寿綾乃という女 第4部 100
私は、呆然と、そのニュースを見ていた…
もはや、なんの感慨も、なかった…
もはや、私の力の及ぶところではない…
それだけが、わかった…
己の無力さがわかった…
嫌と、言うほど、わかった…
夜になって、ナオキが、家に帰って来た…
そのときに、開口一番、
「…参ったよ…」
と、ナオキは、呟いた…
そして、私は、無言で、ナオキを見た…
ナオキは、驚いた顔で、
「…どうしたの? 綾乃さん…どうして、なにも、言わないの?…」
と、聞いてきた…
私は、黙って、テレビをつけた…
そこでは、偶然というか…
昼間、伸明が、言った、ナオキと、伸明の結婚のニュースが、流れていた…
それを、見ながら、
「…言いたいことは、これでしょ?…」
と、言った…
力なく言った…
ナオキは、拍子抜けしたように、ニュースを見た…
黙って見た…
それから、ナオキは、急いで、テレビのリモコンを切った…
「…全部、ウソだ!…大嘘だ!…」
と、言って、テレビを切った…
が、
私は、冷静に言った…
「…これは、ホント…」
と、言った…
力なく、言った…
「…ホント? なにが、ホントなの? …綾乃さん?…」
私は、それに、答えるのも、億劫だった…
ただ、
「…これは、ホント…まもなく、ホントになる…」
と、だけ、言った…
「…どういうこと? 綾乃さん?…」
「…今日の昼間、伸明さんから、電話が、あったのよ…」
「…諏訪野さんから?…」
「…そう…」
「…それで、どうしたの?…」
「…今、ニュースで、流れたことと、同じことを、言った…」
「…えっ?…」
「…ナオキと、伸明さんの結婚のことを、言った…」
「…だって、諏訪野さんも、ボクも、結婚なんて、一ミリも…」
「…なるのよ…」
「…なる? どういう意味?…」
「…ナオキも、伸明も、結婚するってこと?…」
「…ちょっと、待ってくれ! …綾乃さん、ボクは、誰とも、結婚する気は、ないよ…」
「…アナタはね?…」
「…どういう意味?…」
「…ナオキ…アナタも、伸明さんも、決婚したくなくても、結婚することになるの…」
「…どうして、結婚したくなくても、結婚することになるの?…」
「…五井になにか、起こっているのよ…」
私は、説明した…
「…それに、伸明さんも、抗えない…」
「…えっ?…」
ナオキは、絶句した…
「…どういうこと?…」
「…先日、諏訪野昭子さんと会ったの…ナオキに、言ったっけ?…」
「…諏訪野昭子さんって?…」
「…伸明さんのお母様…伸明さんの実母…」
「…」
「…彼女が、私に会いにやって来た…」
「…どうして、綾乃さんに、会いに来たの?…」
「…わからない…ただ…」
「…ただ、なに?…」
「…いえ、話が長くなりそうだから、ナオキ…さっさと、お風呂に入って…話は、それからにしましょう…」
私が、ナオキに、言うと、ナオキも、
「…たしかに、長くなりそうだな…」
と、言って、部屋から、消えた…
私は、ナオキの背中を黙って、見た…
それから、ナオキが、お風呂に入る音が、聞こえてきた…
私は、なんと言っていいか、わからなかった…
ただ、もしかしたら、この平穏が、なくなる…
いや、
もしかしたらではなく、確実に、この平穏が、なくなると、思った…
それが、ただ、不安だった…
考えても、仕方がないが、不安だった…
こんな不安に、襲われたことは、ない…
かつて、一度もない…
なぜ、ないのか、考えた…
一つには、私が、歳を取ったから…
おそらく、それが、一番の理由…
田舎から、一人で、都会に出てきて、蜘蛛の糸より細い、縁の薄い遠い親戚を、頼った…
今、思えば、無茶苦茶…
まさに、無茶苦茶な行動だ(笑)…
計画もなにも、あったものじゃない!…
だが、それができたのは、若さ…
若さに、他ならない…
若さゆえに、できた行動…
考えもなければ、迷いもない…
ただ、思い込みのみ…
一点の思い込みのみ…
それに、向かって、行動する…
それが、できた…
あの頃は、できた…
が、
今は、できない…
それは、なぜか?
それは、若さがなくなったから…
それゆえ、少しは、考えるように、なったから…
だから、できない…
そして、もう一つ…
それは、私が、持ち過ぎたから…
お金持ちになりすぎたから…
だから、できない…
お金が、あるから、再び、お金のない生活に戻りたくない…
今の生活を失いたくない…
だから、できない…
昔のようには、できない…
たぶん、昔はできた…
子供だから、できた…
若いから、できた…
なにも、考えないから、できた…
それに、尽きる…
それに、尽きるのだ…
私は、ナオキが、お風呂から、出てくるまで、ずっと、メリーゴーランドに乗っているように、同じことを考えた…
メリーゴーランドに乗っているように、ずっと、同じことを、考え続けた…
そして、ようやく、ナオキが、お風呂から、出て来た…
私は、考えるのを止めた…
それまで、ずっと、座っていた、ソファから、立ち上がり、
「…ナオキ…やっぱり、今夜も、ビールにする?…」
と、聞いた…
ナオキは、
「…飲めれば、なんでもいい…冷たければ、なんでもいい…」
と、答えた…
私は、
「…だったら、ビールで、いいわね…」
と、言いながら、冷蔵庫から、缶ビールをひとつ、取り出した…
そして、私も、ビールを一つ取り出した…
それを、見て、ナオキが、
「…綾乃さんも、飲むの?…」
と、驚いて、聞いた…
私は、
「…たまにわ…」
と、笑って答えた…
「…カラダに、悪くないの?…」
ナオキが、心配そうに、聞く…
私は、
「…悪いかも、しれないけれども、一本だけだから…」
と、これも、笑って答えた…
それから、
「…なんだか、私たちって、真逆ね…」
と、笑って言った…
「…どういう意味?…」
と、ナオキ。
「…だって、こういうときは、普通は、女が、男を心配して、言うものよ…でも、今は、ナオキが、私を心配している…」
私が、笑いながら、言うと、ナオキも、笑った…
「…たしかに、綾乃さんの言う通りだ…」
と、言って、笑った…
「…でも、今だけじゃない…」
「…今だけじゃない?…」
「…いつもでしょ?…」
ナオキが、笑って言う…
私は、苦笑するしか、なかった…
私は、持ってきたビール二本をテーブルの上に置いた…
それから、一本をナオキに、もう一本を私の手に持ち、互いに、ビールを開けた…
「…乾杯!…」
私は、一人で、言って、高く掲げたビールを飲んだ…
それから、
「…おいしい…」
と、言った…
「…おいしい…」
と、ナオキに、言った…
わざと言った…
なぜ、わざと言ったのか?
それは、もしかしたら、今、ナオキとこうして、二人きりで、いることが、まもなく不可能になる…
そう、思ったからだ…
だから、言った…
わざと、言った…
私が、おいしそうに、缶ビールを飲むのを見て、ナオキも、また缶ビールを開けて、一口飲んだ…
「…うまい…」
ナオキが、言う…
「…やっぱり、風呂上りには、ビールが、一番だ…」
ナオキが、しみじみ言う…
私も、その意見に、頷いた…
「…たしかに…」
と、言って、頷いた…
それから、ナオキは、すぐに、真顔になった…
「…綾乃さん、さっきの話だけれども…」
と、真顔になって、言った…
私は、待ってましたと、ばかりに、話し出した…
「…五井になにか、起こっているのよ…」
と、言って、話し出した…
「…なにかって、それは、なに?…」
ナオキが、聞く…
ひどく、当たり前に、聞く…
私は、
「…最初は、和子さんの入院だと、思った…」
と、切り出した…
「…和子さんって、諏訪野さんの叔母様…五井の女帝?…」
「…そう…最初は、あの五井の女帝が、倒れて、入院したから、五井家内のパワーバランスが、崩れたからと、思った…」
「…パワーバランスが、崩れた?…」
「…ナオキも、知っているように、伸明さんも、五井東家出身でしょ? 本家に生まれたけれども、伸明さんのお母様は、東家出身だから…」
「…」
「…だから、今は、東家が、五井本家を仕切っている…本家を牛耳っている…それが、和子さんが、倒れたことで、そのパワーバランスが、崩れた…五井の絶対権力者が、倒れたことで、今の本家に、不満を抱く、他の分家が、動き出したと、思った…」
「…違うの?…」
「…たぶん、違う…」
「…どうして、違うと、綾乃さんに、わかるの?…」
「…それは、今日、昼間の伸明さんの電話…」
「…諏訪野さんからの電話?…」
「…それで、今日、自分と、ナオキの結婚の情報が、流れると、教えてくれたの…」
「…だから、ボクが、言う前に綾乃さんは、知っていたわけだ…」
「…そういうこと…」
「…それで、わかったの…」
「…なにが、わかったの?…」
「…伸明さんは、今、抗えないと、わかったの?…」
「…抗えないって?…」
「…逆らえないってこと?…」
「…諏訪野さんは。誰に逆らえないの?…」
「…それは、わからない…でも、誰かに、言わされている…あるいは、操られている…」
私は、言った…
絶望的に、言った…




