寿綾乃という女 第4部 199
私は、驚いて、ナオキの顔を見た…
BMWを運転する、藤原ナオキの顔を見た…
驚愕の思いで、見た…
それに、気付いたナオキが、
「…綾乃さん、そんなに、ジロジロ、ボクの顔を見ないでくれ…」
と、やんわりと、文句を言った…
「…実は、ボク自身も、驚いているんだ…」
「…驚いている? 自分のことでしょ!…」
私は、冷たく、突き放した…
「…たしかに、自分のことだ…」
ナオキが、答える…
「…でも、あの和子さん…五井の女帝が、ユリコを処刑するようなことを、言ってから、考えた…」
「…なにを考えたの?…」
「…そこまで、しなくて、いいんじゃないかってね…」
「…」
「…これは、自分でも、意外だったよ…」
ナオキが、しんみりと、言った…
「…あの五井の女帝が、言うのは、最終宣告というか…下手をすれば、ユリコの社会での活動が、終わる…」
「…終わる? どうして、終わるの?…」
「…五井から、嫌われる…それを、世間に知られれば、もはや、ユリコの命は、絶たれたと同じ…投資家としても、投資ファンドの代表としても、終わり…世間の信頼を得られない…」
「…」
「…ちょうど、今日、長谷川センセイが、五井に認められれば、世間に、認められたことになると、言ったのと、真逆…まさに、真逆だ…」
「…」
「…だから、そこまで、しなくてもと、思ったんだ…これには、自分でも、驚いたよ…今まで、そんなこと、考えたことも、なかったからね…」
ナオキが、しんみりとした口調で、言った…
私は、驚いたが、同時に、納得したというか…
たしかに、そう言われれば、わかる…
そう言われれば、納得する…
なにしろ、夫婦だ…
元は、夫婦だ…
しかも、憎しみ合って、別れたわけでも、なんでもない…
ユリコが、突然、失踪したのが、原因だ…
十五年前、息子のジュン君を置いて、突然、失踪したのが、原因だ…
それゆえ、私は、幼いジュン君の面倒を見るために、ナオキの家庭に入った…
ユリコと入れ替わりに、ナオキの家庭に入った…
決して、ナオキが、私とユリコを比べて、私を選んだわけでも、なんでもない…
だから、わかる…
今、ナオキが、こう言うのが、わかる…
わかるのだ…
そして、私が、そう考えていると、ナオキが、
「…よく、ドラマや小説であるだろ?…」
と、言ってきた…
「…なにが、あるの?…」
「…昔、好きだったけれども、今は、別れた相手…あるいは、これが、時代劇なら、敵、味方に別れた相手…」
「…なにが、言いたいの?…」
「…その相手が、目の前で、殺されようとする…それで、初めて、気持ちが、わかる…自分の気持ちがわかる…そんな感じ…」
「…そんな感じって?…」
「…自分でも、意外だったよ…ユリコに対して、そんな気持ちがあるとは、思わなかった…夢にも、思わなかった…」
「…」
「…つまりは、ボクが、望むのは、あの五井の女帝が、ユリコに、とどめを刺すのではなく、お灸をすえるぐらいに、してもらいたいと、言うことかな…」
ナオキが、笑いながら、言った…
笑いながらも、真剣な表情で、言った…
だから、笑えない…
ナオキの顔は、真顔…
横から、見ても、真剣だったからだ…
真剣な表情だったからだ…
だから、笑えない…
笑えなかった…
だから、深刻…
余計に、深刻だった…
なにしろ、あのユリコは、天敵…
私の天敵だ…
そのユリコに、この元の夫のナオキは、未練があるとは、言っていないが、そこまで、嫌いではないと、言っているのと、同じこと…
同じことだからだ…
だから、複雑…
複雑だった…
実に、複雑な気持ちだった…
それゆえ、考え込んだ…
もし、私の身に、なにか、あったら、このナオキは、私とユリコのどっちを取るんだろ?
と、考え込んでしまった…
もちろん、私を取ると、言ってもらいたいが、さにあらず…
例えば、ユリコが、交通事故にでも、遭い、瀕死の重傷になったとする…
そうなれば、このナオキは、駆け付ける…
なにが、あっても、駆け付けるとまでは、言わないが、駆け付けるだろう…
つまりは、このナオキは、まだ、心の中に、ユリコに対する愛情が、残っていると、言うことだ…
たぶん、それが、答えだ…
まったくの他人ではない…
すでに、別れて、十年以上経つが、まったくの他人ではない…
そういうことだろう…
このナオキに、とって、ユリコは、そういう存在なのだろう…
考えてみれば、それほど、嫌いならば、このナオキは、ユリコと結婚するはずがない…
やはり、どこか、惹かれる部分があったから、結婚した…
そういうことだろう…
冷静に考えれば、このナオキは、自分の息子だと、思っていた、ジュン君も、血が繋がった自分の息子ではなかった…
ユリコが、他の男との間に、作った、子供だった…
そのジュン君を、ずっと、自分の息子だと、思って、育ててきた…
だから、普通に考えれば、ユリコに対して、激怒するはずだ…
恨むはずだ…
しかし、それがない…
このナオキには、それがない…
どうして、ないのだろうか?
疑問だった…
実に、疑問だった…
それゆえ、私は、直球で、聞いた…
「…ねえ、ナオキ…」
と、聞いた…
「…なに、綾乃さん?…」
「…ナオキは、どうして、怒らないの?…」
「…怒る? どういうこと?…」
「…だって、ナオキにとって、ジュン君は、実の息子ではなかったでしょ? おまけに、ユリコさんは、失踪して、十年以上、行方不明…それが、突然、現れた…普通なら、怒るところでしょ?それが、まったく、怒らない…どうして、怒らないの?…」
私の質問に、ナオキは、黙り込んだ…
「…」
と、黙り込んだ…
私は、さらに、言った…
「…あんな真似をされて、怒らないなんて、変人よ!…奇人変人よ!…」
と、追い打ちをかけた…
が、
意外や意外…
これが、バズったというか…
これが、刺さった…
ナオキに、刺さった…
「…変人か? その通りかも、しれない…」
と、ナオキが、笑って言ったからだ…
「…でもね、綾乃さん、ボクと、同時期に、会社を立ち上げた起業仲間には、変人が、多かったよ…いや、変人だらけだったと、言ってもいい…」
「…どういうこと?…」
「…大学を出て、会社にも勤めず、自分たちで、会社を立ち上げる…今の日本で、それをやれば、周囲から、変人と見られる…これは、当時も、同じ…いや、今、以上に、世間から、変人に見られたと、思う…」
「…」
「…だから、ボクも変人…綾乃さんが、今、言ったように、変人なんだと、思う…それが、答え…」
「…答え?…」
「…綾乃さんが、今、言ったように、自分の息子でもなかったジュンを、自分の息子だと思って、育てた…つまり、ボクは、騙されていたわけだ…ユリコに、裏切られていたわけだ…でも、不思議なことに、ユリコを恨む気持ちがない…これっぽっちもない…」
「…」
「…たぶん、それは、ジュンがあの通り、頼りないことも、あっただろう…そして、善人だったことも、あったろう…ボクと綾乃さんと、ジュンが、小さなアパートで、三人で、肩を寄せ合って、暮らした…その暮らしに、ボクは、満足していた…ユリコがいなくなったことで、かえって、良かった…」
「…」
「…そんなこんなで、ユリコを恨む気持ちもなくなった…まあ、ボクが、変わっていると、言えば、その通りだと思うが、そういうことだと、思うよ…」
ナオキが、言った…
自分の心の内を言った…
そして、私は、ナオキの答えに納得した…
実に、納得した…
私とジュン君とナオキの三人で、過ごした日々は、楽しかった…
生活は、苦しかったが、楽しかった…
少なくとも、私は、そう、思っている…
そして、私が、そう思えば、他の二人も、同じように、考えるのが、普通だ…
三人で暮らしていて、私一人が、楽しかったと、言うのが、おかしい…
普通は、他の二人も、楽しかったと、いうものだ…
それが、普通だ…
皆、感じるのは、同じだからだ…
そして、それゆえ、このナオキは、あのユリコに、恨みは、ないのだろう…
むしろ、ユリコがいなくなったことで、三人で、暮らせた…
私とジュン君とナオキの三人で、暮らせた…
結果的に。ユリコが、家を出て行ったことで、三人で、暮らせた…
だからだろう…
このナオキは、ユリコに、恨みは、ない…
まったくない…
そういうことだろう…
私は、思った…
私は、考えた…
そして、私が、そう、考えていると、ナオキが、
「…今度の騒動、もうすぐ、幕が下りると思うが、みんなが、幸せになればいい…」
と、言った…
意味不明なことを、言った…
「…みんなが、幸せって、ナオキ…そんなマンガのようなことは…」
私が、反論すると、ナオキが、
「…だよね…」
と、運転しながら、私をチラリと、見て、言った…
「…世の中、そんな思い通りには、行かない…」
笑いながら、言った…
笑いながらも、真顔で、言った…
「…まあ、せいぜいが、誰も、傷付かない、終わり方で、あって、欲しい…」
「…傷付かない、終わり方って?…」
「…騒動以前と、変わらない関係…」
「…無理よ…」
即答した…
「…無理に決まっているでしょ!…」
私は、強い口調で、断言した…
ナオキが、私を横目で、見て、
「…だろうね…」
と、笑った…
「…すでに、諏訪野さんも、病院に入院するほどの、けがを負っている…」
ナオキが、真顔になった…
「…あのハルカさんに、けがを負わされている…」
そこまで、言うと、ナオキが、
「…もしかして、あの五井の女帝…諏訪野和子さんが、長谷川センセイに、言った、五井の一族と、名乗ってもいいと、言った、お墨付き…アレは、反故になるかも、しれないゾ…」
と、突然、言った…
思いも、かけないことを、言った…




