第六話 名刺
八月十日から十二日まで、客はゼロだった。
人通りは変わらない。渡辺通りの歩道は、盆前の天神らしく朝から人が流れている。その流れの中で、俺と本家の店だけが、道端の消火栓か何かのように扱われていた。
見えていないのではない。見えてはいる。ぶつからないように避けていくのだから、目には入っている。ただ、避けた次の瞬間には、避けた理由が残っていない。
三日目の昼、本家が裏から出てきて言った。
「元祖さん。おかしなことに気づきました」
「なんや」
「椅子です」
表のテーブルには、パイプ椅子が二脚ある。一脚は俺が座るぶん、もう一脚は客用だ。本家はその客用の椅子を指した。
「あれ、みんな見ます」
言われて、俺も夕方まで見ていた。
たしかに、見る。
通りすがりの人間が、看板は見ない。テーブルの札も見ない。店番の顔も見ない。それなのに、空いているパイプ椅子には目をやる。二時間で四人が視線を落とし、そのうち一人は足を止めて、少し迷ってから、座った。
サラリーマンだった。四十くらいの、汗を拭きながらの人だった。
座って、鞄を膝に置いて、それから困った顔をした。
「……あれ」
「どうぞ、涼んでください」と俺は言った。
「いや、俺、なんでここ座ったとやろ」
その人は一分ほど座って、水を飲んで、それから軽く頭を下げて行った。頭は下げた。相手が誰かは、たぶん最後まで分かっていない。
俺は客用の椅子を見た。それから机を見た。
脚が一本ぐらつく、八百円の折りたたみテーブル。椅子は四脚ある。帳面に書いたのは店番が座る二脚だけで、表と裏に一脚ずつ残った客用は、書かなかったほうだ。
どちらも員数の外に置いたものだった。
「本家」
「はい」
「客の椅子と机だけ、薄うなっとらん」
言ってから、背中に汗が伝った。暑いからではなかった。
内訳に書いたのは、看板が二枚、椅子が二脚、帳面が一冊、店番が二人。それで七。書いた瞬間、店は完成し、もう数えられなくなった。
内訳から外した机と椅子は、猶予のつもりだった。同時に、勘定から外れたものでもあった。
『番』を使えば、屋号が薄れる。屋号が薄れれば、その勘定に入っているものが揃って薄れる。看板が薄れ、椅子が薄れ、帳面が薄れ、店番が二人とも薄れる。
勘定の外に置いたものだけが、残る。
客の椅子と机は、うちの店のものであって、うちの店の員数ではない。だから誰の目にも、いつもどおりに映っている。
「元祖さん」と本家が言った。俺と同じ速さで同じ結論に着いている。「勘定の外に、屋号ば載せられませんか」
その晩、俺はアパートで無地の札を一枚出した。
厄除けを刷るのに使う、術式を込める前の紙だ。原料としてはいくらでもある。それを名刺の大きさに切って、筆ペンで書いた。
元祖天神大上屋
拝み屋 大上大介
(怪異 引き取り・厄除け・ご相談)
電話番号を書くかどうかで、三十分迷った。
安藤さんは番号だけの人だ。名前も屋号も書かず、番号だけを、選んだ人間にだけ渡す。俺はその逆をやってきた。屋号を書いて、名前を書いて、道端に立てた。
書いた。番号も、店の場所も。薬院のアパートの住所だけは伏せて、渡辺通り沿いの歩道、デパートの正面、地下街に下りる階段の裏、と書いた。屋号だけでは誰も辿り着けない。
できた一枚を机に置いて、数を決めた。数を決めなければ、この力は始まらない。
「捨てられんとやけん、刷りすぎたらいかん」
言ったのは俺で、聞いていたのも俺だった。本家はもう寝ていた。
それでも、明日から天神じゅうを回るぶんは要る。決めた数を口の中で繰り返して、『家』を使った。
一枚が二枚になり、二枚が四枚になり、机の上で紙が起き上がっていって、決めた数でぴたりと止まった。同じ角度の墨、同じ滲み、同じ紙の毛羽。どれが最初の一枚かは分からない。
翌朝、名刺を配りに出た。
まず、占いのおばさん。
「はじめまして。三つ隣で店ばやっとります、大上といいます」
おばさんは名刺を受け取って、それから俺の顔を見て、名刺をもう一度見た。
「……あんた、大上さん」
「はい」
「あんた、大上さんやったね」
その言い方で分かった。思い出したのではない。書いてあるものを読んで、そう扱うことにしたのだ。それでも、この四日で初めて、名前で呼ばれた。
効いた。
効いたが、条件があった。渡した相手が名刺を持っているあいだだけだ。鞄にしまえば、しまった瞬間に薄れる。おばさんは名刺を財布に入れ、五分後には俺のほうを見て「あんた、新しい人ね」と言った。
それでも、財布を開けば思い出す。
人の記憶の代わりに、紙が覚えている。
その日、俺と本家は天神じゅうを歩いた。飲み屋のおかみさん。中洲のホスト。厄除けを買った大学生。川原さんのデザイン事務所と、そこでアルバイトをしている木下さん。ホテル白水の宮野さん。帳面には客の名前など一行も書いていないから、二人で顔を突き合わせて思い出せるだけ思い出して、片端から回った。
全員が、初対面の顔で俺を見た。
全員が、名刺を読んで、「ああ」という顔をした。
三日目には、客が戻ってきた。名刺を握った人が、渡辺通り沿いの、看板の見えない店にやってくる。看板は読めなくても、紙に書いた場所は読める。
売り上げは、代償が出る前の八割まで戻った。
俺は自分がうまくやったと思った。
思ってから、安藤さんの顔が浮かんだ。あの人は名刺を作らない。屋号も掲げない。番号だけを、選んだ人間にだけ渡す。
あれは、自衛だと思っていた。
いまは、少し違う気がしている。あの人はもう、紙にも書けないのかもしれない。書いても、そこに書く名前が、あの人には無い。
最初の七枚は、四日目の朝に見つかった。
表の店を開けようとして、テーブルの脚元に紙が散っていた。拾い集めると、七枚あった。同じ墨、同じ滲み、同じ紙の毛羽。
前の日の夕方、若い男に名刺を渡した。受け取って、二歩歩いて、丸めて、そのへんに落としていったのを見ている。腹は立たなかった。道端で紙を渡されれば、そういうこともある。
落ちた場所が悪かった。
うちの店は『家』の影響下にある。帳面がここにある限り、ここは俺の勘定が働く場所だ。役に立つ物を要らない物として捨てれば、それは減らす侮辱になる。だから増えて返ってくる。七つになるまで。
俺は七枚を鞄にしまった。捨てられない。捨てればまた増える。使い切るしかないが、使うというのは配るということで、配ればまた誰かが捨てる。
その日から、渡し方を変えた。
「これ、要りますか」
訊いてから渡す。要らないと言われたら渡さない。受け取ってもらえたぶんだけが減っていく。押しつけない商売というのは、拝み屋がやるにはずいぶんまともな話だった。
それでも、鞄の中の名刺は減らない。毎日のように配っているのに、店の前で丸められるたびに七枚になって戻ってくる。差し引きでは、むしろ少しずつ増えている。
安藤さんから電話があったのは、八月十八日だった。
こちらからかけたのではない。かかってきた。この人からかかってくるのは、二度目だ。
「一件、振る」
挨拶もなかった。
「……仕事ですか」
「受けるか受けんかは、お前が決めろ。俺は断った」
断ったものを回してくる。それは坂口家のときと同じ形で、あのときは別の人間に振ると言っていた。今回は俺に直接だった。
「なんで、俺に」
「紙があるとやろ」
息が止まった。
「郵便受けに入っとった。誰が入れたかは訊かん」
訊かんでください、と言ったのは俺のほうだったかもしれない。本家だ。あの月極めの六畳間の場所を知っているのは、この福岡で俺と本家しかいない。俺が入れていない以上、入れたのは俺だ。
「安藤さん。あれ、読めましたか」
「読めた」
「……忘れんかったですか」
「忘れとらん」
あの人は、少し間を置いてから、こう続けた。
「紙は関係なか。俺は最初から忘れとらん」
俺はそれを、慰めだと思って聞き流した。
仕事は、警固の空き家だった。
『番』が七月の終わりに書いた行に、それはあった。警固二丁目の並びに、こう出ていた。
同町 空き家 員数 弐足らず
俺は場所を確かめに行って、雨戸が閉まっているのと、庭に自転車が一台倒れているのを見ただけで、そのままにしていた。
受話器の向こうで、安藤さんが用件を並べた。九月から、そこに人が入る。三人家族だという。不動産屋を通して、前の持ち主の親戚が相談を持ちかけ、あの人は断った。
「断った理由は」
「まだ何も起きとらんけん」
起きていないものは祓えない。あの人の札は、来たものを吸って消す道具だ。まだ来ていないものには使えない。
俺の道具は、違う。
その日の夕方、俺は空き家の前に立った。本家は表の店に残した。
目印を三枚、離して貼った。玄関の柱に一枚、勝手口に一枚、庭の物置に一枚。
二時間後に見に行くと、玄関の札は右下から黄ばみ、勝手口の札は左下から黄ばみ、物置の札は下から黄ばんでいた。三枚とも、札より低いところから上がってきている。黄ばみだ。焦げでも濡れでもない。ここが覚えている、という色だった。
一枚で分かるのは、そっちの側にある、というところまでだ。どれだけ奥かは言わないし、手前か奥かも割れない。線が一本引けるだけで、その線のどこにいるかは分からない。だから三枚貼る。
三本を延ばすと、家の中央、一階の奥で交わった。仏間か、その辺りだった。
あのときの俺は、これを二枚しか持っていなかった。しかも一枚だけ貼って、何も出ないのを見て、途方に暮れていた。
あのときと同じだ、と思った。
思ってしまうと、あとは早かった。
二つ足りない。足りないまま放ってある。九月から人が入る。入れば、家は数え直しにかかる。まず道具から足して、道具が余れば使い手を立てる。箸が七膳になり、そのあとで母が二人になった、あの順番で。
符合を数え始めると、いくらでも出てきた。木造二階建て。警固。年寄りが去って空いた家。物が運び出された跡。目印の指す先が仏間らしいこと——坂口家で数え癖の芯があったのも、仏壇のある八畳間だった。
背中が冷たくなった。同時に、腹の底が少し熱くなったのが自分でも分かった。
二度目だ。今度は起きる前に立ち会っている。あのときの俺は、箸が七膳並んでから呼ばれた。今度は、まだ何も並んでいないうちに来ている。前に出るということを、俺はずっとやりたかったのだと思う。
だから、そこで止めなかった。
止めて、三日待って、それから物を言えばよかった。
中には入らなかった。入って何かを置けば、家人として登録される。俺は一度それをやって、自分の靴を二足に増やした。
札は貼った。玄関の柱も、勝手口も、庭の物置も、敷居の外だと自分に言い聞かせて貼った。言い聞かせたということは、少し怪しいと思っていたということだ。
その代わり、依頼人に会って、こう言った。
「引っ越しのとき、前の家から持ってきた物を、絶対に捨てんでください」
三人家族の父親は、四十くらいの人で、意味が分からないという顔をした。
「壊れたもんは捨ててよかです。使えるもんを、片づけついでに捨てるとがいかんとです。この家は、いま二つぶん足りとらんと数えとります。足りんまま人が入って、そのうえ物ば捨てられたら、家はそのぶんも足しにかかります」
「足す、いうと」
「箸が増えます」と俺は言った。「それから、湯呑みと、スリッパと、座布団が増えます」
その先は言わなかった。言えば、この人は今日から眠れなくなる。
「三月ばかり、様子ば見させてください。うちの札ば三枚、もう貼らせてもろうとります。あの黄ばみが濃うなったり、破れたりしたら、すぐ電話ください」
料金は二万円だと言った。父親はその場で払って、代わりに渡した名刺を財布に入れ、「これ、失くさんごとします」と言った。
いい客だと思った。
三日通って、札は三枚とも同じ黄ばみのまま、それ以上に進まなかった。
四日目に、前の持ち主の親戚から話を聞いた。老夫婦が住んでいて、二年前に二人とも施設に入った。出るときに、仏壇と神棚を業者に運ばせた。それきり空いている。
二つ。
俺は玄関の柱に貼った札の前に、しばらく突っ立っていた。
足りていない。それは本当だ。この家は自分がいちばん満ちていたころの数を覚えていて、いまはそこから二つ欠けている。だが、それだけだった。三日待っても、四日待っても、家は何も足そうとしない。
その晩、安藤さんに電話した。
「数ば覚えとる家でした。二つ足りとらんとも、たぶん合うとります。けど、何も起きません」
「そうやろな」
「安藤さんは、分かっとったとですか」
「記憶のなか場所が、どこにあるとや」
俺は黙った。
「家も、店も、部屋も、どこでも何かしら覚えとる。それは普通のことや。腹が減ることと変わらん。腹が減った人間が、みんな人ば襲うわけやなかろうが」
「……何か、悪さばするとが──」
「俺らの仕事や」
それから、あの人は珍しく言葉を足した。
「大上。お前がそれば数で読みよるとは、お前が抱えとるもんの癖や。場の記憶は、数だけやなか」
「……ほかに、何があるとですか」
「順番。匂い。誰がどこに座っとったか。空いた場所の形。俺には俺の読み方がある」
どんな読み方かは、言わなかった。
電話を切ったあと、俺は帳面を開いた。消えかけた文字が並んでいる。昨晩、『番』が書いた行だ。壱多し。合。弐足らず。壱多し。
『番』が数で書くのは、『番』が数のものだからだ。あるいは、あれがいるこの帳面が、数のものだからかもしれない。
この街の家々が、めいめいに何かを覚えていて、それを俺の道具が数に直して並べている。それだけの記録だった。俺はその中から、事件を一つ見つけたつもりでいた。
一度しか見ていない形を、俺はどこにでも見ている。
翌日、依頼人に二万円を返しに行った。
「何も起きとりません。たぶん、これからも起きんです」
「けど、札ば見てもらいましたけん」
「見ただけです」
押し問答になって、結局、出張費と札三枚ぶんの五千円だけ残して、一万五千円を返した。父親は納得しない顔をしていたが、俺のほうが納得しなかった。
帰り道、財布の中の五千円が、いままででいちばん重かった。
その夜、俺は月極めの六畳間に行った。
安藤さんは在宅で、茶を出してくれた。仕事の報告と、紹介料をどうするかという話をして、あの人は紹介料は要らんと言った。
帰りぎわに、俺は名刺を一枚出した。
「安藤さん。もう一枚、いりますか」
あの人は俺の手元を見て、それから受け取らなかった。
「一枚あれば足りる」
「二枚あったほうが」
「大上」
声が少し低くなった。
「紙が要るとは、忘れる側や。俺には要らん」
俺は名刺を引っ込めた。
引っ込めながら、少しだけ腹が立った。この十日ばかり、俺は自分の名前を紙に書いて配って歩いて、ようやく客に名前を呼んでもらえるようになったところだ。要らないと言われる筋合いはない。
外に出ると、風が少し涼しかった。八月も後半になれば、夜はそんなものだ。
鞄の中で、名刺が捨てられないまま重なっている。配るほどに減らない紙だった。
あの人は最初から忘れていないと言った。紙は関係ないとも言った。
その意味を、俺はまだ、慰めの言い方だとしか思っていなかった。




