寿綾乃という女 第4部 182
「…いてあげるわよ…」
私は、簡単に言った…
私は、あっさりと、言った…
「…ボクは、金はある…でも、臆病でも、ある…」
「…なにを言いたいの?…」
「…なにをするのか、時間がかかると言うこと…一年、二年、それ以上、かかるということ…綾乃さん、それでも、待てる?…」
「…待てるわよ…でも、どうして、そんなに、時間がかかるわけ?…」
「…ボクが、歳を取ったからだよ…」
「…どういう意味?…」
「…FK興産を起業したのは、学生時代…まだ、大学生だった…だから、右も左も、わからない、子供だった…だから、強気…なにも、わからないから、強気でいられる…」
「…」
「…でも、今は、違う…少しは、大人になった…少しは、右も左も、わかるようになった…だから、勢いで、会社は、作らない…時間をかけて、ゆっくりと、考える…なまじ、若いときのように、勢いで、会社を立ち上げて、金を失うのは、避けたいからね…」
ナオキは、言った…
ゆっくりと、言った…
たしかに、ナオキは、金はある…
FK興産を、五井に売却すれば、金はあるだろう…
数百億は、あるだろう…
その金を元手に、すぐに、会社を作ることは、できる…
でも、成功するか、どうかは、わからない…
誰にも、わからない…
むしろ、失敗する確率の方が、高いだろう…
だから、綿密に準備する…
綿密に、企業内容や、市場の動向を注視して、準備する…
それとて、成功するか、どうかは、わからない…
誰にも、わからない…
私が、考えていると、
「…ひとは、一寸先は、闇…誰もが、闇…」
と、ナオキが、笑いながら、言った…
「…まあ、闇といっても、悪いことを言っているんじゃない…ただ、将来は、見えないって、言っているだけ…」
「…見えない…」
「…ボクも、綾乃さんも、いっしょに、暮らし出したとき、ボクが、こんなに成功をするとは、夢にも、思わなかったでしょ?…」
「…それは、そうだけれど…」
「…でも、これが、ボクの人生のピークかも、しれない…」
「…えっ? ピーク? どうして、ピークなの?…」
「…人生は、一寸先は闇だからさ…誰にも、先は、わからないからさ…」
「…」
「…綾乃さんを、見れば、それが、わかる…」
「…私を、見て? …なにが、わかるの?…」
「…綾乃さんは、美人だけれども、女優でも、モデルでもない…」
「…なにが、言いたいの?…」
「…美人を生かして、生きていない…」
「…どういう意味?…」
「…男でも、女でも、周囲から、羨ましがられるほど、カッコよかったり、美人だったりするひとたちも、大抵が、そのルックスを生かして、仕事に就くことができない…」
「…」
「…つまり、なにが、言いたいかと、言えば、見える未来…」
「…見える未来?…」
「…ルックスが良ければ、そのルックスを生かした、職業に就くと、誰もが、思うけれども、それが、できるのは、ほんの一握りの人間…選ばれたひとたち…大抵は、誰もが、平凡な人生を歩む…」
「…」
「…だから、一寸先は闇…未来は、誰にも、わからない…ボクが、こんなにも、成功したのは、自分自身が、一番、驚いている…でも、もしかしたら、これが、ボクのピーク…ボクの人生のピークかも、しれない…」
「…ナオキの人生のピーク…」
「…そう…」
「…でも、FK興産を完全に、五井に売却すれば、途方もないお金が、手に入るでしょ? これから、何十年生きるか、わからないけれど、生活に困るわけじゃないでしょ?…」
「…なにも、しなければね…」
「…なにも、しなければ?…」
「…ボクのような立場の人間は、誰もが、再び、事業を起こす…会社を興す…それで、二度、三度と、失敗を繰り返して、全財産が、すっからかん…一文無しになりました、なんて、人間は、後を絶たない…」
「…」
「…ボクは、そんな人間には、なりたくないし、さりとて、FK興産の株を売って、莫大な金を手に入れて、この歳で、余生を送ろうなんて、考えるのも、嫌だ…」
「…」
「…だから、悩む…この先、なにをしようか、悩み…この先、どうやって、生きていこうか、悩む…」
赤裸々な告白だった…
ナオキの赤裸々な告白だった…
が、
同時に、安心した…
ナオキのこの告白を聞いて、安心した…
それは、なぜか?
それは、あまりにも、平凡だから…
あまりにも、堅実だから、安心した…
そういうことだ…
そして、それが、私の表情に、出たのだろう…
「…綾乃さん、なんだか、嬉しそうだね…」
と、ナオキが、言った…
「…それは、嬉しいわ…」
「…どうして、嬉しいの?…」
「…だって、ナオキ…アナタ、平凡だから、堅実だから、嬉しいの…」
「…どういう意味?…」
「…だって、お金を持てば、人間が、変わる…行動が、変わる…でも、ナオキは、変わらない…昔のまま…出会った時のまま…」
「…それは、綾乃さん、ボクが、平凡な人間だからだよ…」
「…平凡な人間?…だって、ナオキは、私と違って、有名大学を出ているし、頭がいいし…」
「…それは、綾乃さんの見方…世間一般の見方…」
「…」
「…大学に入れば、周囲には、ボクより優秀な奴は、ごまんといたさ…それで、凹んだわけじゃないけれど、鼻っ柱をへし折られたというか、現実を思い知らされた…自分は、つくづく、平凡な人間だと、思い知らされた…そして、それは、成功しても、変わらない…まったく、変わらない…自分は、ただ、運が、良かっただけ…その思いは、変わらない…たぶん、この先も、変わらない…」
ナオキが、激白する…
FK興産創業社長の藤原ナオキが、激白する…
そして、それゆえ、私は、このナオキと、パートナーを続けることができた…
これまで、パートナーを続けることができたと、あらためて、思った…
それは、考え方…
考え方が、同じだから…
価値観が、同じだから、パートナーを続けることが、できる…
これが、価値観が、違えば、いっしょにいることは、難しい…
パートナーを続けることは、難しいからだ…
私は、そう、思うと、思わず、
「…ナオキ…キスをして、あげる…」
と、言った…
「…えっ? キス? どうして、いきなり、そんなことを?…」
「…だって、嬉しいんだもの…ナオキが、あまりにも、昔から、変わらないことが、嬉しいんだもの…」
「…」
「…だから、キスをしてあげる…」
私が、言うと、ナオキが、照れた…
「…綾乃さん、やめてくれ…」
と、言って、照れた…
「…キスをしてくれるのは、嬉しいけれど、ボクは今、ビールを飲んでいる最中だから、ビール臭いよ…だから…」
ナオキが、最後まで、言い終わらないうちに、ナオキの頬に、キスをした…
まるで、子供のように、キスをした…
そして、離れた…
すばやく、ナオキから、離れた…
ナオキは、驚いたが、すぐに、苦笑した…
「…まさか、ほっぺとは…」
と、言って、苦笑した…
「…こうすれば、私も、ビール臭くなくて、すむわ…」
私が、言うと、ナオキが、苦笑した…
そして、
「…やっぱり、綾乃さんだ…」
と、言って、笑った…
「…なにが、綾乃さんなの?…」
「…ボクが、想像する以外のことを、する…」
「…それって、ほめてるの? それとも、けなしてるの?…」
「…半分、半分…」
ナオキが、笑いながら、言う…
そして、それから、真顔になった…
「…もしかしたら、諏訪野さんも、同じかも…」
と、真剣な表情で、言った…
「…なにが、同じなの?…」
「…諏訪野さんが、あのハルカさんに、刺されたこと…」
「…」
「…諏訪野さんも、あのハルカさんに、刺されるなんて、想像も、していなかったと、思う…ボクが、今、綾乃さんに、ほっぺに、キスをされたことと、同じく…」
「…ちょっと、ナオキ、私が、アナタの頬に、キスをしたのと、伸明さんが、ハルカさんに、刺されたのを、同列にするなんて、おかしいんじゃない?…」
「…そう言われると、そうだけれども、同じなのは、予想外と、いうこと…」
「…予想外?…」
「…誰だって、諏訪野さんの立場なら、相手に、刺されると、思って、いれば、会うわけはないだろ?…」
「…それは、そうでしょうけれど…」
「…まさか、諏訪野さんが、ハルカさんを、妊娠させて、それを、ハルカさんが、諏訪野さんに、告げたら、下ろせと言われたから、逆上して、刺したなんと、ことは、ないだろ?…」
あまりにも、想定外の言葉だった…
私が、まったく考えたことのない、話だった…
まさに、想像外…
あるいは、想定外の言葉だった…
私は、呆気に取られると、同時に、
…ありえるかも?…
と、思った…
あの伸明とて、子供ではない…
聖人君子ではない…
それゆえ、ナオキの言葉は、ありえるかも?
もしかしたら、ホントに、ありえるかも?
と、思った…
思ったのだ…
そして、私が、本気で、その可能性を考えて、黙りこむと、ナオキが、
「…どうしたの? 綾乃さん、冗談だよ?
なにを真剣に、考えているの?…」
と、言った…
が、
私には、それが、冗談には、聞こえなかった…
まったく、冗談には、聞こえなかった…
…ありえる!…
…現実に、ありえる話だ!…
と、思ったのだ…
「…ただの冗談だよ…」
ナオキが、続ける…
私は、
「…冗談じゃないかも、しれない…」
と、真剣に、語った…
「…綾乃さん、冗談じゃないかも、しれないなんて、どうして、言うの? なにか、確信があるの?…」
「…確信なんて、ないわ…でも、ナオキの意見は、参考になった…」
「…参考になった? どういうこと?…」
「…一人より二人…二人より三人…三人寄れば文殊の知恵って、言葉があるけれど、自分一人では、思いもつかないことを、ナオキは、言ってくれた…」
「…綾乃さんには、思いもつかないこと?…」
「…私は、伸明さんが、ハルカさんを妊娠させたなんて、全然思わなかった…まったく、考えも、しなかった…」
「…そんな…冗談だよ…綾乃さん…なにをそんなに深刻に、受け取っているの?…」
「…可能性よ…可能性…」
「…可能性?…」
「…もちろん、今、ナオキが、冗談で、伸明さんが、ハルカさんを、妊娠させたんじゃないかって、言ったのは、わかるけれども、その可能性は、ゼロじゃないわ…」
「…」
「…そして、私には、そんな発想は、なかった…そんなことは、考えも、しなかった…」
「…」
「…大人の男女が、店で、ホステスと客として、会う…もしかしたら、今、ナオキが、言ったことが、一番ありえる展開なのかも?…」
「…あの諏訪野さんが?…」
「…伸明さんだって、聖人君子じゃないでしょ?…」
「…それは、わかるけれども…」
「…しかも、偽名…本名を名乗っていない…まあ、本名が、わかれば、色々、厄介なのは、わかるけれども、真逆に言えば、偽名だから、好きなことができる…勝手ができるってこと…」
「…勝手が、できる?…」
「…本名で、店に行って、しかも、五井ホールディングスの社長と名乗れば、好き勝手はできないでしょ?…」
「…それは、そうだけれども…」
「…ナオキのように、テレビに出て、名前と、顔が、世間に知られるのも、また、好き勝手が、しにくいこともある…でも、伸明さんは、それ以上、五井の当主としての立場がある…それは、ナオキと比較にならないほど、立場が、重い…だから、偽名で、遊んでいれば、それまでの反動で、女のコを妊娠させるぐらいのことを、しても、おかしくはない…」
私が、言うと、ナオキが、考え込んだ…
真剣に考え込んだ…
「…あくまで、仮定…仮定の話よ…」
と、私は、念を押した…
「…でも、ありえないことじゃない…」
と、断言した…
現実には、まだ、なにも、わかっていないにも、かかわらず、断言した(苦笑)…




