寿綾乃という女 第4部 217
私たちは、その後ろ姿を見送った…
呆気に取られて、見送ったと言っていい…
まさか、こんなにも、呆気なく、団郁馬が、この場から、去るとは、思わなかった…
こんなにも、あっさりと、この場から、逃げ出すとは、思わなかったからだ…
だから、全員が、呆気に取られて、団郁馬の逃亡を見送った…
と、思った…
と、思ったが、違った…
昭子だけが、違った…
「…相変わらず、逃げ出しが、早い…」
と、団郁馬を嘲った…
「…自分が、都合が悪くなると、すぐに、逃げ出す…」
と、団郁馬を悪しざまに、言った…
それを、聞いた、マミさんが、
「…叔母様…そんな言い方は…」
と、やんわりと、昭子をたしなめた…
が、
昭子は、平気だった…
「…マミさん、なにを、言っているの!…」
と、真逆に、マミさんを叱った…
「…あの男は、本家に逆らったの! アナタのお父様に逆らったの! …そんな男を許しちゃ、ダメ!…五井の序列が崩れて、やがて、五井そのものが、崩壊する…」
「…叔母様…そんな…」
「…そんなも、こんなもない…団郁馬のやろうとしていたことは、蟻の一穴よ…」
「…蟻の一穴?…」
「…団郁馬が、望んだのは、分家である、五井北東家の取り分を、増やすこと…五井ホールディングスの株の配分を増やすこと…」
「…えっ!…」
「…でも、そんなことを、認めれば、他の分家も黙っちゃいない…みんな自分の取り分を増やせと言ってくる…」
「…」
「…だから、どんなことがあっても、団郁馬の言い分を認めるわけには、いかない…それが、建造さんの遺言…」
「…父の遺言…」
と、マミさん。
「…そう、建造さんの人生は、五井をまとめあげることだった…五井十三家をまとめあげることだった…そのために、すべてを捨てた…自分の欲望を、すべて、捨てた…」
「…」
「…それを、このバカが…」
と、いきなり、昭子は、伸明を見た…
バカと、呼ばれたのは、伸明…
自分の息子の伸明だった…
私は、驚いた…
いや、
私だけではない…
この場にいる、マミさんも、ナオキも、驚いた…
「…バカ?…」
と、マミさん。
「…どうして、伸明さんが、バカなんですか?…」
「…この伸明は、誤解したの…」
「…誤解? なにを誤解したんですか?…」
と、マミさん。
「…建造さんの真意…」
「…父の真意?…」
と、マミさん。
「…なにが、真意なんですか?…」
その質問には、答えず、昭子は、私を見た…
私、寿綾乃を見た…
「…この伸明は、寿さんを憎んだ…」
「…えっ? 伸明さんが、寿さんを憎んだ?…どうして、憎んだんですか?…」
と、マミさんが、聞く…
「…建造の寿さんに、対する態度…」
「…態度?…」
「…実に、優しく、寿さんに、接する…まるで、大切なもののように、寿さんに、接する…」
「…」
「…それを、見て、伸明は、嫉妬した…自分は、建造さんに、大事にしてもらった…血の繋がりが、ないにも、かかわらず、大事にしてもらった…でも、建造さんの寿さんに、対する態度とは、比較にならない…寿さんは、比較にならないほど、建造さんに、溺愛されている…それで、嫉妬した…同時に、憧れた…猛烈に憧れた…団郁馬に、たぶらかされてね…」
「…」
「…マミさんも同じでしょ?…」
「…えっ? 同じ?…どうして、同じなんですか?…」
「…アナタも、団郁馬に、伸明と、同じように、寿さんのことを、言われたんでしょ? 建造さんが、いかに、寿さんを可愛がったか、聞いたのでしょ?…」
昭子の質問に、マミさんが、黙った…
「…」
と、黙った…
「…」
と、なにも、言わなかった…
が、
それで、わかった…
さっき、なぜ、マミさんが、まるで、私を敵視するように、見たか、わかった…
それまで、マミさんは、私をそんな目で見ることは、なかった…
だから、驚いた…
だから、当惑した…
マミさんは、私を羨望した…
亡き父の建造が、私を溺愛したのを、知って、羨望した…
そういうことだった…
昭子が、次いで、
「…あの団郁馬は、ひとの弱点を探るのが、うまい…」
と、語った…
「…うまい…どういうことですか?…」
それまで、黙って、私たちのやりとりを聞いていた、ナオキが、口を挟んだ…
「…団郁馬は、嫉妬の塊…コンプレックスの塊…だから、同じように、他人のコンプレックスを見つけるのが、うまい…なにを言えば、その人間のコンプレックスを刺激するのか、よく、わかっている…)
「…」
「…だから、団郁馬は、伸明にも、マミさんにも、言った…いかに、建造が、寿さんを可愛がったか、言った…それで、マミさんの嫉妬心をかきたてた…血の繋がった実の娘以上に、建造さんが、寿さんを溺愛することを、言った…違う?…」
昭子に聞かれて、マミさんは、なにも、言わなかった…
おそらく、事実ゆえに、なにも、言わなかった…
そういうことだろう…
それを、見た、昭子は、今度は、伸明を見た…
ベッドの上で、寝ている伸明を見た…
そして、言った…
「…バカなコ…」
と、言った…
が、
そのバカは、愛情の裏返し…
少しも、バカな感じじゃなかった…
「…あんな、団郁馬の手に、簡単に乗って…」
と、伸明を、非難した…
「…あの男は、コンプレックスの塊…他人のコンプレックスを見つけて、それを、刺激する…そんな簡単なことも、わからないなんて…」
「…」
「…バカもバカ…大バカ…」
昭子が、吐き捨てる…
が、
伸明は、なにも、言わなかった…
無言で、私たちのやりとりを見ていた…
まるで、心、ここにあらずと言った感じだった…
私は、そんな伸明に、驚いた…
これは、マミさんも、同じだった…
ナオキも、また、同じだった…
「…どうしたの? 伸明さん?…」
と、マミさんが、心配して、伸明のベッドに駆け寄った…
「…どうして、なにも、言わないの?…」
マミさんが、涙を流して、伸明に、聞いた…
それでも、伸明さんは、なにも、言わなかった…
無言だった…
ただ、黙って、私たちのやりとりを、見ていた…
私は、唖然とした…
同時に、疑問だった…
…なぜ、なにも言わないのだろう?…
それが、疑問だった…
すると、その答えを、昭子が、言った…
ずばりと、言った…
「…恥ずかしいのよ…」
と、ずばりと、言った…
「…そして、どういう顔をして、いいのか、わからない…藤原さんは、ともかく、マミさんや、寿さんは、女性…その女性の前で、自分が、二人に、隠れて、女遊びをしていたことが、バレた…しかも、その相手は、自分の失態で、自殺した…こんな状態で、誰に対しても、どんな顔をしていいのか、わからない…だから、なにも、言わない…違う、伸明?…」
昭子が、指摘した…
伸明の心の中を冷静に、指摘した…
が、
それでも、伸明は、なにも、言わなかった…
「…」
と、黙ったままだった…
そこで、ナオキが、
「…ハルカさんのお腹の子供の父親は、やはり、諏訪野さんだったんですね?…」
と、いきなり、言った…
私が、考えても、いないことを、いきなり、言った…
これには、驚いた…
いや、
そもそも、ナオキが、どうして、いきなり、この話題に触れたのか?
それが、わからなかった…
それが、謎だった…
それは、この伸明も、同じだったようだ…
これまでの能面のような表情から、一転して、興味ありげに、ナオキを見た…
興味津々にナオキを見た…
私は、驚いたが、
「…ナオキ…どうして、アナタ…そんなこと?…」
と、言った…
当たり前だった…
なぜ、ナオキが、そんなことを、言い出したのか、さっぱり、わからなかったからだ…
私の質問に、ナオキは、私を見て、言った…
「…綾乃さんも、知っているように、ボクは、一時、伊豆に幽閉されただろ? この病院のオーナーの五井北東家の伊豆の別荘に、幽閉されただろ?…」
「…それは、当然、知っているわ…でも、それと、ハルカさんと、一体、なんの関係が?…」
「…伊豆の別荘に、幽閉されていたときに、女のコたちに、接待されていたと、綾乃さんに、言ったでしょ?…」
「…ええ、聞いたわ…」
「…若い女のコたちを、何人も集めて、乱痴気騒ぎ…セックスまではないけれども、昼は、近くの川で、渓流釣りや、バーベキュー大会…夜は、夜で、酒を飲んで、乱気騒ぎ…若い美女たちを数人集めて、ボクを接待した…接待漬けにした…」
「…それが、一体、今、なんの関係が?…」
と、私。
「…いたんだよ…その中に?…」
「…いた? なにが、いたの?…」
「…ボクを接待漬けにした、美人の女のコたちの中に、そのハルカさんが?…」
「…えーっ! ウソ!…」
私は、素っ頓狂な声を上げた…
私は、唖然として、ナオキを見た…
私のパートナーを見た…
「…でも、そんな話…これまで、全然…」
「…ボクだって、なにがあったか、すべて、綾乃さんに、話すわけじゃないさ…」
ナオキが、言う…
至極、当然のことを、言う…
「…伊豆の別荘に幽閉されて、若い女のコに囲まれて、接待漬けだったことは、綾乃さんに、言っただろうけれども、女のコたちの素性は、わからなかった…」
「…だったら、どうして?…」
「…ネットで、ハルカさんの顔を偶然、見たからさ…ハルカさんが、自殺したことで、ニュースになった…それで、彼女のことを、思い出した…」
ナオキの言葉で、たしかに、このナオキは、あのハルカさんに、会ったことは、ないと、思った…
なにしろ、あの伸明の見合い…
五井西家が仕掛けた伸明の見合い…
あの席に、このナオキは、いなかったからだ…
だから、ナオキは、ハルカさんを、知っているはずがなかった…
私が、ナオキに、ハルカさんの話はしても、ハルカさん自身と、ナオキは、会ったことがないと、思っていた…
それが…
しかし、そう、考えれば、わからない話ではない…
なにしろ、あの伸明の見合い…
あの見合いは、五井西家が、伸明にハルカを、嫁として、押し込み、自分は、ハルカさんの事実上の親代わりになり、本家に、食い込もうとした…
が、
あのハルカを、知ったのは、偶然、長谷川センセイと、知り合ったから…
五井西家の血を引く、長谷川センセイと知り合ったからだ…
長谷川センセイは、ハルカが、自分と血が繋がらないことを、隠し、あの西家の当主に、ハルカを紹介した…
しかしながら、あの長谷川センセイは、北東家の団郁馬と組んでいた…
だから、団郁馬が、仕組んだ、ナオキを伊豆の奥深くの別荘に幽閉する計画に、ハルカが、加担しても、おかしくはない…
むろん、団郁馬の権力を駆使すれば、若い美人を何人も、集めることは、容易いだろう…
しかしながら、ナオキを伊豆の山奥の別荘に幽閉して、接待漬けにする…
逃げられないように、接待漬けにする…
そんな胡散臭いことに、加担する女性は、限られる…
しかも、普通に、考えれば、当然、口の堅い女性を求めるに、決まっている…
そんなことを、ベラベラと、外で、喋られたら、困るからだ…
そう考えると、選択肢は、限られてくる…
それゆえ、あのハルカが、ナオキを接待する女性の中のひとりとして、参加していても、おかしくはない…
彼女の経歴を考えれば、おかしくない…
いや、
おかしいどころか、最適…
最適解だ…
私は、思った…
私は、考えた…




