第八話 入江クリーニング 預り物 受 三十八
朝の支度は二人でやる。折りたたみテーブルを広げて、看板を立てて、厄除けの札を並べる。それが済むと本家は一本裏の路地へ回っていく。同じ顔の男が同じ手つきで札を数えて、それから別々の歩道に座る。
その日は本家がまだ表にいて、鞄の中で震えている電話に先に気づいた。
「元祖天神大上屋です」
こいつは電話に出るとき、必ず屋号を全部言う。頭の二文字を自分で塗り潰した男が、名乗るときだけは元祖と本家の区別を口にしない。
少し聞いて、こちらへ差し出した。
「元祖さん宛です」
相手は男の人だった。声からして四十を過ぎたくらいだ。
「すんまっせん」といきなり謝られた。「これ、何屋さんですか」
「拝み屋です」
「拝み屋」
「怪異の引き取りと、厄除けと、ご相談ば承っとります」
向こうが黙った。財布から名刺が出てきたのだという。うちの名刺だ。こないだ天神に寄ったときにもらったらしい。もらったところまでは覚えていて、なぜもらったのかが出てこない。
「気味の悪か話やなかですか。自分で財布に入れとって、自分で分からんとです」
俺は何も言わなかった。言えることが無かった。
「それで、ご用件は」
「親のことです」
唐人町でクリーニング屋をやっている。七十を過ぎた夫婦二人で回している。母親が膝を悪くしてから、もう店は無理だと親戚じゅうが言っている。息子は所帯を持って別に住んでいて、店を畳んで一緒に住もうと何度も言っているのに、両親が動かない。
「うちに部屋はあるとです。金も出すち言うとります。それでも動かんとです」
「なんでですか」
「夜、店で音のする、ち言うとです」
息子は音を信じていなかった。信じていないことを、電話口で二度言った。ただ、親が動かない理由がそこにあるらしいので、片づくものなら片づけたい。
「そげな不気味な店に、いつまでおるとか、て言ったら、怒られました」
「見に行くだけで五千円いただきます。引き取ることになったら、そこから別にいただきます」
「先に言うとですね」
「先に言います」
地下鉄で三駅、唐人町で降りた。
商店街は天神とは時間の流れ方が違う。アーケードの下に八百屋と魚屋と履物屋が並んでいて、昼過ぎだというのに人が少ない。シャッターの下りた間口が、二軒に一軒はある。
入江クリーニングは、その並びの真ん中あたりにあった。間口は二間もない。ガラスの引き戸に白い字で屋号が入っていて、字の縁が剥げている。二階が住まいらしく、窓に洗濯物が干してあった。
引き戸を開けると、金具が鳴った。
奥から出てきたのは小柄なおばあさんだった。右足をかばう歩き方をしている。俺が名前を言うと、ああ、と言って頭を下げた。息子から話は行っていた。
カウンターの向こうに立って、はじめて壁が見えた。
天井近くのパイプから床すれすれまで、ビニールを掛けた服が吊るしてある。壁一面だ。コートがある。喪服がある。学生服がある。詰襟がある。子どものサイズの白いワンピースもある。
どれも傷んでいなかった。ビニールだけが新しい。
「これ、みんな預かりもんですか」
「そうです」
「取りに来なさらんとですか」
「来なさらんとですよ」
奥から旦那さんが出てきた。
「いちばん古かとは、どのくらいですか」
「三十年です」旦那さんが言った。「わたしが継いだ年に預かったとが、まだそこにあります」
季節が変わるたびに掛け替えるのだという。ビニールを外して、埃を払って、掛け直す。それを三十年やってきた。だから傷んでいない。
「何点あるとですか」
奥さんは考えなかった。
「三十八点です」
数えていないのが分かった。触っているから知っているのだ。掛け替えるたびに手が通っているから、勘定するまでもなく出てくる。
俺は数を数えるのが仕事だと思っている。その現場に来て、いきなり数を渡された。
音の話になった。
店を閉めて、二階へ上がって、しばらくすると下で引き戸が鳴る。開いてはいない。鳴るだけだ。
そのあと、声が番号を言う。それきり。
「番号ば言うとですか」
「言いなさります。四十七番、とか、そげなふうに」
「同じ番号ですか」
「違います。毎晩、いろいろです」
姿は出ない。物も動かない。降りていっても誰もいない。朝になれば店はそのままだ。
「何回鳴りますか」
夫婦は顔を見合わせた。数えたことがないのだという。うるさくて眠れないというほどではなく、そういうものだと思って三年ばかり過ごしてきた。
困っているのは音のせいではなかった。
「息子が、一緒に住もうち言うとります」奥さんが言った。「膝の悪かけん、もうよかろうと」
「畳もうとは思うとるとです」
「けど」
そこで旦那さんが引き取った。
「よそさんの物ば、こっちの都合で捨てるわけにいかんとですよ」
この人たちは一度も怖いと言わなかった。怖がってはいない。困っている。
「先に、お代の話ばさせてください」
見るだけで五千円。引き取ることになったら、そこから別に三万五千円。合わせて四万円になる。調べて何もできなければ、五千円だけもらって帰る。
前に一度、調べるだけ調べてから値段の話をしたことがある。翌日、金を返しに行った。順番が逆だったのだ。以来、先に言うことにしている。
「札ば三枚、貼らせてください。紙が傷むだけで、家に害はなかです」
翌日、目印は三枚とも黄ばんでいた。
引き戸の内側に貼った一枚は、奥寄りのところから色が来ていた。カウンターの内側の一枚は右寄りから、階段の下の一枚は低いところから来ている。
一枚では線が一本引けるだけだ。だから三枚貼る。
三本を延ばすと、服の吊るしてある壁の前あたりで交わった。
濃さは、思っていたほどではなかった。三十年の店なら、これくらいのものは珍しくもないのかもしれない。そこから先が読めない。安藤さんなら読むのだろうと思ったが、俺には色と濃さしか出てこなかった。
奥さんが茶を出してくれた。
「預けたもんが、まだ気になっとるとやろうと思います」
言ってから、それらしい説明だと自分でも思った。
奥さんが目を伏せて、指で目尻を押さえた。
「そうですか。……そうですかね」
訂正はしなかった。
旦那さんは壁を見ていた。
「捨てりゃよかとは、分かっとるとです」と言った。「三十年ですけん、もう誰も来なさらん。分かっとって、捨てられんとですよ」
俺は何も言えなかった。
茶をひとくち飲んで、引き取るとなればいくらになるかを、もう一度言った。
その晩、寝る前に唐人町のことを考えた。
朝、帳面の後ろの頁に字が入っていた。俺の字だ。筆ペンは机の横に転がったままで、書いた覚えはない。
唐人町 入江クリーニング 員数 二十四多し
同町 商店街アーケード 員数 合
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
二十四。
壁には三十八点ある。
『番』は多いか少ないかしか言わない。何が多いのかは言わない。戸ごとに過不足を読んで、合っているか合っていないかを書いて、それで終いだ。二十四多いということしか分からないのに、俺はその二十四を、はじめ服の数だと思った。
思ってから、合わないことに気づいた。
翌日、夫婦に頼んで、店を閉めたあとの店内に一人で座らせてもらった。二人には二階に上がってもらった。
明かりを落とすと、アーケードの常夜灯がガラス越しに入ってきて、ビニールの表面で白く光った。
十時を回ったころ、引き戸が鳴った。
戸は動いていない。金具の鳴る音だけがした。誰かが入ってきて、後ろ手に閉めたときの鳴り方だ。
「四十七番」
年寄りの男の声だった。すぐそこで言われた。姿はない。
しばらく間があって、また鳴った。
「百二番」
今度は若い女の声だった。
それきり何も起きない。物は動かず、風も来ない。ただ、鳴って、番号を言って、終わる。
俺は数えた。
二十四で止んだ。
数え終わってから、背中が冷えた。以前、数えて、書かずにいて、閉じ込められたことがある。あのときは踊り場が一つしかなくて、上がっても下りても同じところに着いた。数えるなら書け、書かないなら数えるな。そう決めたはずだった。
何も起きなかった。
起きなかったからよかった、という話ではないが。
三十八と、二十四。
音は服の数を言っていない。番号の数を言っている。
翌日、控えを見せてもらった。旦那さんが奥から持ってきたのは、輪ゴムで留めた紙の束だった。日に焼けて茶色くなっている。順にも並んでいない。帳簿ではなく、ただの紙の山だ。
「これ、何枚ありますか」
旦那さんが指を舐めて繰った。
「二十四枚です」
背広は上下で一枚、喪服は一式で一枚だという。だから点数と合わない。
何が片づいていないのかが、そこではっきりした。服ではない。切った票のほうだ。預かりますと言って紙を渡して、返しますという約束を立てて、その約束が二十四本、立ったままになっている。
では何を書くか。
音は書けない。何を、いくつ。それが決まらないものは書けない。音は数えられるが、掴むところがない。
票は書けなくもない。二十四枚ある。だが片づいていないのは紙ではなく、約束のほうだ。預り、と書けば、預かるという話ごと入る気がした。何が入るのか自分で分からないものを、うちの帳面に書く気にはならなかった。
残るのは服だ。
三十八点。品名も数も決まっている。
票が言っているのは、預かった物を返せということだ。返す物が世界から無くなれば、言う先が無くなる。そこまでは筋が通っている。通っているというだけで、やってみるまで分からない。
分からないままやるのが、うちの商売だ。
夫婦に断りを入れた。
「よそさんの物ば、うちが引き取ってよかですか」
「引き取る、ち言うとは」
「うちの帳面に入れます。そしたら、ここからは無うなります」
「無うなる」
「はい。捨てるとやなかです。うちの物になります」
旦那さんが黙った。奥さんが壁を見た。
「取りに来なさったら、どげんすると」
「そのときは、うちが出します。番号ば言うてもろうたら、出します」
本当だ。うちの帳面は入れたものを出せる。座布団も出したし、俺自身も出た。三十八点を出して、番号の合うものを渡せばいい。
旦那さんが奥さんを見た。奥さんが頷いた。
「お願いします」
「表に出とってもらえますか」
「なんでですか」
そこで詰まった。
理由らしい理由はない。
ただ、帳面に記帳するときには、強い気配のようなものを感じる。
あの気配に、人を晒してはいけないのではないか。
なんとなくそう思えた。
「……音の出るとです。びっくりさせるといかんけん」
驚かせたくない。そこだけは本当だ。
夫婦はそれで納得して、アーケードへ出ていった。引き戸を閉めた。
店の真ん中に膝をついて、鞄から帳面を出した。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
空気が張った。値踏みされている、という感じがいちばん近い。壁も、天井も、床のタイルの一枚一枚も、数を勘定している。慣れることのない気配だ。
筆を下ろした。
入江クリーニング 預り物 受 三十八
ビニールが萎んだ。
中身が抜けたぶん、掛かっていた袋が形を失って、たわんで下がった。ハンガーがいっせいに軽くなって、パイプの上で金具が鳴った。
壁が、ただの壁になった。
帳面は、また少しだけ重くなった。
夫婦を呼び入れた。
奥さんは壁のところまで行って、口を押さえた。泣きはしなかった。空になったパイプの下で、しばらく立っていた。
旦那さんは、ああ、とだけ言った。
「ハンガーは残っとります」と俺は言った。「うちが引き取ったとは、預かりもんだけです」
「そうですか」
四万円をもらった。旦那さんは奥から自分の財布を出して、そこから払った。息子が出すと言った金には手をつけなかった。
「息子には言いまっせん」
「そげな安うてよかとですか、とは言われんとですね」
「言おうか思うとりました」
奥さんが笑った。この人が笑ったのは、はじめてだった。
天神に戻ると、店の斜向かい、デパートのひさしの下に見知った顔が立っていた。缶コーヒーを持っている。
「安藤さん」
「また抱えてきたとやろ」
「なんで分かるとですか」
答えなかった。
一通り話した。壁のこと、票のこと、音の数のこと、書いた行のこと。
「よそさんの捨てられんもんば、お前が代わりに抱えたとやろが」
「そうなります」
「音は、止まったとか」
「明日、電話して訊きます」
「訊いとけ」安藤さんは言った。「止まっとらんかもしれん」
「預けた人が、まだ気になっとったとでしょう。だけん、鳴りよったっちゃろうと思います」
安藤さんは否定も肯定もしなかった。缶コーヒーを右手から左手に持ち替えて、それだけだった。
翌日、電話をかけた。奥さんが出た。
「鳴りまっせんでした」
一晩では分かりません、と俺は言った。しばらく様子を見てください、また鳴るようなら連絡をください、と言って切った。
言いながら、安藤さんの言ったとおりだと思った。止まったように見えるだけかもしれない。それを確かめるのは、四万円をもらった側の仕事だ。
一週間して、奥さんから電話が来た。
あれから一度も鳴っていないという。息子に連絡して、店を畳む段取りに入ったところだと言った。ハンガーは近所の店にもらってもらうらしい。
「ありがとうございました」
電話を切ってから、しばらく座っていた。
鳴らなくなったことは、確かめられた。あれがどこへ行ったのかは、確かめようがない。祓っていない。引き取ってもいない。返す物が無くなったから、言う先を失っただけだ。黙ったのか、消えたのか、いまも壁の前にいて誰にも聞こえない番号を言っているのか、俺には分からない。
分からないものを、俺は勘定に入れずに四万円を受け取った。
次の朝も、支度は二人でやった。
折りたたみテーブルを広げ、看板を立て、厄除けの札を並べる。それが済むと本家は一本裏へ回っていった。
鞄は椅子の脇に置いた。
増えたのは、誰の物でもない服が三十八点だ。うちの帳面に、怪異でないものが入ったのは、これがはじめてだった。
出そうと思えば出る。番号を言ってもらえば渡せる。そう言ってきた。
歩道を人が流れていく。誰も看板を見ない。
四十七番。百二番。
引き取る人は、たぶんもう来ない。




