寿綾乃という女 第4部 169
私が、その若いセンセイに、
「…お世話になりました…」
と、挨拶して、脳神経外科を後にして、また、一階の受付のカウンターに、戻ると、
「…よかったわね…寿さん…」
と、和子が、話しかけてきた…
私は、驚いた…
まさか、和子が、一階のロビーで、私を待っていたとは、夢にも、思わなかったのだ…
そして、和子の
「…よかったわね…寿さん…」
という言葉から、すでに、この和子が、さっきの脳神経外科の若いセンセイから、私の病状を聞いたのだと、思った…
どこで、聞いたか、知らないが、聞いたのだと、思った…
私は、驚いたと、同時に、怖くなった…
なぜ、怖くなったのか?
それは、これでは、私の体調は、丸わかり…
この和子に、丸わかりだからだ…
私が、今、どんな体調なのか、丸わかりだからだ…
これは、怖い…
正直、怖い…
私という人間を、すべて、知っている…
そんな感じがした…
実に、そんな感じがした…
が、
さすがに、それを、口にすることは、できない…
私が、和子に、言うことは、できない…
私が、そう、考えながら、和子を見ていると、
「…どうしたの? 寿さん、ボーッとして、そんなに、ショックだったの?…」
と、言われた…
たしかに、言われてみれば、ショック…
ショックだった…
昨日、脳梗塞で、倒れたのは、ショックだった…
しかしながら、昨日は、ナオキが、いた…
私の病状を心配した、ナオキが、わざわざ、自宅に、来てくれた…
そして、しゃべった…
だから、気がまぎれた…
気が、まぎれることで、ショックが、薄らいだ…
また、なにより、五井のゴタゴタが、私の気をそらした…
さらには、昨日、ナオキが、言った、五井が、FK興産を完全に、買収しようとしたこと…
そんな話題があって、私の心の中は、その話題で、いっぱいになった…
自分の体調のことは、忘れて、五井のこと、ナオキのこと、そして、伸明のことを、考えた…
考えることで、私は、自分の体調のことは、忘れた…
体調のことを、二の次にした…
そう、思った…
そう、思ったのだ…
そして、私が、そう、思っていると、和子が、
「…寿さん、時間がある?…」
と、いきなり、言った…
私は、
「…時間ですか?…」
と、つい、間の抜けた返事をした…
「…そう、時間…もし、寿さんが、時間があったら、この病院のレストランで、なにか、食べながら、少し、お話し、しましょう…」
そう、和子に、言われて、断る選択肢は、なかった…
私には、なかった…
なにしろ、相手は、五井の女帝だ…
そんな大層な人物に、誘われて、断る選択肢は、私には、なかった…
そして、なにより、五井のことを、聞きたい…
伸明のことを、聞きたい…
五井のゴタゴタの内幕を聞きたい…
これは、なにも、ワイドショー的な、覗き見的な興味から、出たことではない…
野次馬根性ではない…
ナオキが、五井に、組み込まれるのか、否か、大切な話だからだ…
この和子が、今回の内幕の、どの程度のことを、知っているのか、わからない…
しかしながら、なにも、知らないわけではないだろう…
もちろん、知っているはずだ…
私は、それを、聞きたかった…
実に、聞きたかった…
私が、和子といっしょに、訪れたのは、昨日、マミさんと、いっしょに訪れた、このレストランだった…
五井記念病院の最上階のレストランだった…
私は、和子と、いっしょに、同じテーブルに座りながら、
「…昨日も、マミさんと、ここへ、来たんですよ…」
と、告白した…
「…マミと?…」
和子は、驚いた…
「…ハイ…私が、昨日、和子さんの、お見舞いに、この病院に伺ったんですが、マミさんも、同じだったようで、私が、今日、和子さんに、声をかけられたのと、同じように、マミさんに、声をかけられて…それで、マミさんが、すでに、和子さんは、退院したと、おっしゃって…」
私が、告げると、和子は、
「…そう…」
と、不機嫌そうに、呟いた…
私は、なぜ、和子が、不機嫌なのか、わからなかった…
そして、それを、聞いて、いいものか、どうかも、わからなかった…
ただ、当惑した…
ただ、戸惑った…
そして、そんな私の態度が、わかったのだろう…
和子が、
「…寿さん、私が、不機嫌そうに、見えたのなら、謝るわ…」
と、言った…
思いがけないことを、言った…
私は、どう答えていいか、わからなかった…
だから、黙った…
ただ、小さく、
「…いえ…」
と、言っただけで、黙った…
和子は、
「…みんな、勝手なことばかりして…」
と、不満を言った…
「…勝手なことばかり…ですか?…」
「…そうよ…」
和子は、子供が、すねたように、言った…
「…私を勝手に、病院に、入院したと言って、好きなことばかり…」
「…えっ? でも、失礼ですが、倒れられたのでは?…」
「…それは、今の寿さんと、同じ…倒れたけれど、たいしたことじゃない…私、まだ、六十代よ…今の世の中、全然、若い!…」
和子が、憤る…
「…」
「…それを、伸明が、利用して…」
「…利用?…」
「…私が、入院したと、わざと、五井の一族に触れ回って、一族が、どう出るか、試したの…」
「…試した?…」
「…そうよ…」
「…では、入院されたのは、事実では?…」
「…事実よ…でも、三日だけ…」
「…三日だけ!…」
私は、素っ頓狂な声を上げた…
「…まさに、三日坊主ね…」
和子が、笑った…
「…でも、それを、伸明が、利用して…わざと、私の入院を、おおげさにして、一族が、どう出るか、試したの…」
「…」
「…案の定、すぐに、動きが出た…」
「…どう、動き出したんですか?…」
「…五井北東家…」
思っていた通りの名前が出た…
「…寿さん、ご存じでしょ?…」
和子に、そう、言われて、
「…ハイ…」
と、いう選択肢しか、なかった…
まさか、否定することは、できなかった…
おそらくは、この和子は、お見通し…
すべて、お見通しだからだ…
だから、ここで、否定することは、できなかった…
「…彼には、建造さんも、ほとほと、手を焼いていたわ…」
やはり、思っていた通りのことを、言った…
「…五井北東家は、東都新聞を支配している…株主は、五井北東家だけ…これは、朝日新聞が、村山家が、支配していたのと、同じ…しかも、株式を公開していない…非上場…自分の好きなように、できる…それが、いけなかった…」
「…」
「…北東家は、東都新聞を土台にして、東都ラジオ、東都テレビを支配している…にも、かかわらず、五井家内での序列は、一番、下の方…それが、団郁馬には、許せなかった…」
「…」
「…それで、ことあるごとに、建造さんに歯向かって、それで、建造さんが、亡くなると、今度は、伸明に、歯向かって…」
「…」
「…でも、建造さんは、バカじゃない…亡くなる前に、手を打っていた…」
「…手?…ですか?…」
「…そう、対策ね…すでに、団郁馬の持つ、メディアは、落ち目…時間が、経てば、経つほど、世間で、影響力が、なくなる…それを、見越して、対策を立てていた…」
「…失礼ですが、どんな対策ですか?…」
「…対外的には、西都新聞を、取り込みこと…」
「…えっ? でも、それは、伸明さんが、したことじゃ?…」
「…若い伸明に、そんなことは、できないわ…」
「…どうして、できないんですか?…」
「…若すぎるからよ…」
「…若すぎるから?…」
「…生徒新聞の社長や会長は、六十代、七十代以上…しかも、建造さんは、そのひとたちと、三十代くらいから、知っているわ…」
「…えっ? 三十代から、知っている? どうして、知っているんですか?…」
「…会社で、偉くなる人間は、最初から、決まっている…もし、最初ではなくとも、どんなに遅くても、入社して、十年もすれば、誰を将来、幹部候補として、育てるかは、わかっている…いわゆる、出世頭ね…それは、衆目の一致するところ…」
和子が、力説する…
そして、和子が、力説した後、
「…ごめんなさい…まだ、なにも、注文していなかったわね…」
と、和子が、気付いた…
私は、
「…いえ、とんでもありません…」
と、言った…
和子は、テーブルの上に置かれたタブレットを見た…
が、
やはり、慣れないらしい…
私は、その動作を見て、
「…失礼ですが、私が、やります…」
と、口を挟んだ…
「…寿さんが?…」
「…なにしろ、昨日、マミさんと、ここへ来たばかりなので…」
私が、言うと、
「…そう…」
と、和子が、頷いた…
それから、
「…だったら、寿さん、お願いするわ…」
と、私にタブレットを渡した…
私は、タブレットを受け取り、
「…失礼ですが、なにを注文しますか?…」
と、聞いた…
それを、聞いて、和子は、すぐに、
「…軽食…軽いものね…それと、コーヒー…」
と、答えた…
私は、タブレットを、指で、なぞって、和子に見せた…
「…軽食は、サンドイッチでいいですか?…」
と、聞き、いくつかの、サンドイッチの種類を見せた…
また、コーヒーも同じ…
「…ホットですか? アイスですか?…」
と、聞いた…
正直、面倒臭い(苦笑)…
これなら、ウエイターや、ウエイトレスに直接告げた方が、よっぽど楽だ…
それを、和子も感じたらしい…
私が、注文し終えると、
「…やれやれ、大変ね…」
と、和子が、ぼやいた…
「…たかだか、注文するのに、一苦労…これなら、直接、ひとに言う方が、よっぽど楽よ…」
と、愚痴をこぼした…
「…でも、まあ、人手不足だから、仕方ないか…」
と、自分を納得させた…
それから、私に、向き直った…
そして、真剣な表情になった…
これまでとは、一転して、真剣な表情で、
「…寿さん…」
と、声をかけてきた…




