寿綾乃という女 第4部 181
ナオキの言葉とは、裏腹に、顔色が、変わっていた…
怒気色に、変わっていた…
そして、その顔色こそが、ナオキの心情を表していた…
言葉ではなく、ナオキの心のありようを、表していた…
私は、それを、見て、いかに、ナオキが、怒っているのかが、わかった…
以前、ナオキは、私に、五井は、FK興産を完全に、子会社にして、五井グループの情報関連企業を数社集めて、合併して、その社長に、ボクを据えると、いう話をした…
淡々とした…
そのときは、ナオキは、動揺していなかった…
ただ、淡々と、事実を告げるのみだった…
むしろ、会社を完全に、五井に売却したら、どうするか?
これから、どうやって、生きるか?
それを、笑い話にして、私に語った…
しかしながら、今のナオキは、それとは、別…
まったく、別の顔だった…
明らかに、怒っていた…
明らかに、激怒していた…
以前、笑い話にしていたときとは、雲泥の差…
まさに、雲泥の差だった…
が、
これが、普通かも、しれない…
これが、当たり前かも、しれない…
誰でも、ナオキと同じような状況になった場合、最初、聞いたときは、驚いたり、動揺したりするが、まだ、現実化していない…
正式に、聞いていない…
だから、言葉は、悪いが、高を括っている…
もしかしたら、違うのでは、ないか?
もしかしたら、その情報が、間違っているのでは、ないか?
そんなふうに、考えて、事態を、甘く考える…
あるいは、なんとかなるのでは、ないかと、甘く見る…
自分に都合よく考える…
大抵の人間が、そうだ…
もちろん、私も例外ではない…
そして、目の前のナオキも、例外ではなかったと、いうことだろう…
以前、私に、同じことを、話したときは、笑っていた…
まるで、冗談を言うように、笑っていた…
が、
今は、その余裕は、ない…
まるで、ない…
それは、その情報が、確実に、なったから…
仮定の話が、現実化したからだろう…
だから、追い詰められた…
逃げ場が、なくなった…
そういうことだろう…
だから、怒気色に、なった…
ナオキの顔が、怒気色に変色した…
そういうことだろう…
と、
そこまで、考えて、気付いた…
今さらながら、気付いた…
まさか、ナオキは、私と別れるということは、ナオキは、私を伸明さんに、献上する?…
昔の献上品でないが、伸明さんに、私を譲って、FK興産の買収を考え直してもらう…
伸明さんに、考え直して、もらう…
まさか?
まさに、まさかだが、そう、思った…
そう、思ったのだ…
そして、そんなことを、考えながら、ナオキを見た…
藤原ナオキを見た…
私のパートナーを見た…
すると、ナオキが、違って見えた…
まるで、長年連れ添ったナオキとは、違って見えた…
あくまで、私の主観だが、違って見えた…
そして、考えた…
ナオキに、とって、今回の件は、かつてない危機…
今まで、経験したことのない危機だと、気付いた…
もちろん、創業してから、危機は、何度となく、訪れたことはある…
会社を起業して、順風満帆なんて、ありえない…
何度も、倒産の危機を迎えている…
しかしながら、今度のような危機は、ない…
会社が潰れることはないが、買収される…
そんな危機は、ない…
もちろん、買収に際し、巨万の金が、五井から、支払われるだろう…
しかしながら、社長を続けても、これまでのように、オーナー社長ではない…
雇われ社長に、なる…
それが、どれほど、辛いものか?
想像を絶する…
普通なら、耐えられるものでは、ない…
自分の作った会社が、自分のもので、なくなるのだ…
権限が、大幅に縮小されるのだ…
これは、誰しも、耐えられるものでは、ない…
だから、以前、ナオキは、FK興産が、完全に、五井に買収されるかも、しれないと、聞いたときに、店でも、やるかと、減らず口を叩いた…
つまりは、人手に渡ったFK興産に居座るつもりはない…
まったくない…
それを、意思表示したということだ…
そして、そんなことを、思い出しながら、ナオキを見た…
そして、言った…
「…ナオキ…アナタ、私に別れようと言ったでしょ? アレは、もしかして、私を、伸明さんに、譲って、FK興産の買収を考え直して、もらうとか、思っているわけじゃ、ないでしょうね?…」
私は、笑いながら、言った…
が、
笑いながらも、真剣だった…
あくまで、笑いながら、言うことで、冗談に、見せかけただけだ…
本気ではないと、見せかけただけだ…
が、
その質問に、ナオキは、黙った…
「…」
と、黙った…
無言で、ビールを飲んでいた…
あるいは、無言で、ビールを飲むフリをした…
私は、徐々に、いら立ってきた…
もしや、私を献上品のように、差し出す…
このナオキが、それを、本気で、するのかと、思ったら、腹が立った…
むかっ腹が、立った…
思わず、バンとテーブルを叩いて、
「…ナオキ…どうして、答えないの? さっさと、答えなさい!…」
と、怒鳴った…
我慢できずに、怒鳴った…
それを、見たナオキが、思わず、プッと吹き出した…
飲んでいた、ビールを、口から、プッと吹き出した…
それから、笑った…
実に、楽しそうに、笑った…
「…やっぱり、綾乃さんだ!…」
と、言って、笑った…
「…これが、綾乃さんだ!…」
と、言って、爆笑した…
私は、頭に来た…
まさに、怒髪天を突くほど、頭に来た…
「…どういう意味よ!…」
と、怒鳴った…
思わず、怒鳴った…
が、
効果は、なかった…
まるで、なかった…
効果どころか、逆効果…
かえって、楽しそうに、ナオキが、笑うだけだった…
私は、頭に来て、ナオキから、缶ビールを取り上げた…
「…ひとが、真剣に、聞いているのに、笑うんじゃない!…」
と、怒鳴った…
が、
それでも、ナオキは、楽しそうに、笑うのを、止めなかった…
私の我慢は、限界だった…
限界だったのだ…
ナオキに、顔を近付けて、思いっきり、平手で、ぶった…
珍しく、ぶった…
いかに、私でも、ナオキを平手で、ぶった経験は、あまりない…
ぶった経験は、あまり、覚えていない…
一回や二回は、あったかも、しれない…
でも、例えば、十回を超えることは、ない…
そんなに、多く、ぶてば、覚えているはずだからだ…
その証拠に、ナオキは、私にぶたれて、正気になった…
正気に、戻った…
「…綾乃さんは、やっぱり、綾乃さんだ…」
と、言いながら、笑うことを、止めた…
「…でも、そんなキレイな顔を近づけて、ボクをぶつのは、反則だよ…」
ナオキが、やはり、笑いながら、言う…
「…反則? どうして、反則なの?…」
「…そんなキレイな顔は、ぶてない…男は、みんなぶてない…だから、反則…反則だよ…」
そう、言われると、どうして、いいのか、わからなかった…
怒って、いいのか、どうか、わからなかった…
ほめているのか、どうか、わからなかったからだ…
だから、
「…それ、ほめてるの?…」
と、聞いた…
「いや、ほめてない…」
ナオキが、即答する…
「…ほめてない…事実を言っただけ…」
そう、言われると、またも、どうして、いいのか、わからなかった…
だから、固まった…
どうして、いいか、わからず、固まった…
ナオキは、私が握った缶ビールを、私から、奪って、それを、飲んだ…
「…やっぱり、美味い…」
と、言って、嬉しそうに、飲んだ…
「…このビールは、いつ飲んでも、うまい…綾乃さんも、それと、同じ…綾乃さんは、いつも、綾乃さん…寿綾乃さん、ブレることは、ない…」
そう、言って、笑った…
それから、真剣な口調で、
「…綾乃さんの言うことは、考えたことが、あった…たしかに、あった…」
と、私が、聞いたことを、認めた…
私を伸明さんに。献上しようと、考えたことを、認めた…
「…でも、考えたのは、一種、一瞬だけ…」
ナオキが、笑った…
「…どうして、一瞬なの?…」
「…綾乃さんは、瞬間湯沸かし器…怒ると、自分の感情が、抑えられない…諏訪野さんも、綾乃さんを、扱えない…」
ナオキが、言った…
まるで、私を猛獣のように、言った…
これは、怒るところ…
私の怒るところだが、怒る気になれなかった…
もはや、怒る気になれなかった…
怒るには、体力が、必要…
その体力が、私には、もうなかった…
「…ボクが。綾乃さんと、別れようと、言ったのは、ボクの進路…ボクの将来…」
「…ナオキの将来?…」
「…FK興産の株を五井に売って、完全に、FK興産の経営から、手を引く…その後、なにをやるか、まるで、わからない…それでも、ボクといっしょに、いてくれる?…」
ナオキは、言った…
真剣な表情で、言った…




