同じ…皆、悩みがある…伸明さんの姿を、見て、あらためて、そう思って…」
私が、言うと、マミさんが、絶句した…
きっと、どう返答していいか、わからなかったのだろう…
真逆に、伸明は、私の顔を、見た…
マジマジと、見た…
それから、
「…寿さんは、こんなボクの姿を見て、情けない男だとは、思わないんですか?…」
と、私に聞いた…
それゆえ、私は、即座に、
「…思いません…」
と、答えた。
「…どうして、思わないんですか?…」
と、伸明。
「…だって、悩みが、ない人間なんて、誰もいませんよ…」
「…」
「…ただ、悩みの種類が、違うだけです…」
「…どう違うんですか?…」
「…普通のひとは、生活の苦労でしょ? 今や、会社は、名の知れた大企業でも、リストラは、当たり前…歳を取れば、誰もが、リストラの陰に怯える…そして、そこまでいかなくても、この物価高…日々の生活の苦労を、誰もが、実感しているはずです…」
「…なるほど?…」
伸明が、頷く。
「…だったら、寿さんは、ボクの悩みは、どう、思います? 率直に、言って、下さい…」
「…贅沢な悩みだと、思います…」
「…贅沢な、悩みですか?…」
「…これは、皮肉でも、なんでも、ありません…究極のところ、生活の悩み以外は、全部、贅沢な悩みだと、私は、思っています…」
私は、断言した…
私の言葉を聞いて、伸明は、黙った…
黙って、缶のハイボールを飲んだ…
そして、一個目のハイボールを飲み終えると、すぐに、二個目のハイボールの缶を開けて、飲み出した…
私と、マミさんは、黙って、そんな伸明を見ていた…
そして、伸明が、二本目の缶を飲みながら、
「…今日、どうして、寿さんを、この場に呼んだのか、わかりますか?…」
と、続けた…
「…いいえ、わかりません…」
私は、答えた…
「…寿さんの感想を聞きたかったんですよ…」
「…私の感想?…」
「…そうです…」
伸明は、言って、またハイボールの缶に、口をつけた…
「…あの西家の叔父様や、叔母様…そして、今日のボクの見合い相手を見て、どう思うのか? それが、知りたかった…」
「…どうして、私に?…」
「…寿さんが、第三者だからですよ…」
「…えっ?…」
「…寿さんは、我々とは、違う、まったくの第三者…ボクやマミさんと変な利害関係もない…」
「…利害関係?…」
「…会社でも、上司ならば、言いにくい…肉親でも、言いにくいことが、あるし、肉親ならば、かえって、昔から、知っているから、気付きにくいことがある…」
伸明が、西家夫妻のことを、言っているのは、明らかだった…
「…だから、今日、寿さんを、呼んだ…マミさんに頼んで呼んだ…」
伸明が、告白する…
私は、それを、聞いて、
…そういうことか?…
と、思った…
要は、利害関係のない、第三者である、私の目から、今日、この見合いに参加した人間の評価を、聞きたかった…
そうだと、気付いた…
遅ればせながら、気付いた…
が、
だったら、どう言えば、いい…
やはり、忌憚のない意見を言うべきだろうか?
それとも?
私は、悩んだ…
が、
気が付くと、マミさんと、伸明が、真剣な表情で、私を見ていることに、気付いた…
だから、ここで、しらばっくれるわけには、いかない…
うまく、言い逃れることも、できない…
そう、思った…
そう、思ったのだ…
それゆえ、私は、口を開いた…
ゆっくりと、口を開いた…
「…長谷川センセイの野心は、五井家への復帰です…」
と、言って、口を、開いた…




