第五話 ホテル白水 泊まり客 受 壱
みやこビルで焼いた五十枚を補うため、また札を書いた。
やはり、留めの札だ。前回の件ではっきりした。俺は、怪異を祓いたくない。
祓ってしまえば消える。消えれば何もわからない。ならば、抱えてしまいたい。
幸い、俺にはこの帳面がある。初めてあの家に関わりのないことで使ったが、推測どおりだった。
この帳面は怪異を引き取れる。
帳面自体もわからないことだらけだが、いずれわかることがあるかもしれない。
それが、俺のやり方だ。だから、今回も祓いの札は刷らなかった。
留めの札を書き終わり、込める。一枚に二時間かかった。だが、増やすのは一瞬だ。
一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚。五百枚と決めて、五百枚で止まった。
札は紙だ。たくさんあって困るほどの嵩でもない。持ちきれない分は、アパートに置いておくことにした。
商売道具である厄除けの札も、増やしにかかる。こっちは三十枚と決めた。
厄除けの札は、自分で使うものではない。要は、金のためのものだ。あまり増やすのは、気が咎めた。
目印は、書かずに済んだ。あれは一件に三枚貼れば場所が割れる札で、留めのように束で焼かれることもない。鞄に残っていた一枚を机に置いて、十枚と決めた。十枚になった。
ほかにも型は覚えている。流れをふさぐもの、音を集めるもの、境目に貼るもの、名前を伏せるためのもの。紙代が出せなくて作れなかったものが、いまなら一枚書けば何枚にでもなる。
それでも、書かなかった。使いどころの見当がつかない札を刷っても、捨てられない紙が増えるだけだ。うちがいま要るのは、止める札と、見つける札。売るための厄除けと、打たないと決めた祓い。それで足りている。
覚えただけの型は、まだ鞄の外にいくつも残っている。
七月の終わりに、帳面が勝手に開いた。
夜中の三時ごろだったと思う。薬院のアパートで、扇風機の首振りの音に混じって、紙が擦れる音がした。机の上で、和綴じの帳面が開いていた。窓は閉まっている。風はない。
俺は電気を点けずに、そのまま見ていた。開いていたのは、書きかけの頁ではなかった。帳面を裏から開いた、真っ白なままの最後の頁だった。
朝になって確かめると、その最後の頁に書き込みがあった。
俺の字だった。
警固二丁目 三階建て 員数 壱多し
同町 角の花屋 員数 合
同町 空き家 員数 弐足らず
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
筆ペンは机の上にあった。蓋は閉まっていた。手は汚れていない。
書いた覚えはまったくないのに、書いてある内容には覚えがあった。夢の中で、俺は昨日と同じ道を歩いていた。歩きながら、家を一軒ずつ検めていた。
見て、数を確かめていた。ドアを一つずつ検めるのは、そういう仕事だからだ。
「元祖さん」
同じ部屋の隅で、本家が布団に座って俺を見ていた。こいつはここで寝ている。四畳半に二人だ。狭いが、家賃は一人ぶんで済む。
「昨日の晩も、書きよりました」
「……見たとか」
「元祖さんやなかとです。帳面のほうです」と本家は言った。「二時過ぎに、机の上で勝手に開いて、後ろの頁ばめくって、そのまま書きよりました。筆ペンは横に転がったままです」
「止めんかったとか」
「止めてよかもんか、分からんかったです」
俺も分からない。閉じていいのか、書かせておいていいのか、どちらが安全かを判断する材料が、俺にはない。
封印した怪異の力を、一部引き出して使う。
安藤さんが言っていたのは、こういうことなのだと思った。俺は使ったつもりがなかった。引き取ったものは、こちらが使うと決める前に、勝手に働き始める。三ヶ月の修行では、そこまで習っていない。
俺は近所を歩いて確かめた。警固二丁目の三階建ては、表札が一枚に対して郵便受けが二つあった。角の花屋は何ともない。空き家は雨戸が閉まっていて、庭に自転車が一台だけ倒れていた。二足らずというのが何を指すのかは分からなかったが、少なくとも、書いてあることは出鱈目ではない。
おそらく、これがこの怪異の力なのだろう。街を回って、数を検める。
あの巡回の男が、俺の帳面の中で、また仕事をしているのだ。
今度は、数えられるものを数える仕事だ。本当は、こっちがやりたかったのかもしれない。
夕方になってアパートに戻り、帳面を開く。最後の頁に書かれた文字は、朝よりも薄くなっていた。
その晩、俺はあの巡回の男のことを考えながら眠りについた。
夢の中で、俺はあのビルを回っていた。テナントを検め、事務所を検め、そして非常階段の鉄の扉を一つ一つ検めた。
目が覚めると、やはり帳面の最後の頁には記帳があった。昨日書かれたものが消えて、代わりに。
みやこビル 一階居酒屋 員数 合
みやこビル 二階整体院 員数 合
みやこビル 三階事務所 員数 壱足らず
みやこビル 四階 員数 合
みやこビル 五階サロン 員数 合
みやこビル 六階 員数 合
三階事務所の足りない壱とは、木下さんのことだろうか。まだ復帰はできていないのかもしれない。
六階も、しっかり書いてあった。
どうやらあの巡回の男は、俺の気にしていた場所の点検をしてくれたようだ。
道具が二つになった。
二つになると、呼び分けが要る。坂口の家から持ってきたほうと、みやこビルから持ってきたほう、では長すぎる。帳面に書くわけではないが、頭の中で使う名前がないと、考えるたびに一行ぶん損をする。
増やすほうは『家』にした。あの家から来たもので、あの家がやっていたことをそのままやる。ひねりも何もない。
夜のうちに巡回して、点検結果を書き置いていくほう。こちらは迷わなかった。あの制服の男の仕事の名前を、そのまま使えばいい。
『番』。
商売道具に名前が付くと、いっぱしの店になった気がした。
うちの店に、新しい道具が増えた。
依頼が来たのは、その翌週だった。
八月に入って、昼の商売は諦めた。
二時から四時は、看板の前に立つどころか、テーブルの天板に触ると熱い。三つ隣のおばさんも同じ時間は日傘の下で寝ている。客が出てくるのは日が傾いてからで、俺たちは五時に店を開けて、九時まで座る。真夏の拝み屋は、夜の商売だ。
八月三日、火曜。夕方の六時に、看板の前に立ったのは二十代後半くらいの女性だった。日焼けをしていない。夜の仕事をしている人の肌だ。
「ホテル白水の者です」と彼女は言った。「夜勤のフロントをしよります。宮野といいます」
薬院の、七階建て、七十室。素泊まり四千八百円。俺のアパートから歩いて十分の場所にある。前は何度も通っている。
宮野さんはトートバッグから、大学ノートを出した。
「夜勤の引き継ぎノートです。うちはシステムで部屋を管理しよるとですけど、それとは別に、手で書くとが残っとります」
開いたページに、日付と部屋番号が並んでいた。蛍光ペンで印がついている。
「六月から、部屋数の合わん日があるとです」
「合わない、とは」
「システム上は空室の部屋を、清掃が『使用済み』で上げてくるとです。シーツが皺になっとって、湯呑みが使うてあって、ゴミ箱に髪の毛が落ちとる。でも、誰も泊まっとらんことになっとる」
「逆はありますか」
彼女は少し驚いた顔をした。
「あります。予約も入っとって、チェックインの記録もあるとに、部屋には誰も入った形跡がない日が」
俺は本家と目を合わせた。同じことを考えている。
数が合わないのではない。一つぶん、ずれている。
「それと、お客様からのクレームが」
宮野さんはノートをめくった。
「三〇八の方が、朝、フロントで泣かれたとです。知らん人の夢ば見た、て。自分の記憶やなかとに、鮮明で、その人の家族のことまで分かる、て。しばらく落ち着かんかったです」
「同じような話は」
「六月から、七件です」
七件のうち五件が、隣が空室だった夜だった。
彼女はそこまで自分で調べていた。調べておいて、誰にも言えなかったのだろう。夜勤で、ひとりで、ノートを蛍光ペンで塗りながら。
「支配人には」
「言いました。疲れとるんやろて」
俺は本家を見た。本家は、もう鞄から筆ペンを出していた。
「宮野さん」と俺は言った。「三晩、うちに預けてもらえますか」
「預ける、いうと」
「うちが、部屋ば見て回ります。数の動かん時間に」
条件は二つ出した。
深夜、三時から五時のあいだは、部屋の数を動かさないこと。チェックインも、清掃も、部屋の移動もなし。
「棚卸しと一緒とです」と俺は言った。「数えよる間に品ば動かされたら、何が幾つあるとか、分からんごとなるけん」
もう一つは、料金の話だった。三晩の調査で三万円、退治まで含めて十五万。宮野さんは一度も値切らなかった。かわりに、こう言った。
「うち、夜勤代からしか出せんとです。分割でよかですか」
「よかです」と本家が答えた。俺より先に答えた。同じ頭のはずだが、たまにこいつのほうが早い。
一晩目。
俺はホテルには行かなかった。帳面を持って、アパートで寝た。『番』は、そういう働き方をする。
朝、最後の頁は、昨日とは別のことが書いてあった。
ホテル白水 員数 壱多し 四〇二
書き足されたのではない。前の晩のぶんは、日が暮れるころには薄れて、読めなくなっていた。あの頁だけは、俺が寝たあとに一日ぶんが書かれ、時間が経つにつれて薄れていく。読むのは朝のうちに限る。
二晩目。
ホテル白水 員数 壱多し 六〇五
三晩目。
ホテル白水 員数 壱多し 三〇八
三〇八。泣いた客の部屋だ。
空室だった部屋を宮野さんに確かめてもらうと、三晩とも、その部屋は「システム上は空室」だった。そして三晩とも、翌朝の清掃が「使用済み」で上げてきていた。
移動している。空いている部屋を、一晩ずつ渡り歩いている。
押さえに行けば、そこにはいない。押さえていない部屋に移るだけだ。人が見た瞬間に消えるものを、人が見て探すのは、そもそも順番が間違っている。
だからうちの『番』が要る。
四日目の夕方、俺は報告のためにホテル白水に行った。
自動ドアを抜けて、フロントに立った。宮野さんは夜勤だからまだいない。日勤の若い男が、にこやかに顔を上げた。
「いらっしゃいませ。ご宿泊でしょうか」
「大上といいます。宮野さんに、調査の件で」
男は端末を見た。それから、もう一度見た。
「……失礼ですが、お約束はいただいておりますでしょうか」
「三日前から入っとります。予約というか、業者として」
「申し訳ございません。ご予約が見当たりません」
その顔に、嘘はなかった。困っていた。本当に、困っている顔だった。
俺は自分の名刺を出そうとして、持っていないことを思い出した。名刺は作っていない。看板が名刺のかわりだった。
外に出て、振り返った。
ホテル白水の玄関ガラスに、自分が映っていた。ちゃんと映っている。輪郭も、顔も、いつもどおりだ。
いつもどおりなのに、この四日で、俺のことを二度、初対面のように扱われた。
一度目は、昨日の夕方。厄除けの札を先月買っていった大学生が、テーブルの前で足を止めて、まっさらな顔でこう言った。
「これ、なんですか」
占いのおばさんが、決定打だった。
その日の夕方、裏から本家が出てきて、表のテーブルの札を補充していた。そこへ、おばさんが野菜をくれに来た。近所の八百屋で余ったのをもらってきたらしい。
「はい、これ食べんね」
「いつもすんません」と本家が言った。
おばさんは俺たち二人を交互に見て、にこにこして、こう言った。
「あんたたち、いつからここで商売しよると?」
開店の日からだ。
この人の三つ隣で、俺が千五百円で看板を作って、二十七日間ひとりで座って、この人に「うちの客ば取らんでよ」と言われた場所だ。野菜をもらったのも初めてではない。
おばさんが行ってから、俺は本家を見た。
「あんたも、やろ」
「昨日からです」と本家が言った。「裏の常連が二人、素通りしました」
「なんでか、分かっとるとやろ」
「『番』ば使うたけんです」
『番』。あの力をそう名付けたことは、こいつには言っていない。名前を付けたのは先週の朝で、そのとき本家は裏の店に立っていた。
なんで知っとるとや、と一瞬思って、すぐに氷解した。当たり前だ。同じ頭だ。俺が付ける名前は、こいつも付ける。
当たり前といえば当たり前だが、気味が悪いものは気味が悪い。
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、本家は涼しい顔をしている。
同じ名前を付けるほどに同じ頭なのに、なぜこいつの方が冷静な時があるのか。はなはだ疑問だ。
脱線しかけた思考をもとに戻す。ここ最近の違和感の正体。おばさんの件で決定的になった。俺たちは薄くなっている。
薄いというのは、色や輪郭の話ではない。看板はいつもどおり黒いし、俺の顔もガラスにちゃんと映る。存在感とでも言うのか。とにかく、目に見えない何かが薄い。人の目に映ってはいるのに、映ったぶんが残らない。
この三日で、売り上げは表も裏も半分になっていた。入れ替わっても意味がない。二軒あることが、初めて何の役にも立たなかった。
分かっている。
誰も数えない場所に湧いたものだ。誰も数えない場所を回るのが仕事のものだ。それを使えば、使った側が、少しずつ数えられなくなる。
道理としては、まっすぐすぎるくらいまっすぐだった。
「やめますか」と本家が訊いた。
やめれば、宮野さんの部屋は合わないままだ。三万円を分割で払うと言った人だ。夜勤代からしか出せんとです、と言った人だ。
「三〇八の客は、泣いたとやろ」と俺は言った。
それで話は終わった。同じ頭だから、話が早い。
攻略の算段は、単純だった。
そいつは空室にしかいない。なら、空室をなくせばいい。
八月の平日、ホテル白水の稼働は六割ほどだという。七十室のうち、二十八室が空く計算になる。
土曜は、もっと埋まる。空くのは二十三室。
借り切るなら、空きの少ない晩のほうが安い。その二十三室を、うちが全部借りる。
一室四千八百円。二十三室で十一万四百円。宮野さんに前払いを頼んで、退治ぶんの十二万から、出せるぶんだけ先に出してもらった。足りないぶんは俺の手持ちを足した。これまでの稼ぎが、ほとんど一晩で溶ける計算になる。
「元祖さん」と本家が言った。「金ば増やしたらどうですか」
俺は本家の顔を見た。俺の顔だ。俺が思いつくことは、こいつも思いつく。
「いかん」
「なんでですか」
「増やしたもんは、捨てられん」
使えば人の手に渡る。渡ったものは、うちの手を離れても、うちが増やしたものであり続ける。福岡じゅうの財布の中に、うちが捨てられないものを何十枚も置いて回ることになる。
それに、単純に、それは泥棒だ。
「うちが刷ってよかとは、札だけや」
本家は少し笑って、「そうですね」と言った。訊いてみただけです、という顔だった。俺が同じ立場でも、たぶん訊いてみるだけは訊いてみる。
八月七日、土曜。
夜十時にチェックインした。二十三室ぶんのカードキーが、フロントのカウンターに並んだ。宮野さんは一枚ずつ確かめながら渡してくれた。手が震えていた。あの夕方、看板の前で二万円を数えた人と、同じ震え方だった。
「これで、空室はゼロです」
「一つだけ、空けとってください」
「え」
「逃げ場ばゼロにしたら、そいつは廊下に出ます。廊下は誰の部屋でもなかけん、どこにでも行ける。そうやなくて、行き先を一つだけ残すとです」
残す一室は、三〇八にした。泣いた客の部屋だ。
二十三枚のカードキーを、俺と本家で分けた。一枚ずつ部屋に入り、電気を点け、テレビを点け、荷物のかわりに札を一枚置いて、出る。人が泊まっている部屋にする。二十二室。
全部終えたのが、深夜二時。
三時になると、宮野さんはフロントの奥に引っ込んだ。チェックインも清掃も止めてもらった。廊下には誰もいない。ホテルの数が、二時間だけ動かなくなる。
俺は三〇八の前に立った。
帳面を開いて、『番』を回した。今度は、はっきり意識して使った。
手を触れていないのに、頁が勝手にめくれて、最後の一枚で止まった。白いままの紙に、字が浮かんでくる。
ホテル白水 員数 壱多し 三〇八
いる。
カードキーを差した。ドアを開けた。
ベッドの端に、男が腰かけていた。
六十くらいだろうか。作業着とも普段着ともつかない、色の褪せた上下。足元に、紙袋が一つ。旅行鞄ではなく、スーパーの紙袋だ。中身は、たぶん、たいして入っていない。
俺の顔を見て、少し驚いて、それから、申し訳なさそうに立ち上がろうとした。
「あ、すんません。ここ、空いとると思うて」
俺は動かなかった。動けなかった。
こういうものだと思っていなかった。
「空いとりました」と俺は言った。「今夜は、うちが全部借りとるとです」
「そうですか」
男は座り直した。立ち上がろうとして、途中でやめた形だった。
「向かいに、おったとですけどね」と男は言った。
窓の外を、顎で指した。
カーテンの隙間から、通りの向かいが見える。フェンスに囲われた四角い土地。雑草。コインパーキング開設予定の看板。半年前まで、そこには五階建ての雑居ビルが建っていた。
「取り壊されて」
「はい」
「それで、空いとる部屋ば」
「泊まるとこがなかったけん」
悪意のあるものは、悪意のある喋り方をする。この人はしなかった。
隣の客が夢を見たのは、たぶん、壁が薄いからだ。それだけのことだ。四千八百円のビジネスホテルの壁は、他人の記憶が染みるくらいには薄い。
ただ、この男の、悲しい記憶が染み出しただけだ。
俺は帳面を持ったまま、しばらく立っていた。
祓う理由が、どこにもなかった。ここにいる理由も、どこにもないのだけれど。
「あんた、宿ば探しよるとですね」
「そうです」
「うちが引き取ります」
男は顔を上げた。
俺は帳面を膝に置いて、短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
ホテル白水 泊まり客 受 壱
書き終わる瞬間に、男が「どうも」と言ったような気がした。言わなかったかもしれない。ただ、帳面が重くなった。
部屋には、シーツの皺だけが残っていた。
朝、宮野さんに報告した。彼女は台帳を三回見直して、それから頭を下げた。
「合っとります。ぜんぶ」
「よかったです」
「大上さん、ほんとに——」
そこで彼女は、一度、言葉を切った。
俺の顔を見て、少しだけ、目の焦点が合わないような顔をした。
「……ほんとに、ありがとうございました」
言い直したのだと思う。何を言おうとして言い直したのかは、訊かなかった。
退治ぶんの十二万から前払いぶんを引いた金額と、二十三室ぶんの領収書を受け取って、俺はホテルを出た。十二万のうち十一万四百円は、ひと晩の部屋代で出ていっている。残るのは一万に足りない。調査の三万円は分割で、と彼女は言った。俺は、いいですと答えた。
その足で、安藤さんに電話した。
二回目の呼び出しで出た。
「安藤です」
「大上——」
「怪異の力ば、使うたな」
名乗る前だった。
「なんで分かるとですか」
「お前の声が、遠か」
電波の話ではないのだと、すぐ分かった。
「中身は訊かん」と安藤さんは言った。「訊いたら、俺のもんになる」
この人は、そういう断り方をする。
「安藤さん。俺、客に忘れられよります」
「知っとる」
「知っとる、て」
「そういう顔しとるけん」
顔を見ずに、電話でそう言われた。
「大上」
「はい」
「飯は食いよるか」
俺は少しむっとした。子ども扱いをされたと思った。ホテル一軒の帳尻を合わせて、二十三室を借り切って、一晩で片づけて帰ってきた男に、訊くことがそれか。
「食いよります」
「そうか」
電話は切れた。
俺はスマホを鞄に入れて、渡辺通りを歩いて帰った。
通りの向かいの、フェンスに囲まれた四角い土地の前で、一度だけ足を止めた。
雑草。捨てられた傘。コインパーキング開設予定。
あそこに何が建っていて、何がいて、どこへ行ったのかを、いま覚えている人間が何人いるのだろうと思った。
思っただけで、俺は歩き出した。




