寿綾乃という女 第4部 208
その当たり前を気付かなかった…
私は、気付かなかった…
これは、意外…
自分でも、意外だった…
そんな自分に、戸窓った…
自分で、自分に、戸惑った…
それが、態度に出たのだろう…
私の顔に、出たのだろう…
「…どうしたの? 綾乃さん?…」
と、ナオキが、聞いてきた…
私は、すかさず、
「…トロくなったかも…」
と、言った…
「…トロくなったって?…」
「…今、ナオキが、言ったこと…」
「…ボクが、言ったこと? なんのこと?…」
「…伸明さんの容態のこと…」
「…それが、どうかしたの?…」
「…考えもしなかった…」
「…なにを、考えもしなかったの?…」
「…伸明さんの容態が、軽いこと…」
「…えっ?…」
「…だって、考えてみれば、あのハルカさんと、面会したんだから、容態が軽いに、決まっているでしょ? それが、わからないなんて…」
「…」
「…自分でも、自分に、驚いた…そんなことに、気付かなかった自分に、驚いた…」
私が、一気呵成に語ると、ナオキが、考え込んだ…
真剣な表情で、考え込んだ…
それから、しばらくして、
「…もしかしたら、脳梗塞の後遺症かも…」
と、言った…
私が、考えてもみないことを、言った…
「…脳梗塞の後遺症って?…なに、それ?…」
「…脳梗塞っていうのは、綾乃さんが、倒れたのを、聞いて、ボクも、ネットで、調べたんだけれども、脳の血管が、詰まる状況のことを、言うらしい…」
「…それが、どうしたの?…」
「…要するに、血が固まって、脳の血管が、詰まって、しまうのだけれど、その詰まる場所が、人それぞれ…」
「…人それぞれって?…」
「…ほら、年寄りのひとが、歩けなくなったり、手が動けなくなったり、するでしょ? …みんなどこか、おかしくなるんだけれども、それは、皆、血管が、詰まる場所が、違うから…」
「…えっ? 違う?…」
「…だから、その血管が、詰まった場所の周辺の脳細胞が、死んでしまって、その結果、手や足が、動かなくなるらしい…」
「…」
「…でも、それだけじゃない…」
「…それだけじゃないって、なに?…」
「…性格も、変わる…」
「…どうして、変わるの?…」
「…やっぱり、脳が、ダメージを受けるからだろう…脳が、ダメージを受けた場所によって、性格も変わる…具体的には、穏やかだったひとが、怒りっぽくなったり、するらしい…」
「…」
「…だから、綾乃さんも、脳梗塞の影響かなと、思って…」
ナオキが説明した…
私が、納得する説明をした…
そう、言われれば、わかる…
そう、説明されれば、わかる…
納得する…
たしかに、そう説明されれば、私が、トロくなったことに、納得する…
私は、32歳…
脳梗塞で、死ぬ年齢ではない…
まだ、若い…
十分、若い…
結婚は、まだだけれども、まだ、十分、若い(苦笑)…
だから、死ぬことは、ないかも、しれないが、軽微なダメージはあるかも、しれない…
今、ナオキが、言った、性格が、変わるほどの、ダメージは、ないかも、しれないが、軽微なダメージはあるかも、しれない…
私が、トロくなるぐらいのダメージは、あるかも、しれない…
そう、考えると、少し安心したと共に、恐怖した…
私の能力が、失われてゆく…
そんな恐怖が、脳裏に浮かんだ…
私の能力といっては、おおげさだが、私は他人様よりも、洞察力が、優れていると、内心、自負してきた…
それを、頼りに、生きて来た(苦笑)…
そうでなければ、田舎から、都会に、一人で、出て、生きてゆくことは、難しい…
誰も、頼るものは、いない…
皆無…
頼るのは、自分だけ…
自分ひとりで、生きて来た…
それゆえ、自分の能力に自信があった…
その能力が、衰えてくる…
これは、恐怖…
恐怖以外の何物でも、なかった…
自分の能力を、頼りに生きてきた女が、その能力が、失われる…
それは、おおげさに、言えば、ボクサーがリングに上がれなくなるのと、同じ…
ボクサーが、ボクシングができなくなるのと、同じだ…
つまりは、取り柄がなくなる…
ある意味、私は、勘を頼りに、生きて来た…
勘というのは、思いつき…
ちょっとした思いつきだ…
ちょうど、小説家や漫画家が、おもしろい話が、思いつかなくなるのと、同じ…
たとえ、思いついても、話が、つまらない…
それと、同じだ…
直感がなくなれば、あるいは、衰えれば、自分が、こう動けば、いいと、思うことが、できなくなる…
たとえ、思いついたとしても、その思いついたことが、そもそも間違っている…
それでは、話にならない…
まったく話にならないからだ…
私が、唖然としていると、
「…どうしたの? 綾乃さん…そんな深刻な顔をして…」
と、ナオキが、聞いていた…
私は、ナオキに、私の思いを伝えようと、したが、少し、考えて、やめることにした…
ナオキとて、他人…
他人に過ぎない…
いくら、親しくとも、他人に、過ぎない…
今、私の悩みをナオキに伝えても、他人事…
他人事に過ぎないからだ…
なにより、わからない…
他人では、私の悩みは、わからない…
この悩みは、自分しか、わからないからだ…
だから、言っても、仕方がない…
ナオキに言っても、仕方がないからだ…
代わりにと、言っては、なんだが、話を変えることにした…
急いで、話を変えることにした…
伸明の話に、戻した…
「…そんなことより、ナオキ、伸明さんのこと…」
と、言って、話を伸明に、戻した…
「…諏訪野さんのことって、なに?…」
「…お見舞いに行ったら、FK興産のこととか、聞くつもり?…」
「…まさか?…病院に見舞いに行って、そこで、聞くことは、できないよ…」
「…それは、そうね…」
私は、相槌を打った…
が、
それが、いけなかった…
そんな簡単な話に変えたのが、いけなかった…
ナオキが、笑いながら、
「…それって、もしかして、脳梗塞の影響?…」
と、聞いたからだ…
「…脳梗塞の影響って?…」
私は、唖然として、聞き返した…
「…だって、そんな簡単な話を真面目に質問するなんて…綾乃さん、らしくない…」
「…私らしくない?…」
「…だって、病院のお見舞いに、行くのに、そんな大事なことを、聞くひとは、普通、いないでしょ?…」
そう、言われると、ぐうの音も出なかった…
その通り…
その通りだからだ…
反論できなかった…
そんな私を見て、ナオキが、
「…これは、ボクが、会社に行かなくて、良かったかも…」
と、真顔で、言った…
「…どうして、良かったの?…」
と、私。
「…だって、そんな綾乃さんを、ほっとけないよ…」
ナオキが、指摘する…
「…いつもの、綾乃さんじゃない…」
「…」
「…とにかく、ボクがいて、良かった…」
ナオキが、言う…
真顔で、言う…
いつもととは、攻守逆転…
攻守逆転だった…
いつもは、私が、ナオキに優位に立っているのに、今日は、真逆…
ナオキが、優位に立っている…
もしかして、これが、脳梗塞の影響?…
脳梗塞の後遺症のせいと、思うと、笑うに笑えなかった…
まさに、笑うに笑えなかった…
が、
それでも、良かった…
なぜなら、このナオキ…
藤原ナオキが、真剣に、私のことを、心配してくれているからだ…
心の底から、真剣に、心配してくれているからだ…
それが、効果と言うか、結果だった…
まさに、怪我のたまもの…
この藤原ナオキの愛を感じたことだった(苦笑)…
そうは、言うものの、その日からは、結構、退屈だった…
ナオキは、基本、外に出ない…
マスコミの目を考えて、外に出ない…
一方、私はというと、外に出るのは、構わないが、やはり、慎重になる…
ひとりで、外に出るのは、慎重になった…
脳梗塞で、まさかとは、思うが、ひとりで、外に出歩いて、途中で、倒れたら、目も当てられない…
また、ナオキも、反対した…
私が、ひとりで、外出することに、反対した…
また、私も、ひとりきりで、外出して、買い物をしても、たいした量は、買えない…
なにしろ、歩きだ…
徒歩だ…
買える量は、おのずと限られてくる…
人間、ひとりが、手で持つ荷物の量は、限られてくるからだ…
しかしながら、同居人が、ひとり、増えたことで、買い置きの食料品が、足りなくなるのは、目に見えていた…
それゆえ、少し考えて、近くのネットスーパーを利用したり、かさばるものは、アマゾンで、買うことにした…
その方が、助かる…
自分が、家から出ることなく、助かる…
私とナオキは、そんな逃亡犯のような日々を過ごした(苦笑)…
基本、家から一歩も出ずに、過ごした…
が、
幸せだった…
いや、
幸せと言うと、言い過ぎかも、しれない…
なんといっても、ナオキといると、疲れない…
それが、いい…
もう、十五年も前から、知っている…
お互いが、お互いを知っている…
知り尽くしている…
公私ともに、知り尽くしている…
家では、事実上の妻…
会社では、社長と社長秘書という関係で、知り尽くしている…
それが、いい…
実に、いい…
お互いに、肩ひじ張らない生活が、心地いい…
互いに、退屈だが、いい…
そして、そんな穏やかだが、退屈な日々を過ごしているうちに、伸明に、見舞いに行く日が、やって来た…
ついに、やって来た…




