第四話 みやこビル 巡回 受 壱
七月十四日、水曜。三十四度。
その日の客は、朝から一人も来ていなかった。暑いと人は困りごとを後回しにする。困りごとというのは涼しい部屋でこそ思い出すものらしい。
午後二時、看板の前に立ったのは、四十くらいの男だった。半袖のシャツに、汗の跡。名刺をくれた。大名でデザイン事務所をやっている川原という人だった。
「拝み屋さんですか」
「はい」
「そういう人に頼むような話やなかとかもしれんとですけど」
そう言って、川原さんはスマホを出した。通話履歴を見せてくる。
同じ番号が、二日間で四十七回。
「うちのアルバイトです。木下いいます。二十歳の学生で、月曜の晩から、ビルの中におります」
「中に閉じ込められとる、ということですか」
「そうやなかとです」
川原さんは、うまく言えないという顔をした。この二日で何度も同じ説明をして、そのたびに信じてもらえなかった顔だ。
「六階におる、て言うとです」
うちのビルは五階建てなんですけど、と川原さんは言った。
その場で電話をかけてもらった。
二回で出た。若い男の声だった。かすれてはいたが、思ったよりしっかりしていた。
「もしもし」
「はじめまして。拝み屋の大上といいます。いま、どこにおるとですか」
「六階の踊り場です」
「窓から何が見えますか」
少し間があった。
「窓は、ありません。踊り場に、上に行く階段と、下に行く階段があります。下りよるとに、また同じ踊り場に着くとです。何回やっても」
「何回やりました」
「……三十くらいまでです。そのあとは、分からんごとなりました」
「食うもんは」
「自販機の水が二本、鞄に入っとったです。昨日で終わりました」
声は落ち着いていた。落ち着いている声のほうが、こういうときは悪い。
「木下さん。ひとつ訊きます。そこに、あんた以外におるとですか」
しばらく返事がなかった。
「……たまに、下から上がってきます」
「どんな人ですか」
「警備員さんです。制服で、懐中電灯持って、ドアば一個ずつ確かめて回る人です。すれ違うときに、会釈されます」
俺は本家の顔を見た。本家も俺の顔を見ていた。同じことを考えている。同じ頭だ。
「ビルに警備は入っとりますか」と俺は川原さんに訊いた。
「入っとりません。うちみたいな古いビルに、そんな金はかけんとです」
「木下さんは、なんで夜に上がったとですか」
川原さんは、そこで初めて目を伏せた。
「エアコンです。三階の効きが悪かったけん、上の室外機ば見てきてくれて頼みました。月曜の、九時過ぎです」
それきりだ、と川原さんは言った。
三時に現場を見に行った。
大名の裏通り、築四十年の雑居ビル。一階が居酒屋、二階が整体、三階が川原さんの事務所、四階が空き、五階がサロンと書いてあるが、看板の電気は切れている。
エレベーターのボタンは、一から五まで。
非常階段を上がった。階ごとに中へ入る扉があって、その脇のコンクリートに数字が書いてある。二、三、四、五。五階の上にも階段は続いていた。
上りきったところに鉄の扉があって、中に入ると、壁に低く唸る鉄の箱が並んでいた。壁から太い管が伸びて、繋がっている。これが室外機だろう。
その扉の脇に、数字はなかった。
俺はしゃがんで、コンクリートを撫でた。ほかの階と同じ材質、同じ古さ。ただ、ここだけ数字が書かれていない。
「増築ですね」と本家が言った。
「そうやろな」
あとから足したのだろう。屋上に簡素な部屋を作って、設備を入れて、階段でだけ上がれるようにした。エレベーターは五階まで。管理会社の図面にも、たぶん階としては載っていない。
このビルは、五階建てということになっている。
なっているが、階は六つある。
昼のうちは、何も起きなかった。俺たちは五階まで往復して、六階の扉を開けて中を確認して、降りた。何回下りても、ちゃんと下に着いた。木下さんの姿はどこにもない。
「元祖さん」と本家が言った。「昼は数が合っとるとです」
そういうことだと思う。
昼のビルには人がいる。整体には客が来て、居酒屋の仕込みが始まって、三階では川原さんの事務所が動いている。人がいる間、このビルは五階建てのビルとして正しく数えられている。
夜になると、人が抜ける。
抜けたぶん、数えるものがいなくなって、数えられていない六つ目の階が浮いてくる。
その日の夕方、俺は安藤さんに電話した。
助けてくれと言うつもりはなかった。ただ、この稼業の相場を知っている人間に、一度だけ確かめたかった。
全部話した。五階建てで階が六つあること。一番上の扉にだけ数字がないこと。二日そこにいる二十歳のこと。夜ごとドアを確かめて回るものがいること。
安藤さんは、最後まで黙って聞いた。それから言った。
「そのビル、去年、俺のところに来とる」
俺は少し息を止めた。
「同じ人からですか」
「川原、いうデザイン屋や。階段から足音のする、て言うとった」
「足音」
「見回りみたいな足音が、夜ごと響く。見に行っても誰もおらん。テナントが気味悪がったとやろ」
姿は出ていない。音だけだ。だから一年、放ってあった。
「断ったとですか」
「断った」
「なんでですか」
「場所が割れんかった」
目印を三枚使った、と安藤さんは言った。離して貼って、向きを突き合わせて、三方向が指した先が六階の踊り場だった。そこまでは出た。
「そこに一枚貼った」
「出ましたか」
「出た。出すぎた」
上を指し、下を指し、その場を指した。同じ一枚に、違う方角からの力が立て続けに来ていた。
「出どころが一つに絞れん。絞れんもんに手順は立たん。手順の立たんもんに、何枚要るか言えん」
「何枚要るか分からんけん、断ったとですか」
「俺が一年に書ける札は五十枚や。分からんもんに一年ぶんは賭けきらん」
一年ぶんを一晩で使うかもしれない仕事だから、断った。金の問題ではなく、在庫の問題だった。
この人はずっと、そうやって断ってきたのだ。危ないから断ったのではない。測って、数が出なかったから断った。臆病でも慎重でもない。ただの、在庫管理だ。
「安藤さん」
「なんや」
「うちは、五十枚刷れます」
電話の向こうが、静かになった。
「今晩やります。報告は明日します」
言ってしまってから、心臓が鳴った。師匠にこんな言い方をしたのは初めてだった。
安藤さんは、しばらく黙っていた。
断る言葉を選んでいる沈黙ではなかった。今度のは、別の沈黙だった。
「木下さん、やったか」
「はい」
「二日目やったら、まだ足は動く。三日目からは背負わんといかん。二人おるとやろ」
「おります」
「なら、背負うほうを先に決めとけ」
電話は切れた。
俺と本家は、渡辺通り沿いに戻って、テーブルの上に札を積んだ。
俺が一枚を増やす。二枚になる。二枚を四枚にする。四枚を八枚に。増えた札はどれも本物と同じ角度、同じ皺、同じ糊のはみ出しかたで、どれも本物と同じだけ効く。俺は自分の力を、一度も疑ったことがない。今夜も疑わない。
五十枚を数え終わったとき「元祖さん」と本家が言った。
「何枚要ると思いますか」
「分からん」
分からないから五十枚にした。枚数を言えなかったから断った人がいて、枚数を言えないまま受けた男がここにいる。
内訳は全部、留めの札だ。祓いの札は刷らなかった。
俺たちは札を半分ずつ鞄に入れて、大名に向かった。
十一時を過ぎると、ビルから人が抜けた。
整体が十時、サロンが十時半、一階の居酒屋がラストオーダーを終えて、店主が表の暖簾を取り込んだのが十一時十五分。三階の川原さんは残ると言ったが、帰ってもらった。数えるものが多いほうがいいのか少ないほうがいいのか、この時点では分からなかった。分からないことに人を巻き込む余裕はなかった。
俺と本家は、一階のエレベーターホールに立った。
鞄に二十五枚ずつ。筆ペンが一本ずつ。あとは水のペットボトルが四本。
札はまだ打たない。打つ前に、夜の階段を一度見ておきたかった。昼に何回も上り下りして何も起きなかった階段が、人の抜けた時間にも同じ形をしているとは限らない。
川原さんには、エレベーターを止めないでおいてくれと頼んであった。五階の非常口の鍵も開けてもらってある。
「エレベーターで五階まで上がります」と本家が言った。「非常口から入って、いっぺん上まで行って、それから下ります」
「俺は一階から上がる」
異論はなかった。俺が言おうとしていたのと同じだった。
途中で会うはずだった。
俺は一階の扉を開けて、非常階段に入った。
二階の扉。三、四、五。扉の脇の数字を目で拾いながら上がった。誰にも会わなかった。
五階の上の階段を上がりきって、鉄の扉を開ける。室外機が並んでいる。昼に見たままだ。
「本家」
返事はなかった。
もう一度呼んだ。声は、無愛想な部屋に吸い込まれて、消えた。俺は扉を閉め、階段に戻った。
何かがおかしいとき、俺は数える。癖だ。何段あるかを知っていれば、少なくとも足元だけは間違えない。
一、二。口の中で数えながら下りた。十三段。踊り場についた。折り返して、また一から数えた。十三段。踊り場。
ふと、妙な感覚がした。壁越しに遠く感じていた街の音が、消えたような気がした。
扉の脇のコンクリートを見る。数字がなかった。
一度下りたのだから、五と書いてあるはずだった。何も書かれていない。上に行く階段があって、下に行く階段がある。
もう一度下りた。一、二、三。十三段。折り返して十三段。
同じ踊り場に着いた。
さっきまで誰もいなかった扉の脇に、二人いた。
一人は、鞄を横に置いて、膝を抱えて座っていた。顔を上げた。唇が割れて、白い。二日ぶんの埃をかぶって、それでも、俺を見て笑おうとした。
「木下さん」
頷いた。声は出さなかった。
その隣に、本家が立っていた。
「元祖さん」
「……いつからおる」
「五分か、六分です。五階の非常口から入って、いっぺん上まで行って、上の扉ば確かめて、下り始めました」
「数えたか」
「数えました。落ち着かんかったけん」
「水は」
「二本目です」
俺が一階から上がってきたぶんの時間しか経っていない。木下さんはここに二日いて、そのあいだ電話は通じていた。ここは、時間のほうがおかしくなる場所ではないらしい。
階段の下から、足音が響いてきた。下り階段を見ると、男が上がってくるところだった。
紺の制服。帽子。名札はついていない。顔は、はっきりある。四十代くらいの、疲れた顔の男。どこにでもいる、警備員の格好をした男。
目が合った。
男は立ち止まって、会釈をした。
俺は留めを一枚抜いて、短い祝詞をあげた。八文字。
男の足が止まった。二秒か、三秒だ。
札が端から黒くなった。焦げた匂いが上がって、黒が真ん中まで来て、それで終わりだった。
男は歩き出した。俺の脇を通り、鉄の扉の把手を確かめ、上り階段へ入っていった。すれ違うときに、もう一度会釈をされた。
止めたのではない。二秒ぶん、待たせただけだ。
効かなかったのではない。効いて、二秒だ。
足音が遠ざかって、聞こえなくなった。
「木下さん」と俺は言った。「下りきらんて分かったとは、いつですか」
「……二回目です」
「数えたとですね」
「数えました。階数が書いてなかったけん」
俺は本家を見た。本家も俺を見ていた。同じ頭だから、思い当たる場所も同じだ。
「お前、下りるとき数えたか」
「数えました。十三段」
「書いたか」
「書いとりません」
俺も書いていない。木下さんも書いていない。三人とも、確かめようとして数えて、三人ともここにいる。
非常階段の扉の脇には二も三も四も五も書いてある。書いてあるのに、着かない。書いてある数より、口の中で数えた数のほうが手前に来ている。上書きしてしまったのだ。上書きした先には、受け止めるものがない。
数は、向こうが勝手に決める前にこっちから書く。それがうちの流儀だった。書かずに数えたときの話は、誰にも教わっていない。
「書けば済むとやなかですか」と本家が言った。
俺も同じことを考えていた。下から順に打ち直す。二、三、四、五と書いて貼れば、書いた数のほうが手前に来る。
本家が筆ペンで留めの札に五と書いた。壁に貼った。
俺たちは階段を下りた。一、二、三。十三段。折り返して十三段。鉄の扉の前についた。
そこにも、木下さんがいた。そして、五が貼ってあった。
今度は俺が書いた。四と書いて、同じ壁の隣に貼った。それから、また下りた。
やはり、木下さんがいた。五と、四。同じ壁に並んでいた。
「ここは、階が六つあるとやなかとですね」
「一つしかなか」
上に行く階段があって、下に行く階段がある。上がっても下りても、同じ場所に着く。数字が書かれていないのは当たり前だった。ここは六つ目の階ではない。六つ目だけでできている。四十年、誰にも数えられなかった場所が、それだけで一棟の建物のような顔をしている。
書ける数字は、一つしかない。
六だ。
上がってくるとき、俺は扉の脇の数字を目で拾っていた。二、三、四、五。その上だ。
数えたから閉じ込められて、数えていたから、ここが何番目か言える。
俺は留めの札に六と書いて、短い祝詞をあげた。八文字。壁に貼った。
何も起きなかった。
しばらくして、下から足音が上がってきた。男は俺の前を通り、札の前で少しだけ立ち止まった。
そして、鉄の扉の把手を確かめ、会釈して、階段を上っていった。
壁の六は、真っ黒に焦げていた。
「一枚で二秒でした」と本家が言った。
留めが二秒しか保たないなら、六も二秒しか保たない。あれが認めなければ、書いたことにならない。
「何分おきや」
「時計ば見ときます」本家は腕時計を出した。「数えるとは、やめときます」
十分だった。
五枚重ねて貼った。あれは札をじっと見ていたが、しばらくすると焦げた。
十枚重ねて貼った。焦げるまでにかかった時間は、確実に長くなった。だが、焦げた。
札を増やそうとした。
一枚を手に取って、いつもの手順を踏む。二枚になるはずだった。
ならなかった。何度やっても、一枚は一枚のままだ。
本家にもやらせてみた。同じだった。
力が抜けている感じではない。手応えはある。帳面はこちらを向いていて、そのうえで動かない。
断られている。
理由は分からない。ここでは、うんと言ってくれない。それだけが分かった。
本家が鞄の中から札の束を出した。俺も鞄から札を出し、渡す。本家は黙って受け取り、数えた。
「残り、三十一枚です」
全部使えば三十一枚ぶん保つ。保たなければ、俺たちは何も持たずにこの踊り場に残る。
少し迷ってから、俺は言った。「全部使う」
「残さんでよかとですか」
「半分残して焼き切れても、残りじゃどうしようもなか」
三十一枚の束に、六と書いた。曲がったが、読める。
重ねて壁に貼って、短い祝詞をあげた。八文字。
十分待った。
足音が上がってきた。男が俺の前を通り、札の前で立ち止まった。
長い間、立ち止まった。札の束が、下からじりじりと黒ずんでいく。
本家は腕時計を見ていた。俺は数えなかった。
一分ほどして、男は歩き出した。鉄の扉の把手を確かめ、会釈して、階段を上っていった。
札は焦げ、数枚が剥がれてはらはらと落ちた。
本家と、顔を見合わせた。終わりだ、という顔をしていた。たぶん、俺もしている。
三人で、鉄の扉の脇に座り込んだ。扉は一度、開けようとしてみた。動かなかった。
男は十分おきに下から上がってきた。俺たちの前を通り、把手を確かめ、会釈をして、上っていく。それを三度見た。三十分は、ここに座っていたことになる。
鞄の水は、あと一本になっていた。木下さんに回したぶんだ。
本家は膝を立てて、黙って宙を見ていた。
携帯を出して、履歴を開いた。名前の入っていない番号がある。夕方、五十枚刷れますと言って切った相手だ。
合わせる顔はない。それでも、ここで三人干上がるよりはいい。土下座してでも頼むつもりで、番号に指をかけた。
そのとき、木下さんが口を開いた。
「……札って、ああいうもんば消すとやなくて、止めるだけのもんなんですか」
「消す札も、あります。今夜は、持ってきとらんとです」
祓いの札は刷らなかった。使いたくなかったからだ。
留めで止めているあいだに、札を使わずに祓う型もある。ただ、唱え終えるまでに五分かかる。止まるのが二秒では、話にならない。祓いの札を持ってきていたとしても、一枚で二秒の相手に効いたかどうか。
一枚で二秒。三十一枚で、一分。何枚重ねても、あれは止まらない。
止めて、どうするつもりだったのか。
顔を上げると、本家はもうこちらを向いていた。
留めは、動きを止める札だ。焼かれるのは、相手が押し返したときだ。人を害しにかかっているものは、留められれば札を焼いて、そのまま向かってくる。止まっていては、目当てが果たせないからだ。
あれは、座り込んだ三人の前を三度通った。会釈をして通った。害す気があるなら、とうにやっている。
あれは、回りたいだけだ。
札を焼いたのも、押し返したのではない。通り道に壁が立っていたから、どけて通った。
俺は留めに六と書いた。止めておいて、ここが六階だと突きつけるつもりだった。だが、回っているものにとって、留めは検めるものではない。通り道の壁だ。壁はどける。どければ、壁に書いた六も一緒に退く。
止めなくてよかったのだ。回る道の脇に、六を置いておけばよかった。
五十枚を、止めることにしか使わなかった。止める札しか、持ってこなかったからだ。
「書くもんが、もうなかです」と本家が言った。札は全部、壁で焼けている。
俺は帳面を出した。最後の頁をつまんで、綴じ目から破り取る。
破った一枚は、ただの紙だった。あの家の気配は、しない。筆ペンの蓋を取って、大きく書いた。
六
そして、焼け残った札の糊を拝借し、壁に貼った。あとは待った。
やがて、下から足音が上がってきた。男は鉄の扉の把手を確かめ、俺たちに会釈をして、それから六を見た。
ビルが小さく鳴った。柱でも配管でもない、建物全体が一度だけ鳴る音だ。五階建てのビルが、六つ目の階を勘定に入れた音のように聞こえた。
遠くに、街の音が戻っていた。
男の輪郭が、薄くなった。
「本家。背負え」
「元祖さんが背負うとやなくてよかとですか」
「帳面は一冊しかなか」
それだけで通じた。同じ頭だ。
屋号を名乗って引き取れるのは、帳面を持っている側だけだ。俺の鞄の中にある。だから残るのは俺で、降りるのは本家になる。
本家は木下さんを背負った。学生一人ぶんの重さで、少しよろけた。俺も同じくらいよろけるだろう。
「先に降ります」
「一階まで止まるな」
足音が下りていく。今度は、誰も数えていない。
六階の鉄扉の前に、俺と、制服の男が残った。
俺は帳面を出した。
「あんた、ずっと番ばしよったとやろ」
返事はない。ただ、懐中電灯を持った手が、ほんの少し下がった。
誰も数えなかった階に、誰も来ない夜が四十年ぶん積み重なって、生まれたものなのだ。
誰も数えないものを、数える。それがこの男の仕事だった。
男はもう、どこにも行こうとしない。この六階を、検め終わったからだ。仕事が終わったのだ。
今なら、祓うこともできるだろう。だが、俺はそうしたくなかった。
祓えば、何もわからないままだ。抱えれば、いずれわかるかもしれない。
俺は短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
帳面は本家を出した時、渡と書いた。
そう書いてあったからには、入れる時には受と書くのが筋だろう。
みやこビル 巡回 受 壱
書き終えると、男は帽子のつばに手をやって、会釈をした。
今度は、俺も返した。
消えたというより、帳面が重くなった。
外に出たのは、三時四十分だった。
救急車が木下さんを運んでいって、川原さんが泣きながら何度も頭を下げて、そのあと俺たちはコンビニの前でおにぎりを食った。二人とも同じ具を選んだ。
「元祖さん」
「なんや」
「札、全部焼けました」
安藤さんの一年ぶんを、一晩で全部焼いた。
また増やす分を書かなければならないだろう。
朝八時に電話した。報告した。木下さんは点滴を打って、意識もはっきりしていること。ビルは六階建てとして数え直したこと。巡回は帳面に入れたこと。札を五十枚使ったこと。
安藤さんは、最後まで聞いて、「そうか」と言った。
それから、少しだけ間を置いた。
「大上。刷れるけん受ける、ばずっと続けよったら、いつか、刷れる範囲でしか物ば考えんごとなる」
「……はい」
身につまされたばかりだった。
「わかっとるなら、よか」
電話は切れた。
危うかったが、なんとかやり遂げた。
安藤さんが断った仕事を、俺は片づけた。指示も仰がなかった。助けも求めなかった。求めかけはした。
かけた電話は、断られるための電話と、報告の電話だけだ。
二人で同じところに嵌まったことは、報告に入れなかった。
その日の夕方、渡辺通り沿いに看板を立てながら、本家が言った。
「元祖さん。机、そろそろ買い替えませんか」
俺は手を止めた。
脚が一本ぐらつく、リサイクルショップで八百円の折りたたみテーブル。客用の椅子と並んで、員数の外に置いてあるものだ。買い替えられるほうの逃げ道に、手がかかった。
「川原さんとこの報酬、十五万入ります。事務所も借りられますよ」
本家は、俺の顔で、俺の笑い方で笑っていた。
「考えとく」と俺は言った。




