寿綾乃という女 第4部 34
私は、どう違うか、聞きたかった…
が、
聞かなかった…
いや、
聞けなかった…
それほど、マミさんの表情が、硬かったからだ…
マミさんの表情が、真剣というか、深刻というか…
つまりは、第三者が、聞ける状態では、なかったからだ…
私が、それを、察して、黙っていると、マンションの地下駐車場から、出たフェラーリが、地上に出て、道路に乗った…
クルマの列に、乗った…
それから、マミさんが、
「…さっき、そう言ったのは、今度のことがあるから…」
と、ぶっきらぼうに、言った…
「…今度のことって?…」
と、私。
「…五井西家が、伸明さんに、縁談を持ちかけたこと…」
「…それが、一体?…」
「…いえ、別に、伸明さんに、縁談の話を進めるのは、全然構わない…これが、普通だったら、全然構わない…なんてったって、伸明さんは、独身なんだから…全然、構わない…」
「…」
「…でも、和子叔母様が、不在なときに、伸明さんに縁談を進めるとは、思わなかった…夢にも、思わなかった…」
「…」
「…これじゃ、見え見え…和子叔母様の不在時に、伸明さんを西家に取り込もうとしているのは、見え見え…まさか、西家が、そんなことをするとは、思わなかった…そんな卑怯な真似をするとは、夢にも思わなかった…」
マミさんが、激白する…
強い調子で、激白する…
「…まさか、和子叔母様が倒れたからって…まさに、鬼のいぬ間になんとかって、やつ…まさか、西家が、そんなことを、するとは、思わなかった…」
マミさんが、続ける…
「…私も、伸明さんも、西家の叔父様や叔母様を、子供の頃から、知っている…それが、こんな…こんな卑怯な真似をするなんて…」
マミさんが、怒りの表情で、激白する…
「…まさに、まさか…まさかよ…」
「…」
「…信じていたひとに、裏切られた感じ…」
マミさんは、やるせない表情で、語る…
「…私も、35歳…これまで、ひとを信じて、裏切られた経験は、何度もある…でも、これは、その中でも、最悪…最悪の出来事…」
「…」
「…ひとって、信じられないんだ…そう、思わせるに、十分な出来事よ…」
マミさんは、断言した…
強い、口調で、断言した…
私は、それを、聞いて、今さらながら、私が、軽い脳梗塞で、五井記念病院に入院したときに、伸明が、見舞いにやって来て、愚痴をこぼしたことを、思い出した…
私は、軽い脳梗塞で、しゃべれない…
だから、必然的に、伸明が、一方的に、しゃべることになる…
言葉は、悪いが、自分語り…
一方的に、自分だけが、しゃべり続けることになる…
それゆえ、これまで、あまり、自分のことを、私に語らなかった伸明の心情が、明らかになった…
思ったより、弱い伸明のことが、明らかになった…
が、
それも、今、このマミさんの言う通りなら、仕方がないと、思う…
納得する…
なまじ、子供の頃から、見知った、人間なら、やはり、信頼する…
あるいは、信用する…
にもかかわらず、伸明の後ろ盾である、和子が、倒れたと、知ると、すかさず、自分の家の娘と、伸明を結婚させようとする…
これでは、誰もが、驚くし、落胆する…
まさか、こんなひとだったの?
と、思う…
そして、裏切られたと、思う…
それが、当たり前だ…
それゆえ、あのとき、伸明は、落ち込んだ…
心底、落ち込んだんだと、思う…
そして、幸か不幸か、あのとき、私は、しゃべれなかった…
軽い脳梗塞の影響で、しゃべれなかった…
だから、伸明は、しゃべった…
一方的にしゃべった…
心の内をしゃべった…
それゆえ、初めて、伸明の心の内を知れた…
おおげさに、言えば、伸明が、なにを、考えているか、わかった…
そう、思った…
そう、思ったのだ…
そして、そう思うと、これは、僥倖?
もしかしたら、僥倖かも、しれない…
僥倖=つまり、不幸中の幸いかも、しれない…
なまじ、私が、しゃべれないばかりに、伸明の心の内を聞けたからだ…
だから、僥倖…
不幸中の幸いだった…
そして、私が、そんなことを、考えていると、マミさんが、
「…伸明さんは、基本、おとなしいひとよ…」
と、いきなり、言った…
「…それは、寿さんもわかるでしょ?…」
「…どうして、わかるんですか?…」
「…それは、藤原さん…」
「…ナオキが、どうか、したんですか?…」
「…藤原さん、おとなしいでしょ?…」
「…ハイ…」
「…その藤原さんと、伸明さんは、仲がいい…だから、おとなしい…二人とも、おとなしいもの同士だから、気が合う…でしょ?…」
「…それは…」
「…でしょ?…」
「…ハイ…」
「…そのひとが、どんな人間か、誰と、仲がいいか、見れば、わかる…おとなしいひとは、おとなしいひとと、仲が、いいし、癖が強いひとは、やはり、同じように、癖が強いひとと、仲がいい…要するに、自分と同じだから、気が合うのよ…」
「…」
「…伸明さんは、基本、おとなしい…だから、西家にみくびられたと言うと、言い過ぎかも、しれないけれど、そんな感じ…」
「…」
「…だから、今回のことを、考えると、正直、頭に来る…伸明さんのことなのに、自分のことのように、頭に来る…」
マミさんは、言った…
きつい口調で、言った…
このマミさんは、気が強い…
だから、余計に、頭に来るのかも、しれない…
あの和子が、倒れたから、すかさず、伸明を、西家に取り込もうとする…
そんな西家のひとたちに、頭に来たのかも、しれない…
私は、あらためて、そう、思った…
そう、思ったのだ…
私とマミさんを、乗せた、真っ赤なフェラーリは、やがて、五井本家に着いた…
諏訪野のお屋敷に、着いた…
このお屋敷にやって来たのは、いつ以来だろう?
考えた…
が、
すぐに、答えは、出なかった…
思い出せなかった…
これは、やはり、脳梗塞の影響?
すぐに、思い出せないのは、脳にダメージを受けたから?
そう、思った…
そう、思ったのだ…
しかしながら、いつまでも、そんなことを、考えている時間は、なかった…
なぜなら、マミさんが、すぐに、
「…着いたわ…降りましょう…」
と、言ったからだ…
だから、思い出している暇は、なかった…
いや、
そもそも、思い出そうとしていること自体、思い出せない証拠…
普通は、思い出そうと、しなくても、思い出す…
そういうものだからだ…
私は、この諏訪野のお屋敷を見て、実に、感慨深かった…
なぜなら、この平凡な、寿綾乃…
矢代綾子が、こんなお屋敷に招かれること自体、ありえないことだからだ…
思えば、シングルマザーだった母と、過ごした日々は、ハッキリ言って、お金にあまり、縁のない生活だった(苦笑)…
それが、今、こんなお屋敷に招かれるとは?
つくづく、自分も、出世したんだと、思う(爆笑)…
ひとは、私をどう見るか、わからないが、私は、二十年前の矢代綾子のまま…
寿綾乃と名乗る前のままだ…
だが、たぶん、これは、誰もが、同じ…
たぶん、同じだ…
お金持ちや、有名人になっても、同じだ…
子供の頃のことは、忘れない…
ただ、思い出さないだけ…
普段は、思い出さないだけだ…
それが、なにかを、きっかけに、ふと、思い出すことがある…
そして、そのなにかと言うのは、大抵、子供の頃の友人や、知人と再会したとき…
同窓会に行ったときは、別にして、街で、偶然、再会したとき…
仮に、言葉を交わさずとも、顔を見て、思いだす…
そんな感じだ…
が、
私には、それは、ない…
この寿綾乃には、それがない…
それは、私が故郷を捨てたから…
矢代綾子と名乗った当時の故郷を捨てたから、それはない…
都会に出てきて、田舎の友人、知人で、会ったことは、ない…
これまで、一度もない…
私は、思った…
私は、考えた…
諏訪野のお屋敷に、上がると、まもなく、伸明が、私とマミさんを、迎えた…
伸明は、意外にも、普段着だった…
スーツでも、なんでもなかった…
私は、驚いたし、それは、マミさんも。同じだった…
「…伸明さん…その恰好…」
と、マミさんは、咎めるように、言う…
「…スーツじゃ、ないの?…」
マミさんが、私が、思ったのと、同じことを、聞いた…
すると、伸明が、待ってましたと、ばかりに、
「…いや、ボクも、そうしたかったんだが…」
と、切り出した…
「…でも、西家の叔父様や、叔母様が、普段通りの格好で、いてくれと…スーツを着たりすると、どうにも、格式ばって、いかにも、見合いという感じになってしまうので…」
と、言った…
たしかに、その通り…
その通りだと、思った…
たしかに、なまじスーツを着てしまうと、いかにも、見合いの雰囲気になってしまうからだ…
だから、普段着のほうが、いい…
変に、緊張しない…
互いに、見合いだということを、忘れる可能性が、ある…
いや、さすがに、それは、ないか(笑)…
まあ、いずれにしても、スーツを着るよりは、いい…
互いに、緊張しない…
そう、思った…
そう、思ったのだ…
私たちは、居間にいた…
豪華な居間…
お金持ちの居間…
正直、緊張する…
庶民の私は、緊張する(苦笑)…
私たち三人は、この家のお手伝いさんが、持ってきた、紅茶を飲んだ…
そして、紅茶を飲みながら、マミさんが、聞いた…
「…伸明さん、今日、この家にやって来る女性って、どんな女性…」
と、聞いた…
「…どんな女性って言われても…」
と、伸明。
「…伸明さん、写真はないの? 見せて、もらえる?…」
マミさんが、聞く…
当たり前のことを、聞く…
が、
伸明の返答は、意外なものだった…
「…それが、ないんだ…」
「…ない? ウソ?…」
「…ホント…」
「…西家の叔父様も、叔母様も、その方が、変に緊張しなくて、いいんじゃないかって…」
伸明が、言うと、私とマミさんが、互いに、顔を見合わせた…
そんな私たち二人の態度を見て、伸明が、
「…たしかに、ボクも、それは、おかしいと、思うよ…でも、西家の叔父様と叔母様が、そう言うものだから、ボクも、それ以上、言えなくて…」
と、弁解した…
私は、それを、聞いて、
「…おかしい…」
と、思った…
実に、おかしいと、思った…




