寿綾乃という女 第4部 185
朝食を食べ終えたナオキは、歯を磨き、身支度を整えて、
「…じゃ、綾乃さん、行ってくる…」
と、言って、いつも通り、会社に向かって、家を出て行った…
私は、ナオキの背中を見つめながら、なんとも、言えない、気持ちになった…
FK興産社長、藤原ナオキ…
その肩書が、もう少しで、消えようとしている…
FK興産の、今、ナオキが、持っている株を全額、五井に売り、完全に五井の支配下に入る…
そして、五井グループの情報関連会社、数社と、FK興産を、合併して、ひとつの会社を作り、その社長にナオキを据える…
しかしながら、もはや、ナオキの会社ではない…
会社は、ナオキのものではない…
会社のオーナーでも、なんでもないからだ…
いわゆる、雇われ社長…
サラリーマン社長になる…
果たして、それで、ナオキは、やっていけるのだろうか?
自分の会社でもない、会社の社長になって、やっていけるのだろうか?
やる気が、起こるのだろうか?
メンタルが保てるのだろうか?
おそらく、保てないだろう…
それゆえ、ナオキは、新たに、会社を起業することを、模索している…
これまでの、キャリアを捨てて、新たに、会社を立ち上げることを、模索している…
そして、新たに立ち上げる会社は、今までの延長線上でも、なんでもない…
ナオキは、コンピュータおたく…
学生時代、同じように、大学のコンピュータおたくが、数人、集まって、会社を起業した…
それが、FK興産の原型…
FK興産の始まりだ…
そして、今、そのFK興産が、完全に、五井の支配下に入れば、ナオキは、自分の居場所が、なくなる…
たとえ、雇われ社長として、会社に残ることができても、やはり、気持ちが違う…
心のありようが、違う…
それは、仕方のないこと…
仕方がないことだ…
そして、誰よりも、それを、本人が、わかっているから、会社を、辞めたいと、思う…
例え、FK興産の株を売り、FK興産と、五井グループの情報関連企業の会社を数社合併して、その社長に、招かれたとして、固辞しようと、思っている…
それは、やはり、ナオキが、サラリーマンではないから…
会社を起業するひとだから…
だから、自営業者…
根本には、自営業者…
サラリーマン=雇われ人ではないからだ…
だから、やる気が、出ない…
そういうことだろう…
だからと、言って、ナオキは、バカではない…
仮に、五井に、ナオキの持つFK興産の株をすべて、売って、何百億という大金が、手に入ったとしても、それを、元手に、簡単には、起業しない…
会社を作る大変さがわかっているからだ…
誰よりも、身に染みて、わかっているからだ…
それゆえ、物事を簡単に、考えない…
仮に、その元手を少し使って、イタリア料理店を開いたとする…
そうなれば、テレビに出ている、藤原ナオキが、店を持ったと話題になり、最初は、ひとが、いっぱい来るかもしれない…
が、
それは、最初だけ…
最初だけに、過ぎない…
すぐに、話題はなくなり、基本は、店の評価になる…
うまいか、まずいかになる…
そして、イタリア料理店は、世間にごまんとある…
その中で、勝ち続けることは、至難の業…
至難の業だ…
とてつもなく、難しい…
これが、日本料理店でも、同じ…
同じだ…
勝ち続けることではなく、生き残るのが、難しい…
生き残ることが、至難の業だ…
そう、考えることが、できなければ、よほど、世間知らずか、頭がおかしいのかのどっちかだろう…
そして、ナオキは、私と同じ…
私と同じく、物事を簡単に考えない…
だから、信用できる…
だから、信頼できる…
同じように、考えることが、できるからだ…
が、
ホントは、それは、良し悪し…
なぜ、良し悪しなのか?
あまりにも、物事を難しく考えると、なにも、できないからだ…
チャレンジできないからだ…
だから、なにも、できない…
例え、日本料理店でも、イタリア料理店でも、始めようとしても、店が、潰れるリスクばかり、考え、決断ができない…
結果、みすみすチャンスを逃すことも、あるからだ…
まあ、すべては、運…
運=なるようにしか、ならない…
そう、考えれば、楽…
気が、楽になる…
私は、思った…
自分自身に、言い聞かせた…
数日が、過ぎた…
変わらない日々が、続いた…
ナオキも、変わらず、私も、変わらなかった…
変化が、なかった…
ナオキには、まだ、具体的な動きが、まるで、なかった…
FK興産の株を、すぐにでも、五井に売れというような圧力もなかった…
だから、平穏…
平穏そのものだった…
海に例えれば、凪のようなもの…
穏やかで、波ひとつない…
でも、それは、今だけ…
今だけのことに、過ぎないことが、わかっていた…
まもなく、嵐になるのは、わかっていた…
嵐=波乱になることは、わかっていた…
そして、そのときが、来た…
伸明の入院を見舞いに行く日が、決まった…
マミさんから、電話が、かかって来たのだ…
突然、マミさんから、電話が、かかってきた…
「…寿さん、お久しぶり…」
と、電話が、かかって来た…
私は、
「…お久しぶりです…」
と、返したが、その後、なんと言って、いいか、わからなかった…
なにしろ、あの伸明が、ハルカに襲われて、五井記念病院に、入院している…
考えたこともない事態だった…
まったく、想定外の事態…
だから、どう言っていいか、わからなかった…
言葉が、見つからなかった…
すると、マミさんが、
「…ホントは、お久しぶりですって、言うほど、時間が、経っていないわ…寿さんと、五井記念病院で、会ったのは、先週よ…」
と、笑った…
言われて、みれば、その通り…
その通りだった…
マミさんと、会ったのは、先週…
先週に、過ぎない…
でも、その間に、色々あった…
いや、
色々あり過ぎた(苦笑)…
五井北東家の団郁馬が、伸明に、呆気なく、敗北したことも、そうだが、なにより、伸明が、ハルカに、襲われたことが、大きい…
これが、大きい…
まさに、まさか?
まさかだった…
それゆえ、私が、言葉に、詰まっていると、マミさんが、
「…伸明さんのことだけれど…」
と、すぐに、言いにくそうに、本題に入った…
さすがは、経営者…
時間を無駄にしない…
いつまでも、本題に入らないことは、しない…
それでは、時間を無駄に、することだからだ…
まあ、こんな、昼間の時間に、いきなり、電話をかけてくるぐらいだ…
このマミさんも、五井の関係者から、いきなり、伸明の容態を聞かされたのだろう…
それを、聞いて、いきなり、私のケータイに、電話をかけてきたのだろう…
即断即決…
それが、マミさんだからだ…
グズグズするのが、嫌いだからだ…
私は、マミさんの性格を熟知している…
マミさんの性格を知り尽くしている…
それゆえ、思わず、笑ってしまった…
不謹慎にも、心の中で、笑ってしまった…
しかしながら、それを、声に出すことは、できない…
表情に出すことは、問題ない…
なにしろ、顔は、出さないことにしている…
声だけで、通話しているからだ…
私の表情が、見られないからだ…
私が、そう、思っていると、
「…今週末の、土曜日か、日曜日に、いっしょに、伸明さんの、お見舞いに、行かない?…」
と、マミさんが、言った…
続けて、
「…できれば、藤原さんも…」
と、付け加えた…
「…ナオキも…ですか?…」
と、これには、驚いた…
少なからず、驚いた…
なぜなら、こんなことは、言われたことがないからだ…
いつも、会うのは、二人きり…
私と、マミさんだけ、だからだ…
だから、思わず、
「…ナオキも、ですか?…」
と、叫んだ…
小さく、叫んだ…
マミさんは、すぐに、
「…伸明さんのお見舞い…藤原さんも、いっしょだから、土日に、したのよ…その方が、私も、都合がいいし…」
と、言った…
マミさんは、経営者…
会社を経営している…
ナオキと、同じく、経営者だ…
それゆえ、平日は、忙しい…
だから、伸明の見舞いに行くのは、週末になる…
週末の休みの日になる…
当たり前だった…
が、
それを、すっかり忘れていた…
これでは、失格…
秘書として、失格…
いや、
社会人として、失格だ…
そして、そう、考えると、なにより、現役感が、なくなっている…
私の現役感が、失われていると、気付いた…
こんなことも、わからない…
以前だったら、考えもしないことだ…
まず、相手の都合を聞き、次に、自分の都合を考える…
あるいは、ナオキの都合を考える…
これは、秘書の役目…
役目だ…
が、
それが、わからない…
それが、失われている…
これは、ひょっとして、衰えている…
自分の能力が、衰えている…
大げさでなく、思った…
まだ、32歳だが、癌や脳梗塞をやっている…
自分では、気付かなかったが、その可能性は、ある…
大いにある…
要するに、病気の影響で、頭の回転が、悪くなっている…
しかしながら、それに、気付かないのは、今、私が、無職だから…
働いていないからだ…
働いていれば、頭を使う…
肉体も、使うが、頭も使う…
それがない…
それがないのだ…
だから、気付かない…
自分の能力が、衰えていることに、気付かない…
これは、ひょっとして?
ひょっとして、今回のことに、言えるかも?
今度の伸明の見合いを始めとした一件に言えるかも?
あるいは、和子の入院をきっかけにした騒動に、言えるかも、と、気付いた…
もしや、私が、見逃した…
あるいは、気付いていない、なにかが、まだ、あるのかも、しれない、と、気付いた…




