寿綾乃という女 第4部 14
ナオキは、難しい顔をして、すぐには、答えなかった…
それゆえ、私は、待った…
ナオキが、口を開くのを、待った…
それから、少しして、
「…たしかに…」
と、言って、笑った…
苦笑した…
「…たしかに、老け込む歳じゃない…ボクも諏訪野さんも、四十代なのに、まだ、結婚もしていない…」
「…それが、どうかしたの?…」
「…ボクと諏訪野さんと同年代の四十代の人々…男も女も、まだ結婚していないひとが、ごまんといる…これから、結婚しようと思うものが、ごまんといる…」
「…」
「…つまり、そのひとたちにとっては、結婚して、子供を持つことが、人生の第二章だと、思う…」
「…」
「…人生の第二章なんて、ひと、それぞれだ…」
「…」
「…綾乃さんも、同じ…」
「…なにが、同じなの?…」
「…結婚して、家庭を持つ…たとえ、相手が、諏訪野さんじゃなくても、別の男と結婚しても、綾乃さんの人生が、変わる…寿綾乃の人生が、変わる…」
「…なに、バカなことを、言っているの…」
「…いや、バカなことじゃない…」
「…いえ、バカなことよ…」
「…どうして、バカなことなの?…」
「…結婚しようが、離婚しようが、そのひとが、変わるわけじゃない…そのひとの人格が、変わるわけじゃない…」
「…どういう意味?…」
「…会社を変えて、転職しても、そのひとが、変わるわけじゃないでしょ?…」
「…それは…」
「…私に言わせれば、それは、クルマを買い替えるのと、いっしょ…転職しても、ただ、仕事が違ったり、環境が、変わったり、するだけ…そのひとの見た目や性格が、変わるわけじゃない…」
「…」
「…私もナオキも、そして、諏訪野さんも、どこで、なにをしようが、たぶん、人間は、変わらない…あるいは、変われない…ただ、置かれた環境が、違ってくるだけ…」
「…」
「…ナオキ…アナタの女遊びだって、同じでしょ?…」
「…どう同じなの?…」
「…男が、女を口説く…あるいは、女が、男を口説く…でも、その後、やることは、いっしょでしょ?…」
「…それは…」
「…それと、同じ…」
「…どう同じなの?…」
「…なにをしようが、ナオキは、ナオキ…藤原ナオキだっていうことは、変わらない…」
「…」
「…自分が、自分であることは、変わらない…ほかの誰かに、なれるわけじゃない…」
「…綾乃さん、達観しているね…」
「…たしかに、そうかもしれないわ…」
「…」
「…でも、これは、私の生まれ持った性格のせいも、あるけど、この病気のせいも、あると、思う…」
「…どういう意味?…」
「…今もだけれども、こうして、病院のベッドの上で、寝ていると、いろいろ、思うところがあるの…」
「…」
「…少し、おおげさに、言えば、あと何年生きるのか? あと何年、生きれるのか?…」
「…」
「…そう、思うと、生きている間にできること…やりたいことを、考える…決して、自分じゃ、できないことは、考えない…あくまで、できること…それだけを考える…」
「…」
「…たぶん、私とナオキの差はそれね…残された時間の違い…それが、いつも、私の頭の中にある…強迫観念のように、頭の中にある…その違い…」
「…」
「…残りの人生の中で、できることの中で、やりたいこと…それだけを考える…」
「…綾乃さん、考え過ぎだよ…」
「…考え過ぎなんかじゃない!…」
「…」
「…考え過ぎなんかじゃない!…」
私が、強く言うと、ナオキが、黙った…
それ以上、なにも、言わなかった…
ただ、黙って、私を見た…
私を慈しむように、見た…
私を心の底から、愛しているように、見た…
それから、
「…綾乃さん…」
と、言った…
「…なに?…」
「…綾乃さんが、ボクより十歳は、若いのに、ボクより、はるかに年上に思えるのは、綾乃さんの性格もあるけれど、綾乃さんの言う通り、その病気も関係していると、思うよ…」
「…やっぱり、そう思う?…」
「…人生の残り時間…」
「…」
「…綾乃さんは、ボクより、ずっと早く、この世から、おさらばすると、思っているでしょ?…」
「…」
「…でも、それは、違う…」
「…どう違うの?…」
「…例えば、ボクが、今、これから、この病院を出ても、クルマにひかれて、死ぬことだってある…」
「…」
「…どんな人間も、一寸先はわからない…もしかしたら、綾乃さんの方が、ボクや諏訪野さんより、長生きするかも、しれないよ…」
「…そんなことは、ないわ…」
「…可能性は、低いかも、しれないけれど、ないわけじゃない…」
「…」
「…でも、だから、人生は、面白いのかも、しれないよ…」
「…どういう意味?…」
「…人生は、一寸先は闇…誰にも、わからないってこと…」
「…」
「…ボクだって、こんなに成功するとは、夢にも、思わなかった…これは、予想もしていなかった…」
「…」
「…だから、わからない…ボクも綾乃さんも、これから、どうなるか、わからない…」
「…」
「…そう思えば、人生を楽しめる…違う?…」
「…」
「…綾乃さんも、あまり、考え過ぎないことだ…明日、どうなるか、考えても、その通りにならないことだって、いっぱいある…」
ナオキが、言った…
それから、まもなく、ナオキは、この病室から、去った…
ナオキと、話しながら、気付いたこと…
最初は私が、ナオキに説教していたが、いつのまにか、最後には、ナオキに私は、励まされていた…
病身の私を励ましていた…
それが、驚いたというか…
いつのまにか、攻守逆転していた…
普段の生活では、あまりなかったことだった…
これは、ひょっとして?
ひょっとして、これまでの、普段の生活でも、ホントは、ナオキは、私に打ち負かされない…
わざと、いつも、私に負けたふりをしていた…
あるいは、いつも、私に花を持たせていた…
そう、気付いた…
なんと、言っても、ナオキは、大卒…
有名大学卒…
かたや、私は、高卒…
決して、頭がいいわけではない…
だから、それを、思えば、ナオキが、議論で。私に負けるわけはない…
学生時代、がむしゃらに、勉強したことなど、一度もない私に、議論で負けるわけは、ない…
そもそも、学生時代、勉強が、できれば、寿綾乃にならなかった…
矢代綾子のまま、生きただろう…
それは、なぜか?
それは、やはり、他人様より、勉強ができれば、自分に自信を持つ…
その結果、自分ではない、他の誰かに、なりすますことなど、考えもしなくなる…
自分に、自信を持っているからだ…
だから、誰かに、なりすますことなど、できない…
誰かになりすまことは、それまでの自分を否定することになるからだ…
私は、他人様より、美人に生まれた…
が、
それは、努力ではない…
努力して、自分が、手に入れたものではない…
それが、勉強とは、違う…
スポーツとも、違う…
美人であることに、自信を持っていても、それは、自分が、努力して、手に入れたものでは、ないからだ…
だから、違う…
だから、矢代綾子を、捨てて、寿綾乃になりすますことが、できたのでは?
今さらながら、そう、気付いた…
もっとも、そう、気付いたのは、今、32歳になったから、だとも、思う…
歳をとってきたからだとも、思う…
母が亡くなり、その遺言で、従姉の綾乃になりすましたときには、なにも、考えなかった…
自分でも、なにも、考えず、母の言う通りにした…
が、
それは、今、思えば、若いから…
若い=子供だからだったからだろう…
さすがに、三十を過ぎた今とは、違う…
当たり前のことだ…
私は、今さらながら、思った…
私は、今さらながら、考えた…
退院は、それから、二週間後だった…
自分でも、ビックリするぐらい、回復した…
回復した原因は、若さ…
私の年齢だった…
32歳で、軽いとはいえ、脳梗塞になるものは、少ない…
だが、なっては、いても、重症化するものは、少ない…
例に挙げれば、以前も例に挙げた、巨人の終身名誉監督の長嶋茂雄さんが、有名だが、長嶋さんが、脳梗塞で倒れたのは、七十代…
私より、四十歳は、歳をとっている…
だから、重症化した…
が、
長嶋さんには、申し訳ないが、これが、若ければ、長嶋さんもまた、脳梗塞が、重症化しなかったことは、間違いない…
私は、三十代だから、思ったより、軽かった…
そういうことだ…
その日、私は、ひとりぼっちで、退院した…
五井記念病院を退院した…
正直、体調が、優れないわけでは、なかったが、心が、落ち込んだ…
やはり、こういうときに、ひとりは、寂しい…
ひとりぼっちは、寂しい…
私は、正直、ナオキが迎えに来るものと、思い込んでいた…
が、
来なかった…
きっと、仕事が忙しいのだろう…
次に考えたのは、マミさんだった…
伸明の妹のマミさんだった…
五井一族で、ただひとり、私と気が合うマミさんだった…
が、
彼女もまた、来なかった…
私の退院の日に、迎えに来なかった…
彼女もまた、仕事が、忙しいのだろう…
そして、最後に思ったのは、伸明…
五井の若き当主である、諏訪野伸明だった…
伸明もまた、私の退院の日に来なかった…
一度、入院していた私のお見舞いに来てくれたが、退院の日には、来なかった…
まさか、私の退院の日の連絡がいかなかったわけでは、あるまい…
私が、入院していたのは、五井記念病院…
いわずと知れた、五井グループの病院だ…
病院のトップである、理事長は、五井一族が、務める…
それゆえ、当然、五井の当主である、伸明にも、私の退院の日の連絡は、いっていると、思う…
にもかかわらず、来なかった…
伸明もまた、私の退院の日に、やって来なかった…
正直、落ち込んだ…
体力、いや、体調以上に、落ち込んだ…
やはり、ひとりは、寂しい…
退院の日に、誰も、迎えに来ないのは、寂しい…
これは、正直、落ち込んだ…
自分でも、思ってみないほど、落ち込んだ…




