寿綾乃という女 第4部 142
しかしながら、それは、冗談…
真実ではないだろう…
真実=真相ではないだろう…
ユリコが、ナオキに話したのは、単純に、あの団郁馬が、ユリコにとって、大切なひとでも、なんでもないからだろう…
もちろん、真実は、わからない…
真相は、わからない…
そもそも、このナオキは、あの団郁馬を知らないだろう…
どんな顔をしているのかも、しらないだろう…
だから、今、ナオキが、言ったこと…
…団郁馬が、イケメンではないから、裏切った…
は、冗談だ…
しかしながら、それが、的中した…
軽く言った冗談が、的中した…
そういうことだ…
そして、仮に、団郁馬とナオキを比べれば、ユリコは、間違いなく、ナオキを取る…
ルックスは、もちろん、ナオキが、圧倒しているが、それよりも、なんといっても、ナオキは、ユリコの元の夫…
さらに言えば、ナオキには、ジュン君を育てて、もらった恩義があるからだ…
かつて、ユリコが、ジュン君を置いて、失踪したのは、ナオキだったら、ジュン君の面倒を見てくれると、思ったからに違いない…
自分の息子の面倒を、見てくれると、思ったからに、違いない…
ホントは、ジュン君は、ナオキの子供では、なかったが、当時は、わからなかった…
しかしながら、ナオキが、幼いジュン君を溺愛していたのは、たしか…
たしかだ…
それを見て、ユリコは、決断したに違いない…
自分が、いなくなっても、ナオキが、ジュン君の面倒を見てくれると、確信したに違いない…
これが、ナオキが、幼いジュン君を溺愛していなかったら、話は違ったかも、しれない…
ユリコは、ジュン君を置いて、失踪しなかったかも、しれない…
もし、ナオキが、ジュン君を可愛がっていなければ、ユリコが、いきなり、いなくなったら、どうなったかは、わからない…
最悪、施設に送られたかも、しれない…
ナオキは、それをしないだろうと、確信していたから、あのとき、ユリコは、失踪した…
安心して、失踪した(苦笑)…
言葉は悪いが、そういうことだろう…
そして、ユリコが、どう思っているか、ホントのところは、わからないが、ユリコは、ナオキに感謝しているはずだ…
自分が、いなくなっても、真摯に、ジュン君の面倒を見た、ナオキに感謝しているはずだ…
しかし、本音は、わからない…
ユリコが、なにを、考えているかは、ユリコ本人で、なかれば、わからないからだ…
だから、もし、ユリコが、ナオキに感謝していると、したら、あえて、団郁馬の動き…そして、伸明の動きを、ナオキに教えた可能性もある…
いや、
その可能性は、高い…
なにしろ、FK興産は、ナオキの会社…
藤原ナオキが、創業した会社だ…
ナオキにとっては、自分の命の次に大切な会社だ…
その会社が、五井の内紛に巻き込まれる…
それが、わかったから、ユリコは、ナオキに知らせた可能性が、高い…
高いのだ…
私は、思った…
私は、考えた…
だが、それが、どうして、ナオキが、
「…会社を売る…」
と、言う、決断に至ったのか、わからない…
おそらくは、ユリコは、ナオキに、今、ナオキが、置かれている状況を説明した…
それは、言葉を変えれば、ナオキに助け舟を出したということだ…
「…さあ、今、アナタの置かれた状況は、こんな感じ…」
と、教えて、助け舟を、出したということだ…
それが、なぜ、いきなり、五井に会社を売るという話になるのか、わからない…
さっぱり、わからない…
それゆえ、私は、ナオキに、
「…ねえ…ナオキ…話は、わかったわ…でも、どうして、それが、会社を売るという話になるわけ…」
と、聞いた…
直球で、聞いた…
当たり前だった…
ナオキは、あっさりと、
「…売り時だと、思ったからだよ…」
と、答えた…
「…売り時? なぜ、売り時なの?…」
「…おそらく、今が、一番高く、FK興産の株を買ってくれる…」
「…えっ?…」
「…ユリコの話を信じるならば、今、諏訪野さんは、一番、FK興産を、欲している…
おそらく、なにがなんでも、手に入れたいと、願っている…」
「…」
「…だから、売り時…相手が、欲しがっているときが、一番の売り時…交渉次第で、株を高値で、買ってもらえる…」
「…株を高値で…そんな理由で、ナオキ、アナタ、会社を売るつもり?…」
「…いや、そうじゃない…」
「…そうじゃないなら、どうして?…」
「…FK興産は、今、株を半分、五井が、持っている…綾乃さんも、知っているようにね…」
「…それは、わかっているわ…」
「…だから、おそらく、遅かれ早かれ、いずれは、五井に飲み込まれる…五井に、残りの半分の株を売らなくなる羽目になる…」
「…」
「…だったら、今が、チャンス…またとないチャンスだ…交渉次第で、高値で、株を買ってもらうことが、できる…」
ナオキが、言った…
自分の胸中を、私に晒した…
私は、
…なるほど…
と、思った…
…一理ある…
と、思った…
たしかに、今、聞いた話では、伸明は、FK興産を欲している…
だから、いずれ、五井に、FK興産の残りの株を売らなくなるとすれば、今が、チャンス…
株を高く売るチャンスだからだ…
どうせ、いつかは、FK興産は、五井に組み込まれる…
株を買われ、完全に、五井傘下になるとしたら、今が、チャンス…
五井が、欲している今が、チャンスだからだ…
しかしながら、謎がある…
今、ナオキが、言ったこと…
FK興産が、いずれ、五井傘下になるということ…
FK興産が、完全に、五井の傘下に入ること…
うっすらと、私は、思っていたが、やはり、ナオキも、同じ…
私と同じように、考えていたのだろうか?
いずれは、五井の傘下に、入るのが、既定路線だと、思っていたのだろうか?
これは、聞きたくなった…
ナオキに、聞きたくなった…
それゆえ、私は、ナオキに、
「…ねえ、ナオキ、一つ聞いて、いい?…」
と、聞いた…
「…なに、綾乃さん?…」
「…FK興産…やっぱり、ナオキも、いずれは、五井の傘下に入ることになると、思っていたわけ…」
「…それは、たぶん…」
「…つまり、それが、伸明さんの意志…五井家の本家の当主の意志だと…」
「…それは、わからない…」
「…わからない?…だったら、なぜ、FK興産が、五井の傘下に入ると、思ったわけ?…」
「…諏訪野さんの意志だけじゃなく、周りの意志…」
「…周りの意志? どういうこと?…」
「…諏訪野さんに、その気がなくても、周囲の声に逆らうことは、できなくなる…」
「…周囲の声って?…」
「…同じ五井の一族の声だったり、会社のお偉いさんの声だったり…」
「…」
「…独裁者じゃないんだから、誰もが、周囲の声に耳を傾けざるを得ないし、それを、無視するわけにもいかない…」
「…だから、伸明さんも、いずれ、FK興産を、完全に五井の傘下に入れると?…」
ナオキは、首を縦に振って、頷いた…
「…諏訪野さんの意志は、関係ない…いずれは、諏訪野さんの意志に関係なく、FK興産は、五井に飲み込まれる…」
ナオキは、悟ったように、言う…
「…それが、たぶん、運命…既定路線…」
「…そんな、既定路線だなんて!…」
「…FK興産の経営が悪化して、五井に助けて、もらったときから、おそらく、それが、既定路線だったと、思う…」
「…あのときから…」
「…もちろん、こっちは、そんな気は、さらさらない…諏訪野さんにしても、そんな気があったか、あったか、なかったのか、わからない…」
「…」
「…でも、たぶん、いずれ、そうなる…」
ナオキが、言う…
ナオキが、断言する…
そして、その顔は、経営者の顔…
普段、家で、私といっしょにいるときは、見せなかった経営者の顔だった…
経営者の藤原ナオキの顔だった…
そして、そんなナオキの顔を見ながら、考えた…
伸明のことを、考えた…
五井の当主のことを、考えた…
ユリコは、伸明が、今、FK興産を、欲していると、考えたが、肝心の伸明は、どう思っているのだろうか?
それが、わからない…
さっぱり、わからない…
ならば、聞いてみるか?
直接、会わずとも、電話でもいいから、聞いてみるか?
私は、思った…
私は、考えた…
が、
止めた…
いくらなんでも、失礼すぎる…
そう、思ったからだ…
また、たとえ、そう考えていたとしても、それが、伸明が、口にするかと、言えば、疑問だ…
子供ではないのだから、訊けば、答えることはない…
言っていいことと、悪いことがあるからだ…
伸明の立場が、あることだからだ…
だから、そんなことは、考えても仕方がない…
そして、そう、考えたとき、私もナオキも、まだ、お酒を飲んでいないことに、気付いた…
会話に夢中で、一滴も飲んでいないことに、気付いた…
そして、それは、ナオキも、同じだったようだ…
「…綾乃さんの話で、すっかり、酒を飲むのを、忘れていた…」
と、ナオキが、漏らした…
私は、それを、聞いて、
「…冷蔵庫から、お酒を持ってきて、あげる…なにを飲みたい?…」
と、言った…
が、
ナオキは、無言で、首を横に振った…
「…いや、酒は、もういい…」
と、言いながら、首を横に、振った…
それから、一転して、真顔で、私を見た…
ジッと、私を見た…
「…会社は、売っても、いい…」
と、いきなり、言った…
「…でも、綾乃さんは、困る…」
「…困る? なにが、困るの?…」
「…ボクの近くから、いなくなったら、困る…」
真顔で、言った…
私は、なんと言って、いいのか、わからなかった…
まさか、いきなり、そんなことを、言われるとは、思っても、見なかったからだ…
だから、私は、
「…ナオキ…冗談は、やめて…」
と、言った…
「…冗談なんかじゃない!…」
ナオキは、真顔で、続ける…
「…会社は、譲っても、いい…でも、綾乃さんは…」
それ以上、ナオキは、なにも、言わなかった…
私もまた、なんと言っていいのか、わからなかった…
それゆえ、
「…ナオキ…アナタ、酔い過ぎ…お酒を飲みすぎ…」
と、言った…
「…昼間から、お酒を、飲むから、そんなバカなことを、言うの…」
と、私は、叱った…
わざと、叱った…
私が叱ったことで、ナオキは、正気に、戻ったようだ…
照れたように、笑いながら、
「…やっぱり、そうかな…」
と、漏らした…
私は、
「…そうよ…」
と、すぐに、相槌を打った…
「…そうに、決まっている…」
それから、
「…これは、真夏の夜の夢…」
と、付け加えた…
「…真夏の夜の夢…」
「…そう…」
そう、言って、私は、ナオキに、いきなり、キスをした…
なぜ、そうしたのか、わからない…
自分でも、わからなかった…
ただ、自分でも、自分に、驚きだった…
そして、私が、ナオキから、唇を離したとき、ナオキが、
「…これも、真夏の夜の夢…」
と、漏らした…
「…そう…」
私は、答える…
「…だったら、この夢が、もっと、続けば、いい…」
そう、言って、今度は、ナオキが、私にキスをした…
これまで、真剣に会社の売却の話をしていたのに、今度は、一転して、キスを、している…
まったく、なにを、考えているのか、わからない…
まさに、バカな、男と、バカな、女…
が、
それが、ふさわしい…
私と、ナオキに、ふさわしい…
我ながら、そう、思った…
そう、思ったのだ…




