第三話 元祖天神大上屋 員数 七 内訳
商売というのは、軌道に乗るときは呆れるほどあっさり乗る。
六月の終わりからの二週間で、俺は家賃を払い、電気を止められかけていたのを止められる前に払い、リサイクルショップでもう一脚パイプ椅子を買った。客に座ってもらうためだ。四百円。前から欲しかった。
梅雨が明けた。
明けた途端、天神の路上は別の場所になった。アスファルトが昼のぶんの熱を夜まで吐いていて、パイプ椅子に座っていると尻から茹だってくる。看板のペンキが日に灼けて、元祖の二文字がまた薄くなり始めた。それでも人は出てくる。夏は怪異の季節ということになっているらしい。
札は、売れる。
厄除けの値札を、三千円から千円に書き直した。相場は三千円から五千円らしいが、こっちは材料費がかからない。夜のうちに一枚増やして、朝にはもう一枚増やして、それをまた増やす。三枚しかなかった在庫が、いまはテーブルに積み上がっている。同じ角度、同じ皺、同じ糊のはみ出しかた。
三つ隣の占いのおばさんが、ある日、俺のテーブルを覗いて言った。
「あんた、最近ずいぶん景気がよかね」
「おかげさまで」
「うちの客ば取らんでよ」
冗談めかしていたが、半分は本気だと分かった。天神の路上には路上なりの縄張りがあり、俺はその中でいちばん新しくて、いちばん安い店だった。安さというのは、それだけで一種の暴力なのだと、このとき初めて知った。
悪いことばかりでもなかった。
厄除けを買っていった大学生が、翌週また来て、友達を連れてきた。飲み屋のおかみさんが「店に一枚貼りたい」と言って三枚買っていった。中洲のホストらしい若い男は、五枚まとめて買って、名刺を置いていった。名刺には携帯番号が書いてある。個人情報をこんなに気安く配る人間がいるのかと、俺は少し感心した。
安藤さんの顔が浮かんだ。名前で登録するな。
俺は名刺を鞄の底に入れた。
坂口遥さんからは、一度だけ電話があった。
母は元気だという。仕事にも戻ったという。声はもう震えていなかった。
仏壇の脇にあった写真のことを訊くと、彼女は電話口を手で押さえて、奥にいる母親に確かめた。少し待たされた。
「ばあちゃんが嫁に来たころは、あの家に七人おったそうです」
舅と姑、その上に姑の母親、祖父と、祖父の弟、それに子どもが一人いて、祖母を入れて七人。木造二階建てに七人。当時はどこもそうだったのだと、母親は言ったという。
「大上さん、それ、なんか関係ありますか」
「いえ」と俺は言った。「もう、終わったことです」
嘘ではない。あの家の勘定は、うちの帳面に移っている。ただ、家というものが最後の形ではなく、いちばん満ちていた形を覚えているという事実は、それからずっと俺の中に残った。
うちの店が覚えるのは、どの形なのだろう。
「ひとつだけ、変なとが」
「はい」
「箸が、三膳あるとです」
うちが引き取ったのは五膳。七から五を引けば、二膳のはずだった。
「増えよるとですか」
「増えとらんです。三膳のまま、ずっと」
二人暮らしの家に、三膳。
春まで、あの家は三人だった。祖母と、母と、彼女と。
捨てたとですか、と訊きかけて、俺はやめた。
「箸立てに戻したとは、母です」と遥さんは言った。「何も言わんで、戻しとりました」
あの家の始まりは、四十九日の次の日に祖母のものを捨てたことだった。減らされたのを受け付けない何かが、そこから七まで数えた。その数え癖は、うちが引き取った。だから、いま箸立てに三膳あるのは、怪異ではない。
三人だった家が、三膳持っている。それだけのことだ。
「うちのばあちゃん、人が来るのが好きな人やったけん」と遥さんは言った。「一膳くらい、余っとってよかとです」
その一言のほうが、増える怪異よりも、よほど長く俺の中に残った。
夜、アパートに帰ると、部屋の隅の紙袋と、机の上の帳面が待っている。
帳面は、開かなくなった。開けないのではない。開くとまた読んでしまうからだ。六行目のことを考えると眠れなくなる。
元祖天神大上屋 員数 七。
今、うちが抱えているのは四つ。坂口の母が二、娘が一、そして俺が一。
あと三つで、うちの店は完成する。完成したとき何が起きるのかは、誰も教えてくれない。安藤さんに訊いたら、たぶん教えてくれる。
訊かなかった。
訊けば、店を畳めと言われるからだ。
七月九日。金曜。
その日の福岡は、朝から三十一度あった。
いつもより一時間遅れて家を出た。ホームセンターで、看板の下地を塗り直すペンキを買っていたからだ。屋号は、はっきり書いとかんと通らん。安藤さんの言葉を、俺は律儀に守っている。
看板を小脇に抱えて、リュックにペンキを入れて、渡辺通りを歩いた。
一本裏に入る路地の口を通り過ぎたところで、年配の女性とすれ違った。
手に、うちの厄除けを持っていた。
三千円の値札をつけたやつだ。売った覚えがない。売った相手の顔なら全部覚えている。二十七日で客が二人しか来ない商売をしていれば、覚える。
振り返って、路地を見た。
奥から、俺の声がした。
「そちら、持っといてください。何か来たら、札のほうが先に傷みますけん」
俺の言い回しだった。間の取り方も、語尾の落とし方も。
路地に入った。
日の差さない側だ。雑居ビルの裏口と、室外機と、積み上げたビールケースが並んでいる。その手前に、店があった。
ベニヤ板。油性ペンキ。同じ書体。折りたたみテーブル、脚が一本ぐらつくやつ。パイプ椅子が二脚。テーブルの上には札が積んであって、隅に「怪異 ご相談ください」と書いた紙が置いてある。
その紙の字は、俺の字だった。
看板には、こう書いてあった。
本家天神大上屋
俺は、小脇に抱えているほうを見た。
同じベニヤ板、同じ油性ペンキ、同じ書体。違うのは、頭の二文字だけだった。
誰が書いたのかを考えて、途中でやめた。俺ではない。俺ではないが、俺の字だ。
パイプ椅子には、男が座っていた。
紺のシャツ。膝の抜けたチノパン。ペンキのついた指。二十三歳。
いまの客を送り出したところだった。札を押し出したのは、この手だ。俺がこの二週間で覚えた手つきだった。おばさんに教わった手つきでもある。柔らかく、押しつけがましくなく、それでいて断らせない角度。
俺は三歩手前で足を止めた。
いつだったか、看板の前で足を止めた客がいた。元祖ってことは本家があるんですか、と訊いて、答える前に信号が青になった人。
あります、といまなら答えられる。
男が顔を上げた。俺を見て、少しも驚かなかった。
驚かない顔。値踏みされない顔。この程度は日常だという顔。俺がこの二週間、鏡の前で練習した顔だった。
男は立ち上がって、俺に向かって、丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
俺の声だった。
「うち、本家です。元祖さんは、表の通りでやっとります」
やっとります、と言った。その表の看板を、俺がいま小脇に抱えているのを見ながら。
俺は路地を出て、自分の場所に行った。
渡辺通り沿いの歩道、デパートの正面、地下街に下りる階段の裏。
何も変わっていなかった。誰も立っていない。何も立てられていない。二十七日ぶん誰も止まらなかったあの階段の裏が、今朝も空いたまま、俺を待っていた。
路地の口までは、四十歩もない。
その四十歩を、俺は一度も曲がったことがなかった。
路地に戻ると、男は札の並びを直していた。指の動かし方まで同じだった。
「座らんですか」と男は言った。「椅子は二脚あります」
俺は座らなかった。立ったまま訊いた。
「あんた、いつからおる」
「三日前です」
「どこから来た」
「来とらんです。ここにおりました」
嘘をついている顔ではなかった。というより、俺はこの顔が嘘をつくときの動きを知っている。動いていなかった。
「帳面のことは」
「六行。母が弐、娘が壱、大上大介が壱、座布団が六、坂口方の員数が七、元祖天神大上屋の員数が七」
男はよどみなく言った。俺が二週間開かなかった帳面の中身を。
「あんた、それを何やと思う」
「うちの店の、目録でしょう」
目録。
俺は、その言葉を聞いた瞬間に、自分が何を書いたのかを理解した。
員数、と俺は書いた。七、と書いた。
何を七つ数えるのかを、書かなかった。
あの晩、俺は住居ではなく屋号で受けた。家なら家人を数える、店なら在庫を数える——そこまでは合っていた。合っていたが、店に属するものは在庫だけではない。看板がある。机がある。椅子がある。値札がわりの紙がある。帳面がある。
そして、店番がいる。
「あんたは」と俺は言った。「何番目や」
男は少し考えて、こう答えた。
「勘定に入れてもらえるなら、たぶん、二つ目です」
その日、俺は男を表に連れてきた。目の届かんところに置いておく気には、どうしてもなれなかった。
階段の裏に、椅子が四脚。客が来るたび、二人で応対した。同じ声で同じ説明をする店員が二人いる店は、はっきり言って気味が悪い。それでも札は売れた。売り上げは、一人でやっていたときのちょうど二倍だった。
夕方、看板を下ろすときに、俺は言った。
「あんたを捨てたら、どうなるか分かるやろ」
「明日、二人になります」
「そうやな」
「明後日には四人です」
俺たちは同じ計算をしていた。当たり前だ。同じ頭だ。
その晩、俺は安藤さんに電話した。
全部話した。看板が二枚あること。店番が二人いること。自分が「員数 七」と書いて、何を数えるかを書かなかったこと。
安藤さんは、最後まで黙って聞いた。それから言った。
「員数ば書くときは、何を数えるか書かんといかん」
「……はい」
「お前は数だけ書いて、何を、とは書いとらん。書いてないもんは、向こうが決める。書いてないもんは誰のものでもない——前にも言うたな」
言った。あのとき俺は紙袋を抱えていた。
「消せますか」
「捨てられんもんは、消しても捨てたことになるかもしれん」
「じゃあ、どうすれば」
「書き足せ」と安藤さんは言った。
「お前の流儀は帳簿やろが。帳簿は、消して直すもんやなか。書き足して直すもんや」
電話の向こうで、缶を開ける音がした。今日はちゃんと飲むらしい。
「大上。ひとつだけ言うとく。内訳に人を入れたら、お前はそれを一生抱える。俺と同じになる」
「安藤さんは、後悔しとるとですか」
少し間があった。
「しとらん。しとらんが、名前が消えた」
俺は何も言えなかった。
「気づいたときには、下の名前がなかった。抱えとるもんが、少しずつ食う。俺はもう、自分が何ていう名前やったか思い出せん」
あの人が個人情報を隠しているのだと、俺はずっと思っていた。隠していたのではない。もう無いのだ。無いものを、あるふりで守っていたのだ。
「大上」
「はい」
「その二つ目は、お前の顔ばしとるんやろ」
「しとります」
「なら、名前も同じや。書いたら、どっちの名前が食われるか分からんぞ」
翌朝、六時に、俺は渡辺通り沿いに立った。
看板が二枚。テーブルが一つと一つ。椅子が四脚——どちらにも二脚ずつ。紙が二枚。帳面が一冊。そして、俺が二人。
男は先に来ていた。ペンキを塗り直していた。俺が買ってきたのと同じ色を、どこかで買ってきたらしい。
「おはようございます」
「おはよう」
俺はテーブルに帳面を置いて、開いた。
六行の左は、白いはずだった。
七行目が、書いてあった。
大上大介 渡 壱
俺の字だった。
渡し、と読める。
うちの帳面に、渡すという言葉を書いた覚えはない。書くはずがない。そもそも、渡せると思っていない。入れたものは入れたきりで、うちは返す店ではないと、客にもそう言ってきた。
寝ぼけて書いた、で済ませられたら楽だった。
だが、この帳面はそういう物ではない。開けば重い。頻繁に書く物でもない。坂口の家で六行、それきりだ。六行のうち、いつ、どこで、どんな顔をして書いたかを、俺は全部言える。二週間開かなかったのも、開けば読んでしまうからで、読めば眠れなくなるからだった。
書いていないものが、書いてある。
俺はパイプ椅子に座り直して、順番に考えた。
この字を書ける人間は、この世に二人しかいない。俺と、俺の字を書ける男だ。振り返ると、そいつは看板にペンキを塗っている。帳面は俺の鞄の中にあって、鞄は薬院のアパートにあった。あいつが触った隙はない。
なら、書いたのは帳面だ。
そう置いた途端、筋が通ってしまった。
三日前、あの男はあの路地に現れた。前触れもなく、看板と机と椅子を揃えて、俺の字で書いた値札まで持って。どこから来たのか。帳面しかない。
俺が最後に書いた行は、元祖天神大上屋 員数 七。屋号で七を受けた。受けた以上、うちの店には七つ要る。看板があって、机があって、椅子があって、値札の紙があって、帳面があって——そして、店番がいる。
その場に足りないぶんを、帳面は増やした。そして、増やさずとも出せるものが、一つだけあった。
誰であるかが決まっている品は、六行のうち一つしかない。
大上大介 壱
名前で書いたのは、あれ一度きりだった。あのとき俺は、他人の家の余りものとは違うと思って、名前を書いた。選ばずに済ませる書き方を知っていながら、自分にだけは使わなかった。
出したなら、出したと書かねば勘定が合わない。だから帳面は、渡 壱、と書いた。
筋は通っている。
通っているから、俺は指先が冷たくなった。
俺は一度も、この帳面から物が出せるとは思っていなかった。試す気にもならなかった。
帳面のほうは、知っていた。
筆を持ってから、しばらく考えた。
抱えるか、切るか。切れば倍になる。倍になったものを切れば、また倍になる。この街に俺の顔が四人、八人と増えて、全員が同じ屋号を名乗って、同じ札を売る。想像したら、少しおかしくなって、笑った。
男も同じところで笑っていた。
「なあ」と俺は言った。「あんた、名前は」
「大上大介です」
「二人おったら不便やろ」
男は少し黙って、それから、俺の看板のほうを見た。
「じゃあ、あんたが元祖でよかです」
俺は筆を下ろした。
元祖天神大上屋 員数 七 内訳
看板 弐
椅子 弐
帳面 壱
店番 弐
二、二、一、二。合わせて七。
机は二つとも外した。脚が一本ぐらつくあれは、いつか買い替える。
椅子も、四脚あるうちの二脚しか書かなかった。書いたのは、店番が座るぶんの二脚だ。残した二脚は、客が座るためのものだ。客の椅子を店の員数に入れてしまえば、座った客ごと数えられかねない。それだけは、どうしても嫌だった。
買い替えられるものと、客のためのもの。その二つを勘定の外に置いておく。それくらいの逃げ道は、作ってもいいはずだ。
書き終えた瞬間、街の音が一段静かになった。
いや、静かになったのは街ではない。帳面だ。数えるのをやめたのだ。看板を数え、椅子を数え、帳面を数え、店番を数えて、七。足りているものを、それ以上数える理由はない。
パイプ椅子の脚が、じ、と鳴った。
「元祖さん」と本家が言った。「今、なんか」
「うちの店が、できあがった」
俺は自分の名前を確かめた。大上大介。ちゃんとあった。言えた。書ける。
向こうも同じことをしているのが分かった。同じ顔で、同じように、少しほっとしていた。
「明日から、あんたは裏に戻ってくれ」と俺は言った。「表は、俺が立つ」
「どうぞ」と本家は言った。「元祖さんが表やないと、通りません」
その日から、渡辺通り沿いが元祖、一本裏が本家として回りだした。裏は人通りが表の五分の一もない。それでも二軒出すのは、片方が現場に出ても店を閉めずに済むからで、売り上げの九割は表が稼ぐ。
「あんた、なんで敬語なんか」
「どっちかが店主やないと、客が困ります」
「同じ顔やけどな」
「同じ顔やけん、決めとかんとです」
決めておかなければ、向こうが決める。この二日で俺が痛い思いをして覚えたことを、こいつは最初から知っている。当たり前だ。同じ頭だ。
その日の売り上げは、一万二千円だった。二人で割ると六千円。家賃にはまだ足りないが、今晩の飯には十分だ。
夕方、缶コーヒーを二本買って戻ると、本家がテーブルの上を片づけていた。俺は一本を差し出した。
受け取って、そいつは言った。
「俺は、いつまでおればよかですか」
「員数に入っとるけん」と俺は言った。「俺が店ばやっとる限りは、ずっとや」
そいつは笑った。俺の笑い方だった。
いつかの客の問いに、いまなら答えられる。
元祖はあります。本家もあります。どっちも、うちです。




