寿綾乃という女 第4部 177
夜になって、ようやく、ナオキが、帰って来た…
待ちかねた…
実に、待ちかねた…
聞きたいことは、山ほど、あった…
しかしながら、今すぐ、聞くわけには、いかない…
ナオキも、また、疲れていたからだ…
ナオキも、また、疲労困憊している様子だった…
それは、一目見て、わかった…
一目見て、顔が、疲れてきっているのが、わかった…
それゆえ、私は、
「…お風呂にする? それとも、先に、軽く、ビールでも、飲む?…」
と、聞いた…
良妻賢母の見本…
我ながら、良妻賢母の見本だった(爆笑)…
ナオキは、少しばかり、考えて、
「…風呂にするよ…」
と、答えた…
「…そう…」
私は、応じる…
私は、それならと、ナオキが、お風呂に入る用意をしようとすると、ナオキが、いきなり、私を抱きしめた…
私の背中越しに、抱きしめた…
「…綾乃さん、愛しているよ…」
ナオキが、私の耳元で、囁く…
私は、
「…ナオキ…なにをバカなことを、しているの…」
と、言った…
「…さっさと離しなさい!…」
と、私が、叱ると、
「…離さない!…」
と、返ってきた…
「…ちょっと、離さないって、どういうことよ…」
私が、怒ると、ナオキは、
「…少し、もう少しだけ、このままで、いらせて…」
と、私に告げた…
さすがに、この状況は、異常…
異常だった…
「…ナオキ…アナタ、会社で、なにが、あったの?…」
私は、聞いた…
が、
それに対して、答えは、なかった…
ただ、答えの代わりに、私を離した…
私のカラダから、離れた…
「…ごめん、綾乃さん…」
と、言って、私から、離れた…
私は、すぐに、
「…会社? それとも、伸明さん?…」
と、聞いた…
ナオキは、それには、答えず、
「…お風呂に入ってくる…」
と、言って、私の前から、消えた…
私は、ナオキを追わなかった…
これ以上、ナオキを追って、追及しても、仕方がないからだ…
お風呂から、出てきて、話すことは、わかっているからだ…
それを、今すぐ、話せと、いうことは、できない…
子供では、ないのだから、できない(苦笑)…
私は、ナオキが、お風呂から出た後のことを、考えて、ナオキの下着と、パジャマを用意した…
それから、晩酌の用意をした…
お風呂から出て、ビールを一杯飲むとしても、なにか、つまみが必要だと、思ったからだ…
まあ、ナオキは、私同様、飲むのと、食べるのは、別というタイプ…
つまりは、飲むのに、つまみは、必要ない…
飲むときは、飲むだけ…
食事は、別というタイプだ…
その方が、楽だ…
飲むのも、食べるのも、楽だ…
まあ、私が、根がずぼらということもある…
が、
それだけでは、ない…
ただ、飲むときは、飲む…
食べるときは、食べると、わけたいだけ…
それだけだ…
だから、なにか、ナオキのために、つまみを用意しようと、考えたが、やめた…
それよりも、冷えたビールを出す方が、いい…
キンキンに、冷えたビールを出す方が、いい…
その方が、ナオキも、喜ぶ…
そう、考えた…
なにしろ、ナオキとは、もう十五年も、付き合っている…
お互いの好みも、わかっている…
なにが、好きで、なにが、嫌いか、わかっている…
そして、そんなことを、考えながら、ビールを、冷凍庫に、入れようかと、考えた…
最近、知ったのだが、缶ビールを冷やすときに、飲む前に、冷蔵庫の冷凍庫に、5分程度、入れてから、飲むのが、一番、キンキンに、冷えて、おいしいと、メーカーの担当者が、ネットで、語っていたからだ…
だから、そうしようかと、考えた…
が、
季節は、まだ、夏ではない…
まだ、夏には、遠い…
今は、まだ、春…
夏になったら、そうしようと、考えた…
また、今、そうしようと、考えなかったのは、私は、うっかりものだから…
うっかり、ミスをしてしまうことが、あるから…
稀にあるから…
つまりは、冷凍庫から、ビールを取り出すことを、忘れるかも、しれないからだ…
これから、話す話…
おそらくは、深刻な話になる…
その深刻な話に夢中になって、冷凍庫の中に入れた、缶ビールを取り出すことを、忘れたら、困る…
そう、思った…
そう、思ったからだ…
だから、缶ビールを冷凍庫に入れるのは、止めた…
そして、そんなことを、考えている間に、ナオキが、お風呂から、出て来た…
さっぱりとした顔で、出て来た…
私は、ナオキの顔を見て、すぐに、
「…ビールを飲む?…」
と、聞いた…
が、
その答えは、意外だった…
まさに、意外だった…
ナオキは、ビールとは、全然、関係のないことを、言ったからだ…
ナオキは、
「…別れよう…」
と、いきなり、言ったからだ…
私は、一瞬、ナオキが、なにを、言っているのか、わからなかった…
さすがに、わからなかった…
だから、
「…ナオキ…アナタ、なにを、言っているの?…」
と、聞き返した…
思わず、聞き返した…
ナオキは、間髪入れずに、
「…別れよう…」
と、繰り返した…
私は、すぐに、
「…ナオキ…アナタ、バカも、休み休み、言いなさい…」
と、叱った…
それから、
「…今日、昼間、会社で、なにか、悪いものでも、食べたの?…」
と、言って、笑わせようとした…
が、
ナオキは、笑わなかった…
「…綾乃さん、別れよう…」
と、繰り返した…
私は、冷静に、
「…ナオキ…別れて、どうなるの?…」
と、聞いた…
「…アナタは、FK興産の社長だけれども、私は、無職…これから、私は、どうして、食べていけば、いいの?…」
「…諏訪野さんと、結婚すれば、いい…」
ナオキが、間髪入れずに、答えた…
私は、唖然とした…
呆れたと、言って、いい…
「…ナオキ…アナタ、気は、たしか?…」
「…たしかさ…」
「…私が、伸明さんと、結婚するわけが、ないでしょ?…」
「…どうして?…」
「…だって、身分が、違うでしょ? それに…」
「…それに、なに?…」
「…結婚は、暮らして、みなければ、わからない…いっしょに、生活してみなければ、わからない…ナオキ、アナタだって、中学生や、高校生のような、子供じゃ、ないんだから、私が、言うことは、わかるでしょ?…」
「…それは、わかる…でも…ボクと、綾乃さんは、うまくいった…だったら、綾乃さんが、諏訪野さんと、うまくいかないわけはない…」
「…どうして、わかるの?…」
「…どうしてって、言われても…」
「…私、最近、考えたの…」
「…なにを、考えたの?…」
「…私が、なぜ、ナオキと、うまくいったのか? なぜ、FK興産で、社長秘書として、うまく、いったか、考えたの…」
そこまで、言って、私は、まだ、ナオキにビールを勧めていないことに、気付いた…
やはり、冷凍庫に、ビールを入れなくて、良かった…
今さらながら、思った…
そして、
「…ナオキ…ビール、飲む?…」
と、聞いた…
今さら、ながら、聞いた…
「…綾乃さんは?…」
「…私は、ドクターストップ…」
「…えっ? ドクターストップ?…」
「…昨日、倒れて、今日、病院に行ったでしょ? センセイから、なるべく、アルコールは、控えて下さいって、言われたから…」
「…そうなんだ…」
ナオキは、納得した…
「…でも、ボクは、飲むよ…綾乃さんには、悪いけれど、飲むよ…」
「…ええ、飲みなさい…私は、別に、なにか、ジュースでも、いただくわ…」
ナオキに言って、ナオキには、冷えた、ビールを…
私は、冷蔵庫から、オレンジジュースを取り出して、グラスに、注いだ…
正直、癌になってから、カラダに、気を使うようになった…
カラダ=健康に、気を使うようになった…
それゆえ、冷蔵庫の中には、カラダに良さそうなものを、置いておくようになった…
このオレンジジュースも、その一つ…
100%果汁…
この成分を見て、迷わず、購入した…
率直に言って、オレンジジュースは、好きでも、嫌いでも、ない…
でも、カラダにいいと、思えば、飲む…
そういうことだ…
私は、ナオキが、缶ビールの缶をプシュッと、開けたのを、見て、私も、ナオキに、負けじと、オレンジジュースを飲み出した…
ナオキは、ビールを実に、美味しそうに、飲んだ…
私もそれを、見て、オレンジジュースを、呷るように、飲んだ…
そして、飲みながら、やはり、ビールの方が、良かったと、実感した…
しかしながら、昨日、家で、脳梗塞で、倒れて、今日、ビールを飲むバカは、いない…
センセイに、アルコールは、なるべく、控えて下さいと、言われて、飲むバカは、いない…
なにより、命が、惜しい…
おおげさでなく、まだ、死にたくない…
迷わず、そう思った…
そう、思ったのだ…
そして、私が、そんなことを、考えていると、ナオキが、
「…綾乃さん、さっきの続きだけれども…」
と、言い出した…
「…続き?…」
「…綾乃さんが、なぜ、ボクと暮らして、うまくいったか? 会社で、秘書として、うまくいったか? の続き…」
「…ああ、それね…要するに、運よ…運…」
「…運?…」
「…誰だって、いっしょに、住んでみなければ、相性はわからないでしょ? 仕事も、やってみなければ、わからないでしょ? 私は、たまたま、ナオキと、うまくいった…ナオキと、相性があった…仕事も、同じ…たまたま、自分にあった…」
「…」
「…率直に言って、これまでは、そんなこと、考えたことが、なかった…でも、会社を辞めて、ジュン君の運転するクルマに轢かれて、病院に入院したり、癌の治療で、オーストラリアに渡ったりして、考える時間が、たくさん、あった…なにしろ、働いていない…それは、今も、同じだけれども、働いてないからこそ、時間が、余る…だから、そんなことを、考えた…ナオキのように、働いていれば、たぶん、そんなことは、考えない…日々の業務に、忙殺される…そんなこと、考えている暇は、ないと、思う…」
私が、言うと、ナオキが、考え込んだ…
深刻な表情で、考え込んだ…
それから、
「…綾乃さんの言うことは、わかる…」
と、頷いた…
相槌を打った…
「…ボクも、子供じゃないから、わかる…男と女は、いっしょに、暮らしてみなければ、わからない…仕事も、やってみなければ、わからない…自分にあうかどうかは、わからない…ボクも、綾乃さんの言うように、たまたま、当たった…たまたま、成功したんだと、思う…」
「…」
「…でも、それは、綾乃さんの言うように、やってみなければ、わからないことでしょ?…」
「…そうよ…」
「…だったら、諏訪野さんとも、結婚してみなければ、わからない…いっしょに、暮らして、みなければ、わからないでしょ?…」
ナオキが、言う…
話を元に、戻した…
私の結婚に、話を戻した…




