寿綾乃という女 第4部 200
「…反故? 反故って、なに? もしかして、約束を破るってこと?…」
「…そうだ…」
「…どうして、約束を破るの? だって、和子さんが、約束したことでしょ?…」
「…でも、それを、諏訪野さんは、反故にするかも、しれない…」
「…伸明さんが?…」
「…そうだ…」
「…どうして、伸明さんが、約束を破るの?…」
「…面子…」
「…面子?…」
「…五井の当主にけがを負わせた面子…」
「…それって、ハルカさんが、伸明さんに、けがを負わせたこと?…」
「…そうだ…」
「…でも、どうして、それが、長谷川センセイを五井一族と、認めないことに、繋がるの?…」
「…面子だよ…」
「…面子?…」
「…五井の当主に、けがを負わせたことを、全国に、知られた…諏訪野さんとしても、そのケリをつけなければ、ならない…」
「…ケリ?…」
「…ヤクザではないけれども、五井の当主に、けがを負わせて、そのままというわけには、いかない…」
「…どういうこと?…」
「…諏訪野さんに、けがを負わせた、ハルカさんは、長谷川センセイの妹…血は繋がっていないけれども、妹であることは、変わりがない…だから、それを、考えると、長谷川センセイを、このまま、五井一族と名乗らせることは…」
「…難しいってこと?…」
「…だよね…」
ナオキが、相槌を打った…
「…これは、ボクだって、諏訪野さんの立場なら、認めることは、できない…」
「…ナオキでも?…」
「…自分に、けがを負わせて、それが、マスコミで、報道された…いわば、恥をかかされたわけだ…それなのに、そのけがを負わせた当人の兄を、いくら、血が繋がってないからと言って、五井の一族と名乗っていいと、認めれば、どうして? って、なる…だから、断じて、認めることは、できない…」
「…」
「…まあ、諏訪野さんが、どうするかは、知らないよ…でも、普通は、できないと、思う…」
ナオキが、断言した…
そして、私は、そのナオキの言葉に、納得したが、それでは、終わらないのでは?
と、考えた…
この騒動が、うまく、終わらないのでは?
と、考えた…
あくまで、この騒動の決着の一つに、あの長谷川センセイを五井一族と公式に、認めることがある…
それを、反故にすれば、禍根が残る…
あるいは、恨みが、残る…
長谷川センセイが、恨みに、思う…
そして、その恨みが、さらなる恨みを呼び込む可能性がある…
具体的には、伸明に敵対する勢力が、今回のように、再び、集結する可能性がある…
面子を変えて、伸明に立ち向かってくる可能性がある…
まさに、負の連鎖…
終わりのない、負の連鎖…
永遠に、終わらない、負の連鎖…
が、
あるいは、そういうものかも、しれない…
有名企業グループの会長の地位にあれば、誰かが、傷付く…
自分は、知らなくても、誰か、知らない人間が、別の企業で働いていて、その有名企業グループの会社に、仕事を奪われて、会社が、倒産したり、あるいは、会社の業績が、下がったからといって、リストラされたりするかも、しれない…
結果、自分では、見たことも、会ったこともない人間から、恨みを買う可能性もある…
そういう可能性もある…
それゆえ、無傷では、すまないかも、しれない…
まあ、そこまで、いかなくても、私だって。あるかもしれない…
例えば、私を好きだった男…
私を好きだからと、言って、その男をゲットしようとした女が、私をダシにして、振られれば、それを、理由に、私が、その女に恨まれる可能性がある…
自分の知らないところで、他人から、恨まれる可能性がある…
だから、それを、気にしても、仕方がない…
そんなことを、気にしては、生きていけない…
そういうことだ…
そして、そう考えれば、事態は、複雑…
思ったよりも、複雑だった…
私は、暗澹とした…
すっかり、意気消沈した…
それを、隣で、ハンドルを握るナオキが、気付いた…
「…綾乃さん、大丈夫?…」
と、言って、気付いた…
私は、大丈夫ではなかったが、さりとて、
「…大丈夫よ!…」
と、言って、ナオキを安心させるようなことも、しなかった…
なんといっても、十五年の付き合いだ…
お互いの性格が、わかっている…
だから、わざわざ、相手の機嫌を取るといっては、なんだが、そこまで、相手を気遣わなくても、いいと、思ったからだ…
「…全然、大丈夫じゃないわ!…」
とも、言いたかったが、そこまで、言うのも、大人げない…
結果、なにも、言わなかった…
「…」
と、なにも、言わなかった…
それを、見たナオキが、
「…綾乃さんも、案外、子供だな…」
と、笑った…
「…子供? 私が?…」
予想もしないことを、言われた…
まさに、想定外のことを、言われた…
「…事業をやる以上、誰も、傷付けないなんて、できない…そんなことは、無理…」
ナオキが、笑う…
「…綾乃さんだって、そんなことは、わかっているはずでしょ?…」
そう、言われると、なにも、言えなかった…
まさに、なにも、言えなかった…
それから、ずっと、黙ったままだった…
家に、着くまで、黙ったままだった…
お互い、会話もなかった…
要するに、不機嫌…
不機嫌だったのだ…
それは、家に着いても、変わらなかった…
全然、変わらなかった…
ナオキも、私に対して。さじを投げたとまでは、言わないが、あえて、機嫌を取らなかった…
きっと、そんなことは、したくないのだろう…
また、私も、そんなことは、してもらいたくなかった…
何度も、繰り返すが、すでに、十五年の付き合いだ…
お互いの性格が、わかっている…
だから、ナオキは、放っておくのが、一番だと、判断したのだろう…
私も、また、そうしてもらえるのが、一番…
一番だった…
変に、機嫌を取られるのも、嫌だ…
それは、置いておいても、私は、家に帰ると、実に、ホッとした…
安心した…
私は、ずっと、キャリアウーマンだった…
私の意思とは、別にキャリアウーマンだった…
あのユリコが、ナオキの家を出て、突然、失踪した…
それゆえ、ユリコと入れ替わりに、ナオキの家庭に入った…
幼いジュン君の面倒を見るために、ナオキの家庭に入った…
だから、当初は、専業主婦のようなものだったが、ジュン君が、大きくなって、手がかからなくなると、同時に、ナオキの会社を手伝う時間が、増えた…
だから、冷静に、考えれば、専業主婦というより、ベビーシッターに、近いかも、しれない…
ベビーシッターゆえに、キャリアウーマン…
他人の子供の面倒を見るのだ…
それが、仕事だ…
だから、そう考えれば、キャリアウーマン…
私は、若いときから、働いてきた…
ずっと、働いてきた…
が、
どうしても、身内同然の間柄の仲では、自分をキャリアウーマンと、思えなかった…
考えたこともなかった…
しかしながら、ジュン君の運転するクルマにはねられて、五井記念病院に入院…
さらには、癌の治療のために、オーストラリアまで、行った…
それゆえ、最近は、ずっと仕事をしていない…
そのせいだろう…
それまで、仕事人間だった私は、自分が、案外、家が好きだったことに、気付かなかった…
ひとりぼっちで、家にいることが、好きだったことに、気付かなかった…
誰にも、気を使わず、ひとりぼっちで、過ごす、心地よさに気付かなかった…
それは、私のそれまでの、人生が、常に、誰かが、近くにいたことへの裏返しでも、ある…
ずっと、ひとりぼっちは、寂しいが、それでも、誰にも、気を使わない生活は、楽…
楽だ…
それが、わかると、私は、家が好きになった…
家に帰って、ひとりで、いるのが、好きになった…
今日は、ナオキがいるが、それでも、家に帰ると、ホッとした…
心の底から、安心した…
おそらく、ナオキは、それを、見ていたのだろう…
私の表情の変化を見ていたのだろう…
「…おっ! 綾乃さん、ようやく、機嫌が直ったね…」
と、言ってきた…
が、
私は、それには、答えず、
「…お茶でも、入れるわ…」
と、答えた…
「…いえ、お茶は、面倒臭い…缶コーヒーでも、飲まない?…」
と、ナオキに提案した…
ナオキは、笑いながら、
「…ずぼらな綾乃さんらしい…」
と、笑った…
私は、それにも、反論せずに、
「…今、帰って来たばかりなのに、熱いお茶や、コーヒーは、嫌…私は、冷たい、コーヒーが、好き…ナオキは、違う?…」
と、聞いた…
ナオキは、
「…それは、わかる…」
と、笑った…
「…ボクも、同じ…冷たいコーヒーの方がいい…」
と、言ってくれた…
二人の意見が一致した…
それゆえ、冷蔵庫の前に、行き、冷蔵庫の中から、缶コーヒーを二つ、取り出した…
それを、テーブルの前に座る、ナオキの前に出した…
「…ありがとう…綾乃さん…」
と、ナオキは、私に礼を言った…
私もまた、自分の缶コーヒーをテーブルの上に置いたが、このままでは、つまらない…
このまま、二人きりでは、クルマの中にいたときと、なにも、変わらない…
だから、暇つぶしに、テレビをかけることにした…
なにもないより、マシだからだ…
テレビでは、テロップが、流れていた…
なにか、大変なことがあったのだろう…
私は、急いで、そのテロップを読んだ…
そこには、
…先日、五井ホールディングス社長、諏訪野伸明氏を襲った、長谷川ハルカさんが、自殺…
と、書いてあった…




