寿綾乃という女 第4部 160
…ウソ!…
とっさに、思った…
とっさに、内心、叫んだ…
もちろん、声を、出したわけでも、なんでもない…
ただ、めまいがして、立っていられなくなった…
その場に立っていられなくなった…
…どういうことよ!…
私は、内心、絶叫した…
自分自身に対して、絶叫した…
自分のカラダに対して、絶叫した…
そして、同時に、気付いた…
これは、脳梗塞…
脳梗塞の前兆だと、気付いた…
前回も、そうだった…
いきなり、倒れた…
しかしながら、クスリは、飲んでいる…
毎日、欠かさず、飲んでいる…
そう、思いながらも、カラダが、動かなかった…
その場に、倒れるしかなかった…
それでも、まだ、少しは、カラダが、動く…
カラダを、自分の自由にすることは、できる…
だから、ゆっくりと、その場に倒れた…
その場に、横になった…
同時に、カラダ中の毛穴中の毛穴から、猛烈に、汗が出た…
冷や汗が、一気に出た…
一分、
いや、
二分、経っただろうか?
いや、
三分、経っただろうか?
そのままで、いた…
その場に、横になったままでいた…
すると、ようやく、カラダが、動くようになった…
同時に、身体中の毛穴という毛穴から、猛烈に出た冷や汗が、収まった…
見事に、収まった…
私は、すぐには、立ち上がらなかった…
そのままで、いた…
床に、横になったままでいた…
すると、開いた窓から、ふいてきた風が、冷たかった…
冷たく、心地良かった…
これでは、例えが、おかしいかも、しれないが、まるで、レイプされたよう…
男のひとに、レイプされたようだ…
女性が、レイプされた衝撃で、動けない…
よく、マンガや映画で、見るシーンだ…
しかしながら、私は、自分で言うのも、なんだが、33歳…
率直に言って、このシーンは、似合わない…
なぜ、似合わないのか?
それは、歳を取り過ぎているからだ…
少しばかり、歳を取り過ぎているからだ…
正直、そんなシーンは、学生が、似合う…
高校生や、大学生が、似合う…
私では、少々、歳を取り過ぎている…
私は、床に、寝転がったまま、そんなバカなことを、考えた…
我ながら、バカなことを、考えた…
同時に、気付いた…
これは、余裕のあるしるしだと、気付いた…
さすがに、この前は、そんなことは、考えなかった…
この前、同じように、倒れたときは、考えなかった…
そんな余裕は、なかったと、思い出した…
そして、そのままの姿勢でいて、少し経つと、立ち上がった…
立ち上がって、窓のところに行き、窓から、顔を出した…
あえて、窓から、顔を出して、その空気に当たった…
…生きている!…
…まだ、生きている!…
それが、正直な実感だった…
私、寿綾乃は、生きている!…
まだ、生きている!…
嬉しいというより、安心した…
実に、安心した…
まだ、生きている現実に、安心した…
そして、そのまま、5分以上だろうか?
窓に顔を、出したまま、外の風にあたっていた…
気持ちの良い風に、当たっていた…
が、
さすがに、それも、5分が限界…
寒くなった…
さすがに、寒くなった…
それゆえ、窓を閉めた…
それから、ソファに、座った…
ソファに、座って、これから、どうすれば、よいか?
それを、考えた…
さすがに、落ち込んだ…
いくら、能天気な私でも、落ち込んだ…
私は、基本、能天気…
よく言えば、楽天家だ…
物事をあまり、考えない…
物事を、深く、考えない…
それゆえ、若いときに、故郷を離れ、たったひとりで、都会にやって来た…
そんな無茶が、できた…
それは、今、考えれば、若さのせいも、あるが、やはり、基本、能天気だから…
能天気だから、
…たぶん、なんとか、なる!…
と、楽観的に、考えるからだ…
そして、その通りに、なった…
頼った親戚の家は、折り合いが、悪く、すぐに出たが、ナオキと出会い、好転した…
人生が、好転した…
まさに、出たとこ勝負…
あまり、考えないで、生きてきた…
それが、うまくいった…
偶然、うまくいった…
それが、すべてだろう…
これまで、偶然、うまくいったのが、すべてだろう…
だから、なんとかなる…
そう、思うようになった…
楽天的に、思うようになった…
癌持ちにも、かかわらず、思うようになった…
それは、なぜか?
癌は、痛みが、ないからだった…
私の場合は、痛みが、あまりなかった…
それゆえ、周囲の人間が、思っているほどでもない…
だから、私は、深刻に考えなかった…
それが、答えだった…
しかしながら、この脳梗塞は、そうは、いかない…
一瞬にして、カラダが、動かなくなる…
一瞬にして、カラダが、固まって、しまう…
だから、これは、癌より厄介…
厄介だ…
そして、そんなことを、考えると、
…明日、また、五井記念病院に行こう!…
そう、思った…
明日、五井記念病院の脳神経内科に、行こうと、思った…
前回は、そこに、運ばれた…
この家で、倒れて、五井記念病院に運ばれた…
それから、定期健診と、クスリをもらうために、定期的に、訪れていた…
それゆえ、明日、予約は、なくても、飛び込みで、行ってみようと、思った…
さすがに、これでは、そう考えるしか、なかった…
なかったのだ…
その一方で、お風呂に入ろうと、思った…
外出したことも、そうだが、カラダ中の毛穴という毛穴から、一瞬で、大量な汗が、一気に噴き出たことで、自分のカラダが、汗まみれになった気がしたからだ…
さすがに、嫌だった…
これは、嫌だった…
我慢できなかった…
それに、体調が、回復したことも、大きい…
たしかに、立っていられないほどの衝撃だったが、それは、一瞬…
一瞬だ…
今は、もうなんともない…
まさか、今から、5分後に、もう一度、倒れることは、ないだろう…
高をくくっているわけではないが、ないだろう…
そう、考えると、お風呂に入りたくなった…
是が非でも、入りたくなった…
浴槽に浸かり、すべてを忘れて、のんびりしたくなった…
30分後に、私は、それを、実践した…
素っ裸になって、お風呂に入った…
湯船に浸かった…
…正直、ホッとする…
…実に、ホッとする…
嫌なことは、全部忘れる…
癌も脳梗塞も、全部、忘れる…
五井も、伸明も、ナオキも全部、忘れる…
これは、すべて、生きていればこそ…
生きていればこそのことだからだ…
今は、生きることが、精一杯…
他に、余裕はない…
まったく、余裕がない…
余裕があるから、伸明のことを、考える…
余裕があるから、ナオキのことを、考える…
余裕がなければ、考えない…
自分が、生きることに、必死だからだ…
美人薄命…
私が、死ねば、世間は、そう言うだろう…
世間は、そう、噂するだろう…
現に、叔母は、当てはまった…
美人薄命が、当てはまった…
何度も言うように、叔母は、私に似た美人だったから、当てはまった…
しかし、叔母は、どうだろう…
叔母は、どう思っただろう…
美人薄命という言葉に当てはまったことを、どう思っただろう…
本当は、死にたくなかったのでは、ないか?
生きて、いたかったのではないか?
今、考えれば、そう、思う…
実に、そう、思う…
子供の頃は、そんなこと、考えたことも、なかった…
それは、私が、子供だから…
子供だったからだ…
それが、今、叔母と同じ立場になった…
私そっくりの美人の叔母と同じ立場になった…
すると、どうしても、叔母のことを、考えてしまう…
自分のことのように、考えてしまう…
叔母は、あのとき、死にたくなかったのでは?
と、考えてしまう…
周囲の人間は、その直前に娘の綾乃が、亡くなって、娘の綾乃を追うように亡くなった叔母を見て、納得したというか…
母一人子一人の家庭だったから、それも、やむなしと思ったのかも、しれない…
しかし、叔母は、まだ若かった…
まだ、三十代だった…
今の時代なら、十分若い…
まだ、十分、結婚できる…
まだ、十分、再婚できる…
しかも、叔母は、美人…
私そっくりの美人…
相手を選ばなければ、再婚相手には、困らなかっただろう…
まして、叔母が、亡くなる前に、娘の綾乃は、亡くなっていた…
つまり、叔母は、こぶつきではない…
叔母に、子供は、いなくなった…
だから、余計に再婚は、可能だったろう…
叔母に、その気が、あれば、可能だったろう…
しかしながら、叔母は、今の私同様、病に侵され、娘の綾乃が、亡くなったことも、受けて、その衝撃で、生きる気力をなくしていた…
だから、失意のうちに、この世を去った…
だから、あのとき、叔母も、病に侵されてなかったら、また違ったかも、しれない…
娘の綾乃が、亡くなっても、生きる気力が沸いたかも、しれない…
病は、どうしても、体力や、気力を奪う…
健康なカラダには、健全な魂が、宿ると誰かが、言ったが、これは、事実…
事実だ…
カラダが、健康だから、心もまた、健全になる…
カラダが、病に侵されれば、どうしても、気持ちが、滅入る…
それゆえ、悲観的になり、正常な判断ができなくなる可能性があるからだ…
だから、もし、あのとき、叔母が、病に侵されていなければ、また、生きる気力が沸いたかも、しれない…
娘の綾乃を、亡くした悲しみから、立ち直ったかも、しれない…
私は、お風呂場の湯船に浸りながら、そんなことを、思った…
これまで、考えたことのないことを、考えた…




