寿綾乃という女 第4部 150
「…退職?…」
思わず、私は、素っ頓狂な声を上げた…
その声を聞いて、周囲の人間が、驚いて、私を振り返って見るほどだった…
これは、さすがに、マズい…
私は、声を殺して、
「…それは、本当ですか?…」
と、聞いた…
「…本当です…」
「…いつですか?…」
「…最近だと、聞いています…ただ、私も、正式に聞いたわけではなく、噂で…」
「…噂ですか?…」
「…ハイ…今、この端末で、調べて、長谷川センセイが、退職されたのを、お伝えしたわけですが、ご存じか、どうか、知りませんが、医師の方は、出入りが、激しいので…」
「…出入り…ですか?…」
「…サラリーマンでは、ありませんから、勤務医は、条件の良い病院に移ったり、する方も、多いです…」
「…長谷川センセイも、ですか?…」
「…それは、知りません…ですが、失礼ですが、アナタは、以前、この病院に入院していましたよね? …そのときの主治医が、長谷川センセイだったんですよね?…」
「…よく、ご存じですね…」
私は、驚いた…
「…それは、有名でしたから…」
「…有名?…」
「…おキレイですから、女優さんが、入院しているんじゃないかと、噂になって…それから、藤原ナオキさんですか? テレビに出ている方も、お見舞いに来られたので、有名でした…」
そう、言われると、なんと答えていいか、わからなかった…
ただ、やはり、顔バレしていると、思った…
まあ、半年以上、この病院に入院していたんだから、顔バレしていても、当然か?
それに、やはり、私は、目立つ…
あの近藤サトさんのような顔だから、目立つ…
それが、まずかった…
美人に生まれるのも、良し悪し…
こんなときに、すぐに、顔バレする…
ゆえに、こんなときは、つくづく、もっと、平凡な顔に生まれたかったと、思う…
女優でも、なんでも、ないのだから、目立つのが、困るからだ…
なにより、私は、顔で、生きているのではない…
美人をウリにする、女優さんでも、なんでも、ないのだから…
私は、そう、思った…
私は、そんなバカなことを、思った…
思いながら、その一方で、
…だったら、長谷川センセイは、今、どうしているんだろ?…
と、思った…
…今度は、どこの病院に、勤務しているんだろ?…
と、考えた…
私も、以前、この病院に入院していたから、わかる…
この五井記念病院のような、大きな病院は、医師は、皆、勤務医…
勤務といっても、サラリーマンとは、違う…
なにが、違うと言えば、流動性…
サラリーマンは、大手であれば、あるほど、会社が、閉鎖的で、転職は、少ない…
つまりは、大学を出て、定年退職まで、同じ会社に勤める…
昨今は、だいぶ、揺らいだが、それでも、今後も、大手では、取締役など、上に上がるものは、この傾向が、続くだろう…
それに、対して、医師は、基本、自分の腕を、頼りにするもの…
自分の腕一本で、他の病院に、移るのが、日常茶飯事…
これが、一般のサラリーマンと、違うところだ…
私も、以前、半年近く、入院して、そのことを、知った…
この病院の関係者と雑談をして、知った…
また、勤務医は、掛け持ちが多い…
他の病院と掛け持ちしている医師が多い…
それゆえ、大抵が、週二回程度の出勤…
他の病院と掛け持ちしているからだ…
そして、考えたのは、家で、パソコンで、検索したときには、長谷川センセイの名前が、この五井記念病院のシフト表に、出ていた…
が、
この女性が、今、私の目の前で、同じように、パソコンで、検索して、長谷川センセイは、退職したと、語った…
これは、どうしてだろう?
考えた…
それゆえ、聞いた…
「…あの…自宅で、この五井記念病院の外科のシフト表を見て、長谷川センセイが、今日は、勤務する日だと、知って、伺ったんですが、長谷川センセイは、退職したのに、どうして、五井記念病院の外科のシフト表には、名前が載っていたんですか?…」
と、聞いた…
受付の女性は、
「…それは、外部で、ネットに接続しているのと、この端末で、病院内部の情報を見るのは、違いますから…」
と、説明した…
「…病院内部の情報をすべて、ネットで、公開しているわけでは、ありませんから…」
と、説明した…
当たり前のことを、説明した…
たしかに、そう言われれば、わかる…
わかるのだ…
会社でも、病院でも、外部に接続しているものと、接続しないものがある…
すべて、外部に接続すれば、情報が、すべて、漏れてしまう…
情報が、外部に筒抜けになってしまうからだ…
FK興産で、長年、秘書を続けていた私が、こんな簡単なことを、忘れていた…
すっかり、忘れていた…
やはり、これは、ブランク…
ブランクのせいに違いない…
ほぼ、一年近く、出社していない…
会社に出社していない…
ずっと、無職だった…
だから、そんな簡単なことを、忘れてしまう…
そんな簡単なことに、気付かない…
私は、思った…
私は、考えた…
そして、同時に、気付いた…
…だったら、長谷川センセイは、どこに行ったんだろ?…
と、気付いた…
遅まきながら、気付いた…
この五井記念病院を退職しても、当然、医師は、続けているだろう…
長谷川センセイは、外科医…
当然ながら、その外科医を続けているだろう…
どこかの病院で、勤務して、続けているだろう…
一番、考えられるのが、掛け持ちしている病院…
この五井記念病院を辞めても、掛け持ちしている病院は、同時に辞めないだろう…
もし、辞めるようなことがあれば、それは、転勤では、ないが、どこか、別の地域に移ること…
そうであれば、今、勤務している他の病院も辞めなければ、ならない…
長谷川センセイが、今、この五井記念病院以外に、いくつ、他の病院に勤務しているか、知らないが、それは、誰が考えても。近くの病院に違いない…
そうで、なければ、自宅から、通えないからだ…
そう、思った…
そう、思ったのだ…
それゆえ、私は、
「…だったら、長谷川センセイは、今、どこの病院にいるか、わかりますか?…」
と、聞いた…
慌てて、聞いた…
すると、受付の女性は、一瞬、ためらった…
言っていいものか、どうか、悩んでいる様子だった…
それを、見て、私は、
「…お願いします…」
と、頭を下げた…
変な、話だが、相手の態度を見て、
…もう一押しだ!…
と、思ったのだ…
それゆえ、頭を下げて、誠意を見せた(笑)…
そんな私の態度を見て、
「…寿さん、長谷川センセイが、主治医でしたものね…」
と、受付の女性が、言った…
それを、聞いて、私は、仰天した…
さっきも、言っていたから、私を知っていたことに、驚きはなかったが、それでも、まさか、私の名前まで、知っているとは、思わなかった…
夢にも、思わなかった…
私が、驚いていると、その驚いた表情に、気付いたのだろう…
「…寿さん、有名でしたから…」
と、あっさり、言われた…
「…寿さんが、退院して、この病院にいなくなったのを知って、男の先生や、男の看護師の方が、大勢ショックを受けていましたよ…」
と、笑った…
私は、それを、聞いて、
「…そんな、おおげさな…」
と、笑った…
「…私は、女優さんでも、なんでもないですよ…」
と、笑って言った…
「…それでもです…」
受付の女性が、笑って返す…
そして、それ以上は、その話題には、触れなかった…
まあ、少し、おおげさに、この女性が言ったが、これも、社交辞令…
社交辞令のひとつだと、思った…
正直、女の方が、男より、社交辞令が、うまい…
うまく、相手を持ち上げる…
この点は、明らかに、男は、劣っている…
女より、劣っている…
私が、そう思っていると、この受付の女性が、
「…たしか、北東病院と、聞きました…」
と、言った…
「…北東病院!…」
思わず、大声を出した…
あの団郁馬は、五井北東家の当主…
そして、今、聞いた長谷川センセイの今度、勤務した病院は、北東病院…
関連が、ないはずがない…
間違いなく、関連がある!…
五井北東家が、関連する病院に違いないと、思った…
思ったのだ…
そして、それが、私の顔に出たのだろう…
「…寿さん、ご存じでしたか?…」
と、受付の女性が、聞いた…
「…いえ、名前が、私の知っている方と、同じで…」
「…北東が、ですか?…」
受付の女性が、怪訝な表情で、聞く…
たしかに、北東という苗字など、聞いたことがない…
私が、頭に浮かんだのは、あくまで、五井北東家…
五井北東家の団郁馬だ…
決して、北東という苗字ではない…
しかしながら、それを、この女性に説明しても、仕方がない…
そこまで、説明しても、仕方がない…
私は、思った…
私は、考えた…
それゆえ、
「…どうも、ありがとうございました…」
と、答えて、慌てて、その場を離れることにした…
受付の女性も、暇なわけではない…
いつまでも、私に関わっているのは、嫌だろう…
当たり前だった…
私が、
「…どうも、ありがとうございました…」
と、礼を言って、離れようとすると、受付の女性が、
「…寿さん、もしかして、長谷川センセイを、狙ってました?…」
と、聞いた…
私は、あまりにも、予想外の言葉だったので、どう答えていいか、わからなかった…
フリーズしたと、言っていい…
固まったと、言っていい…
そんな私の態度を見て、
「…もしかしたら、図星?…」
と、受付の女性が、笑った…
私は、なんと、答えて、いいか、わからなかった…
だから、曖昧に、笑った…
ただ、愛想笑いを浮かべた…
そんな私に、彼女が、
「…でも、寿さん、長谷川センセイは、競争率が、高いよ…」
と、笑いながら、忠告した…
「…競争率…ですか?…」
実に、意外な話だった…
長谷川センセイは、独身…
当然、女性が、長谷川センセイに憧れても、不思議はない…
長谷川センセイは、長身のイケメン…
ルックスが、悪くないからだ…
私が、考えていると、
「…いえ、競争率というより、ライバルかな…」
と、受付の女性が、続けた…
「…ライバル?…」
「…寿さんとは、タイプの違う美人が、しょっちゅう、訪ねてきた…」
女性が、告げた…
意外なことを、告げた…




