第七話 坂口方 座布団 渡 六
八月二十四日、火曜。
名刺は、毎日のように配っている。それなのに、鞄の中はいっこうに減らない。どこかで捨てられるたびに七枚になって湧いてくるからで、差し引きすれば、むしろ少しずつ増えている。
それでも客は来る。名刺を握った人が、看板の読めない店にやってくる。厄除けが売れ、相談が入り、金が回る。忘れられているという事実だけが、そのままそこにある。
その日の客は、一階でバーをやっている人だった。
名前は篠原さんといって、五十くらいの、声の低い女性だった。うちの名刺を、常連の誰かからもらったという。
「今泉のビルなんやけどね」
四階建て。一階が篠原さんの店で、二階が事務所、三階が空き、四階が学習塾。屋上には給水塔と、使われていない物干し場がある。
「夜中に、階段ば上がっていく人がおると」
外階段は店の裏手にある。仕込みをしていると、頭の上を人が上がっていく足音が聞こえる。テナントの誰でもない。塾は九時で閉まるし、事務所は夜には誰もいない。
「上がって、しばらくして、降りてくると。何回もあるとよ」
「顔は見たですか」
「見た人もおる。知らん人やった、て。うちのお客さんが、階段で三回すれ違うとる」
「怪我した人は」
「おらん」
「落ちた人も」
「おらん」
俺はそこで少し黙った。
誰も落ちていない。誰も怪我をしていない。夜中に知らない人が屋上に上がっては降りていくだけだ。
安藤さんなら断る。まだ何も起きていない。起きていないものは祓えない。警固の空き家で、それを思い知らされたばかりだった。
「篠原さん。誰も落ちとらんとなら、それは事件やなか──」
言いかけて思った。あれも、数多ある内の一件に過ぎない。また、一件に囚われて間違おうとしているのではないか。
「……かもしれんです」歯切れ悪く、付け足した。
「知っとる」と篠原さんは言った。
こちらを見て、一度だけ、目を伏せた。
「けど、うちの前ば通る人が、みんな上ば見上げるとよ」
その一言で、俺は受けた。
誰も落ちていないが、通行人が見上げる。見上げるということは、上に何かがあるということだ。目印の札は、差が出なければ動かない。人の目は札より正直なときがある。
調査三日で二万、退治まで含めて十万。篠原さんは即決して、封筒から一万円だけ出して、残りは店が閉まったあとでよかね、と言った。
その日の夕方、俺は今泉に行った。本家は表の店に残した。
昭和の商店ビルだった。タイル張りで、外階段は鉄骨で、踊り場に室外機が並んでいる。壁の看板は上から三度ばかり塗り替えられていて、いちばん下の層に、消えかけた「洋裁」の文字が透けていた。
外階段を上がった。四階の先に、まだ上がある。屋上だ。
鉄の扉に鍵はかかっていなかった。
開けると、風が抜けた。
給水塔。室外機。そして、コンクリートの床に、鉄パイプの櫓が一つ残っていた。物干し場だ。錆びて、途中で折れて、それでも四十年ぶんそこに立っている。
手すりはなかった。
正確に言えば、いまはある。腰の高さの、後付けの鉄柵が縁を囲っている。ただし、その柵はコンクリートに後から穴を開けて立ててあって、穴の跡がもう一列、内側に残っていた。柵が無かった時代があるのだ。
俺は目印の札を三枚出して、離して貼った。給水塔の脚に一枚。物干しの櫓に一枚。扉の内側に一枚。
二時間置いて、戻った。
櫓に貼った札が、下から黄ばんでいた。給水塔の札は縁側から。扉の札は、床のほうから。
三方向とも、指しているのは同じ場所だった。
屋上の南西の角。柵の内側、古い穴の列のあたり。縁だ。
黄ばみ。焦げでも、濡れでも、裂けでもない。場が覚えている色だ。裂けが出ていないから、こちらに向いてもいない。
色は読める。読めないのは、この色がこの先どう動くかのほうだ。それを見る型は、教わる前に俺が出ていった。
篠原さんに、屋上のことを訊いた。
「昔、なんかありましたか」
「うちが来る前の話やけどね」と篠原さんは言った。「あのビル、もとは洋裁屋やったとよ。二階と三階が仕事場で、四階に女の子たちが住み込んどったて」
住み込み。
「夜になると、みんな屋上に上がって涼んどったらしいよ。クーラーなんかなかろうもん。洗濯物ば取り込んで、そのまま縁に座って、足ば垂らして」
柵のなかった時代の話だ。
「何人くらい」
「知らん。けど、そこそこおったっちゃない? 昔の洋裁屋は、住み込みばっかりやったけん」
その晩、俺は屋上で待った。
十時。誰も来ない。十一時。塾の明かりが消えて、階段の電球が一つ切れた。十二時。篠原さんの店から、笑い声が二回だけ上がってきた。
一時を回ったころ、下で鉄の音がした。
誰かが、外階段を上がってくる。
足音は速くも遅くもない。用事があって歩く速さだった。俺は給水塔の陰に寄って、扉を見た。
開いた。
入ってきたのは、五十くらいの男だった。半袖のシャツ。鞄を肩から下げて、ネクタイをゆるめて、明らかに会社帰りの格好で、そこだけが場違いだった。
男は、俺を見なかった。
まっすぐ、南西の角へ歩いていく。
途中で立ち止まって、鞄を床に置いた。それから靴を脱いで、揃えた。かかとを合わせて、爪先を縁のほうへ向けて、丁寧に置いた。
その手つきに、迷いはなかった。
支度をする人の手つきだった。
「こんばんは」と俺は言った。
男は振り向かなかった。聞こえていないのではない。肩が少し動いたから、聞こえてはいる。
南西の角に、何かがいた。
姿はない。輪郭もない。ただ、そこだけ空気が座っている。縁に腰かけて、足を垂らして、こちらを見ずに、上がってきた人を待っている。四十年ぶん、そうやって待っている。
悪意は感じなかった。
感じなかったが、男は柵に手をかけていた。
「あんた、そこは座るとこやなかですよ」
俺の声で、男は初めてこちらを見た。
困った顔をしていた。この前、うちの客用の椅子に座ってしまったサラリーマンと、同じ顔だった。なんでここにおるっちゃろ、という顔。
「……あれ」
男が言いかけて、足が動いた。
柵をまたぐ動きだった。丁寧で、静かで、決心した人間の動きではなかった。座ろうとしていた。昔そこが座る場所だったから、そこに座ろうとしていた。
俺は駆け寄った。
間に合わない距離ではなかった。三歩か四歩だ。伸ばせば腕が届く。
届いて、どうする。
五十がらみの男を、片手で柵の内側へ引き戻す。もつれる。俺も一緒に落ちるかもしれない。落ちなくても、この人は明日の晩また上がってくる。呼んでいるものが、まだそこにいるからだ。
その一瞬で、俺は二つのことを同時に考えた。
膝をついて帳面を開けば、あれを引き取れる。呼ぶものがいなくなれば、この人は二度と上がってこない。それが仕事だ。金をもらう約束もしている。
だが、書いている間に、この人は落ちる。
俺は男の腕を掴んだ。
掴んで、引いた。男は驚いて、体をひねって、俺の手を振りほどこうとした。そういうときの人間の力は、思っているより強い。
振りほどかれた。
男の体が、柵の向こう側へ流れた。
落ちる、と思ったとき、俺はもう階段のほうへ走っていた。
なぜ走ったのか、走りながら分かった。
七行目に、書いた覚えのない一行があった。渡 壱。あれを書いたのは帳面で、帳面は、出せることを知っていた。
やり方は書いてなかった。だが、作法が二つあるはずがない。受けるときと同じだ。祝詞、名乗り、記帳。変わるのは申し立てだけでいい。
外階段を、俺は数えながら降りた。
七段。踊り場。七段。四階。七段。踊り場。七段。三階。数えるな、と自分に言った。数える者のいる場所に、ああいうものは出る。それでも数えた。数えていないと、脚がどこにあるか分からなかった。
男は、まだ落ちていない。人が落ちた時の音は知っている。大きな水風船を叩きつけたような、耳障りな音だ。
柵にしがみついているのか、縁に立ったままなのか。それは分からない。分からないまま、俺は一階の裏手に出て、南西の角の下に回り込んだ。
アスファルト。自転車が二台。エアコンの室外機。
俺は膝をついて、帳面を開いた。
筆ペンの蓋を、口で咥えて抜いた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお渡しします」
筆を下ろす。
坂口方 座布団
そこで、手が止まった。
いくつだ。
四階。落ちてくるのは五十がらみの男。一人ぶんの体を受けるのに、座布団が何枚要る。
九、と書きかけた。十、と書きかけた。多いほうがいい。多ければ多いほど、この人は助かる。
書けば出る。書いた数だけ出る。
書いた数が、うちにある数を超えたら——
足りないぶんを、帳面が別のもので埋める。何で埋めるかは、俺が決めるのではない。
六枚しかない。
俺は書いた。
坂口方 座布団 渡 六
空気が、ぼんと鳴った。
目の前に、座布団が六枚。積み上がったのではなく、落ちてきたのでもなく、そこに在るという顔で、六枚が重なっていた。坂口の家の二階で、崩れかけて積んであったものだ。柄は色褪せて、角が丸くなっている。
俺は両手で抱えて、南西の角の真下へ放った。
放って、二歩下がった。
音がした。
布団を叩くような音と、それより固い音が、ほとんど同時に鳴った。
あの音ではなかった。
男は、座布団の上と外に、半分ずつ落ちていた。
息はあった。左の腕が、あってはならない角度に曲がっていた。目は開いていて、俺を見て、それから空を見た。
俺は救急車を呼んだ。
それから、篠原さんの店に走った。
そのあとのことは、順番がよく思い出せない。救急隊が来て、警察が来て、俺は事情を訊かれた。屋上で何をしていたのか。この人とはどういう関係か。この座布団は何なのか。
最後の質問がいちばん困った。
置いてありました、と答えた。嘘ではない。あそこに在るという顔で、置いてあった。
男は助かった。
左腕と肋骨が三本と、腰の骨を折って、しばらく入院することになった。四階から落ちて、それで済んだ。
救急隊が引き上げたあと、俺は座布団を集めた。
五枚しかなかった。
一枚は、血が染みたということで、警察が持っていった。
俺は残りの五枚を抱えて、路地の縁に座り、帳面を開いた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
坂口方 座布団 受 五
書いてから、しばらくその行を見ていた。
六枚出して、五枚戻した。一枚は、この街のどこかにある。証拠品の袋に入って、番号を振られて、棚に並んでいる。
勘定は合っている。合っているのに、どうにも据わりが悪かった。
うちの在庫は、五枚になった。
夜が明けてから、篠原さんに報告した。
「屋上には、まだおります」
「取ってもらえんかったと?」
「取れませんでした」
言い訳はしなかった。膝をついて書けば取れた。書かずに階段を降りたのは俺だ。
「今日のうちに、もう一度上がらせてください」
篠原さんは首を振って、外を指した。外階段の四階の上り口に、制服が一人立っている。朝から現場の検分が入っていて、屋上には誰も上げないという。
「なら、明日にでも」
篠原さんは何も訊かずに、封筒を出してきた。調査三日ぶんの二万円だという。俺は一万しか受け取っていないので、残りの一万だと。
「受け取れません」
「なんで」
「仕事ば済ませとらんとです」
押し問答になりかけて、篠原さんが先に折れた。折れた顔ではなかった。
「あんた、下におったとやろ」
「はい」
「うちの店の真裏で、あの音がしたとよ。あたし、包丁ば落としてしもうた」
それから、こう言った。
「あの人、生きとうとやろ。なら、あんたは仕事ばしたとよ。うちの仕事やなかっただけたい」
うちの仕事ではなかった。まったくそのとおりだった。
帰りは歩いた。今泉から渡辺通りまで、大した距離ではない。
歩きながら、俺は一晩ぶんの手順を数え直していた。
階段を降りるのに、五十六段と踊り場が四つ。膝をついて、蓋を抜いて、祝詞をあげて、名乗って、品名を書いて、数を書く。全部で、たぶん四十秒。
四十秒? 人が落ちるのに要る時間は、せいぜい五秒だ。
昨日それが間に合ったのは、あの人が落ちる前に俺が走り出したからで、走り出せたのは、あの人が落ちると決めてかかったからだ。決めてかかって、外れていたら、俺は誰もいない路地に座布団を六枚並べた馬鹿になっていた。
次も同じ賭けをするのか。
しないで済む方法が、一つある。
先に書いておけばいい。
札というのは、そういう道具だ。祝詞のあとに続く長い申し立てを、一枚に畳んでおくから、現場では一言で足りる。留めも祓いも目印も、みんなそうやって作ってある。だから紙代だけではなく、特別な墨と、込める手間の代金が乗る。
同じことを、渡しでやればいい。
名乗りと、品名と、数まで込めた札を、あらかじめ作っておく。現場では祝詞だけあげて、それを使う。記帳は——たぶん、帳面が勝手に立てる。あいつは自分で書ける。
伝票だ。
商売人が先に切っておくものと、やることが同じだった。
その日の午後、俺は札を一枚出して、机に向かった。
名乗り、申し立て、記帳する。その手順を、一枚に畳んだ札を書く。
書けるのは、うちにある数までだ。座布団は五枚。だから伝票にも五と書く。多く書けば、その差は帳面が別のもので埋める。
伝票が一枚できた。この一枚に二時間がかかったが、次からは名乗り、申し立てる部分まで書いた札を増やして、続きを書けばいい。
短い祝詞を唱えた。八文字。申し立てはしない。代わりに、札を帳面に添えた。
空気が膨らむような感覚がして、次の瞬間には目の前に座布団が五枚積まれていた。ここにずっとありましたよ、という顔で。
帳面を開く。
最後の行が現れていた。
坂口方 座布団 渡 五
書いた覚えはない。こいつが自分で書いた。
添えた札を見た。何年も日を浴び続けたように色が抜けて、真っ黄色になっている。込めた文字はどこにも読めない。名乗りも、品名も、数も、全部抜けていた。
これは効いた側の色だ。一度使えば、こうなる。
成功だ。
何もかもわからないこの帳面のことが、少しわかった気がした。
翌日の昼、今泉に行った。
外階段の下に軽トラックが停まっていて、荷台に鉄柵の切れ端が積んであった。見上げると、四階と屋上のあいだの踊り場に作業服の男が二人いる。屋上へ出る扉の前で、電動ドライバーの音がしていた。
一階に降りて、篠原さんに訊いた。
「大家さんが決めたとよ」と篠原さんは言った。「屋上は誰も入れんごとする、て。扉に錠ば付けて、階段にも柵ば渡すそうたい」
「篠原さん。俺、まだ上に用があるとです」
「分かっとる」
「なんとかならんですか」
「ならんよ」篠原さんは、こちらを見ないで言った。「うちは店子やけん。鍵も持っとらんし、誰ば上げるか決める権利もなか」
「大家さんに、口ばきいてもらえんですか」
篠原さんは、はじめて笑った。笑ってから、すぐ真顔に戻った。
「あんた、なんて言うと? うちの店の上に人ば呼ぶもんの座っとるけん、鍵ば貸してくださいち? 人の落ちたばっかりのビルで?」
言えなかった。
歩道に手書きの看板を出して、名刺を配って歩いている男が、人の持ちビルの屋上を開けてくれと言う。理由は、そこに人を呼ぶものが座っているから。
通してもらえる筋合いが、うちにはない。
篠原さんが、また封筒を出してきた。
「もう、どげんもならんとやろが。受け取らんね」
「受け取れません」
「あんた、これで一銭にもならんとよ」
「なりません」
篠原さんは封筒を引っ込めなかった。俺も手を出さなかった。しばらくそうしていて、先に篠原さんが仕舞った。
「気の変わったら、いつでん来て」
店を出て、もう一度上を見た。電動ドライバーの音が、まだしていた。
天神まで歩いて帰った。
呼ぶほうは、何も変わらない。上がる先が閉まるだけだ。呼ばれた人間はこれからも、用がないのに階段を上がって、開かない扉の前まで行って、降りてくる。
止め方は分かっている。膝をついて、蓋を抜いて、祝詞をあげて、名乗って、品名を書いて、数を書く。四十秒だ。
あの晩は五秒が足りなかった。今度は鍵が足りない。足りないものが入れ替わっただけで、届かないことは何も変わっていない。
病院にいる男のことを、俺は一度考えた。
それから、扉の向こうにあるもののことを、もっと長く考えた。
人を呼ぶもの。呼ばれた人間は、理由も分からず、そこへ行く。
うちの店は、いま、誰にも見つけてもらえない。
看板を黒く塗り直しても読まれない。名刺を配って歩いて、やっと思い出してもらえる。
あれを引き取っていたら、どうなっていた。
不謹慎だとは、分かっていた。分かっていたが、考えずにはいられなかった。
屋上には、まだあれがいる。
篠原さんの店の残りの一万円は、まだもらっていない。




