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第二話 坂口方 員数 七

 店を閉めてアパートに帰ってきた夜、十一時過ぎに電話が鳴った。

坂口(さかぐち)遥(はるか)さんだった。

「大上さん。ひとつ、報告があります」

「はい」

「私が、二人おります」

俺は立ち上がった。四畳半の畳の上で、意味もなく立ち上がった。部屋の隅には、口を折った紙袋が置いてある。

「今、どっちが喋りよるとですか」

「分かりません」と彼女は言った。「どっちも、そう言うとです」

電話の向こうで、たしかに同じ声が「そうです」と重なった。ずれずに、ぴったり重なった。

母が三人、遥さんが二人。五人。

あの家がいくつまで数えるつもりなのかを、俺は知らない。知らないまま、数だけが増えていく。

「触らんでください。追い出さんでください。朝いちで行きます」


 電話を切って、俺は履歴をもう一段さかのぼった。登録名のない番号。今度は迷わなかった。迷わないのが成長なのか、単に肚が据わっただけなのかは分からない。

安藤さんは三回目で出た。昨日より一回遅い。つまり、少し安心されている。

「五人になりました」

「……人が増えたとか」

「依頼人が二人です」

沈黙があった。缶コーヒーを持ったまま何もしていないときの、あの立ち方が目に浮かんだ。

「数が揃うたら、どうなるとですか」

「家が一軒ぶん、完成する」

「完成」

「こういうとは、たいてい、昔あった形に戻ろうとするけんな。中身が全部入れ替わっとってもよかと。数さえ合えば、家は満足する」

「その数は、いくつですか」

「分からん」と安藤さんは言った。「そこは、お前が現場で確かめろ。数が分からんまま帳尻ば合わせようとするな」


 俺は紙袋を見た。ふくらんだ口を折って、部屋の隅に置いてある。中には箸と湯呑みとスリッパと歯ブラシと、俺のスニーカーが二足。二階の座布団は持って帰れなかった。あの紙袋に、崩れかけた座布団の山は入らない。

「安藤さん。これ、俺が引き取ったやつ、いつまで持っとけばよかとですか」

「捨てられんのやろ」

「捨てたら倍になります」

「なら、ずっとや」

平らな声だった。責めてはいない。事実を言っている。

「大上。お前がやったとは、引き取りやない。預かりや」

紙袋の口が、少しだけ開いていた。折ったはずの口が。

「屋号ば名乗って場は動かした。そこは大したもんや。けど、名乗っただけで、どこにも書いとらん。書いてないもんは、誰のものでもない。誰のものでもないもんは、隙間から数え直される」

「……どこに書けば」

「知らん」と安藤さんは言った。「俺は型で封じる。お前の流儀は、俺の流儀やない」

突き放されたのだと思った。実際そうだった。ただ、この人が「お前の流儀」と言ったのは、三ヶ月の弟子入りを通して、初めてだった。


 翌朝、俺は新天町(しんてんちょう)の文具店に行った。

シャッターの上がったばかりの、古い店だ。安藤さんの言い方を借りるなら「誰の記憶にも残らない」種類の店。俺は棚の前に十分立っていた。大学ノートが百八十円。バインダーが四百円。その下の段に、和綴じの帳面が何冊か重ねてあった。表紙は渋い紺で、左上に白い題箋が貼ってある。何も書いていない。罫線は縦。値札は千八百円。

一冊取ると、思ったより軽かった。紙を糸で綴じただけの重さだ。

残っていた現金は二千百円だった。

俺は帳面を買った。おかずは、また今度でいい。


 警固(けご)の家は、朝の光の中で、昨日よりさらに小さく見えた。

三和土(たたき)に俺のスニーカーはなかった。昨日引き取ったからだ。書いていないから預かりにすぎないと言われたが、それでも、増えてはいなかった。

台所には母親が三人。廊下には遥さんが二人。五人が同じ距離をとって立っていて、五人とも俺を見た。

誰も泣いていなかった。それがいちばんつらかった。三日、この人たちは黙って、増やされた家人と日常を続けている。

「大上さん」と遥さんの片方が言った。「私、会社に行かんといかんとです。今日は月末やけん」

「もう一人は」

「もう一人も、行くて言いよります」

二人とも行けば、明日は経理が二人いる会社ができる。行かせるわけにはいかない。かといって片方を家に残せば、それは選ぶことになる。


 俺は帳面を出した。

千八百円の、和綴じの帳面。紺の表紙をめくると、まっさらな縦罫が並んでいる。右の端が一行目で、書けば書くほど左へ進む。その一行目に、誰も何も書いていない。当たり前だ。買ったばかりだ。

押さえていた手を緩めると、頁が閉じかけた。新しい和綴じには、まだ開き癖がついていない。俺は折り目を親指で押さえたまま、鞄から筆ペンを出した。五人の目が、俺の手もとに集まっていた。

うちは──元祖天神大上屋は、祓う商売ではない。抱える商売だ。

安藤さんは若い頃に一つ抱えて、以来ずっと、それを増やさないために断り続けてきた。俺は看板を立てて、抱える先を店(・)と呼んだ。呼んだからには、帳面がいる。

俺は廊下に膝をついて、床に帳面を置いた。短い祝詞をあげた。八文字。

それから、声に出して言った。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

家が、こちらを見た。今度は逸らさなかった。逸らさずに、待っていた。書くのを待っていた。

問題はここからだった。

人を書くには、名前がいる。だが名前を書けば、それはこ(・)の(・)人(・)を(・)引(・)き(・)取(・)る(・)と決めることになる。三人の母のうち誰を、二人の遥さんのどちらを——選ぶな、と安藤さんは言った。決めた瞬間、決めたほうが偽物になる。

俺は筆を持ったまま、五人を見た。

この家は、ずっと数の話をしている。何か、誰か、ではなく、いくつ、の話を。箸が七膳になったのも、靴が増やされていたのも、母が三人になったのも、全部、数の話だ。

なら、こっちも数で答えればいい。

俺は一行目に書いた。


  坂口方 母 弐


 名前は書かなかった。誰、とも書かなかった。ただ、余っている二つを引き取ると書いた。

台所で、湯呑みが一つ、流しに落ちて割れた。

母親は、一人になっていた。

どの一人かは、分からない。分かると言えば嘘になる。

二行目に、俺は書いた。


  坂口方 娘 壱


 廊下の遥さんが、一人になった。残った一人は、しばらく自分の手のひらを見ていた。それから顔を上げて、「私」と言いかけて、やめた。

やめてくれてよかったと思う。訊かれたら、俺は答えられなかった。

帳面を閉じると、ずしりと重かった。本当に重くなったわけではない。存在感、とでも言うのか。それが増していた。

三人ぶんが、この中にいる。

「大上さん」と遥さんが言った。「終わったとですか」

「増えたぶんは、引き取りました」

引き取っただけだ。増えるのが止まったわけではない。この家がなぜ数え続けるのか、その数え癖そのものは、まだ二階の八畳間にある。俺はそれを封じていない。封じ方を知らない。


 残金の三万円は、玄関で受け取った。彼女は財布から新しい封筒を出して、両手で渡してきた。

「あの、ひとつだけ訊いてよかですか」

「はい」

「私は、本物ですか」

俺は帳面を抱えたまま、しばらく黙っていた。

安藤さんなら、この沈黙で断る言葉を選ぶのだろう。俺はまだそこまで器用ではない。

「うちは、そういうのは扱っとらんとです」と俺は言った。「うちが扱うとは、数だけです」

彼女は少し笑った。三日ぶりに笑ったような笑い方だった。


 薬院(やくいん)のアパートに帰り、夜、電気を消して床につくと、台所で、湯呑みを洗う音がした。

俺は起き上がらなかった。数えなかった。

ただ、天井を見ながら、三万円のうちいくらを明日のおかずの材料費にするか考えていた。商売というのは、そういうものだ。


 翌日の昼、安藤さんから電話があった。この人からかかってきたのは、弟子だった三ヶ月を含めて初めてだった。

「金は取ったとか」

「三万、もらいました」

「まだ終わっとらんぞ」

分かっている。俺がやったのは、増えたぶんを引き取ったことだけだ。数える癖には、指一本触れていない。あの家の二階には、まだ、数えるものが残っている。

「放っといたら、どうなるとですか」

「数え続ける。今度は隣かもしれん。数える側は、家に住んどるわけやなか。数に住んどるけん」


 俺はその日の夕方、坂口の家に行って、遥さんと母親に三日ぶん宿を取ってくださいと言った。二人は顔を見合わせた。俺は封筒をそのまま返した。昨日もらった三万円だ。

「これ、依頼料です」

「依頼料は、こっちが払うとでしょう」

「今からうちが借りるとは、この家です。三日ぶんの家賃と思うてください」

遥さんは何か言いかけて、やめた。この人はよく、言いかけてやめる。俺はそれに助けられている。


 二人が出ていったあと、家は静かになった。

人が誰もいない家の静けさというのは、たいてい落ち着くものだが、この家は違った。静かになったぶん、数えるものが減って、手持ち無沙汰になったような静けさだった。

俺は玄関に座って、待った。

九時を過ぎたころ、三和土に、俺のスニーカーがもう一足あった。

十時になって、廊下の奥に、人が立った。

紺のシャツ。膝の抜けたチノパン。ペンキのついた指。寝不足を顔に貼りつけた、二十三歳の男。

俺だった。

向こうも同じ顔をしていた。同じ顔で、同じだけ怯えていた。たぶん向こうもこう思っている——どっちが本物か分からない、と。

「あんた」と俺は言った。声は震えなかった。震えなかったのが、逆に嫌だった。

「あんたは、いくつめや」

向こうは答えなかった。あいつも俺だからだ。俺が答えられないことは、あいつにも答えられない。

母と娘は、もう引き取った。この家に残っている人間は、俺だけだ。俺が一人。増えて、二人。

この家は、俺だけで埋めるつもりらしい。いくつ要るのかは、相変わらず分からない。分からないまま、明日は三人になる。

選ぶな、と安藤さんは言った。決めた瞬間、決めたほうが偽物になる。

俺は帳面を開いた。筆を持つ手が、少しだけ止まった。

名前を書けば選ぶことになる。数を書けば選ばずに済む。分かっている。分かっているが、いま書こうとしているのは、他人の家の余りものではない。

俺は書いた。


  大上大介 壱


 廊下の奥の男が、一度だけ俺を見た。

恨んでもいないし、助けを求めてもいなかった。ただ、承知したという顔だった。そういう顔をされると、こっちのほうが引き取られたような気になる。

男は消えた。消えたというより、帳面が重くなった。

三人ぶんだったものが、四人ぶんになった。


 俺は二階に上がった。

八畳間。仏壇。崩れかけた座布団の山は、昨日のまま残っていた。

紙袋には入らなかったものだ。両手で三枚が限度で、二往復しても運びきれないと踏んで、俺は見なかったことにした。そもそも、元の数も分からない。

つまり、ここにはまだ、引き取っていないものが残っている。

俺は帳面を開いた。

嵩は関係ない。帳面に要るのは、品名と数だけだ。両手で持てるかどうかは、うちの商売の条件に入っていない。

品名と、数。

初めてこの部屋に上がった日、俺はこの山を数えなかった。数えたら足が動かなくなる気がしたからだ。

俺は膝をついて、山を数えた。色が褪せて、角が丸くなって、綿の寄ったところが硬い。どれが増やされたものかを見分けようとして、途中でやめた。古い座布団というのは、もともとどれも似ている。

六枚あった。

元が何枚だったのかは、やっぱり分からない。分かるのは、いまここに六枚あるということだけだ。うちが引き取れるのは、あるものの数でしかない。

足は、動かなくならなかった。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」


  坂口方 座布団 六


 積まれていたものが、音もなく無くなった。畳の目が、そこだけ白く残っていた。


 がらんとした部屋になって初めて、仏壇の脇に写真が立てかけてあるのが見えた。

手にとってみると、古い写真だった。色が飛んで、全体が茶色い。この家の前庭で撮ったものらしく、いまはプランターが三つ置いてあるあたりに、七人が並んでいる。

真ん中に、和服の年寄りが二人。その後ろに、背広の男が二人と、割烹着の女が一人。前に、子どもが一人。そして端に、まだ十六か七の、痩せた娘が一人立っている。仏壇の遺影と同じ目をしていた。

嫁に来たばかりの、坂口の祖母だろう。

七人。

俺はしばらく、その写真を持ったまま立ち尽くしていた。

遥さんの言葉を思い出す。

箸が七膳。引き取った箸は五膳で、残った箸は二膳。箸は、七人分から増えていなかった。

この家が数えているのは、春までの三人でも、いまの二人でもない。いちばん人が多かったころの数だ。家は、最後の形ではなく、満ちていた形を覚えている。だから三人が二人に減ったから始まったのではない。ずっと足りなかったものが、あの日に堰を切っただけだ。

あの日——四十九日の、次の日。

四十九日は、七七日(なななのか)ともいう。七日を七回数えた日だ。

七を数える家に、七を七回数え終わった日、手をつけた。

偶然だろう。その偶然が、この家の何かを起こしたのだ。


 俺は写真を仏壇に戻して、その前に座り直し、短い祝詞をあげた。八文字。

家が、こちらを見た。

「あんたに、名前はなかとやろ」と俺は言った。「あるとは、数だけや」

返事はない。ただ、部屋の四隅が、少しだけこちらへ寄った気がした。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

筆を下ろす。


  坂口方 員数 七


 畳が鳴った。柱が鳴った。仏壇の鈴が鳴って、鳴りやんだ。

それきり、家は何の音も立てなくなった。ただの、少し古い、木造二階建てになった。


 俺は帳面を閉じた。

閉じてから、自分が何をしたか気づいた。

七(・)は、消えたのではない。移ったのだ。

この帳面には、いま七(・)が入っている。数えるものは、家に住むのではなく、数に住む。安藤さんはそう言った。だとすれば、こいつが次に数えるのは——

薬院のアパート、二〇三号室。住人、一人。

あと六つ。


 俺は階段の途中で座り込んだ。三日ぶんの睡眠不足と、七(・)の重みと、たったいま自分で自分を一人引き取った事実が、まとめて背中に乗ってきた。

帳面を開き直した。

三ヶ月で、型は全部覚えた。その型に、この家では一つも出番がなかった。使わないまま抱えているものを、在庫という。

在庫、と口の中で繰り返した。

帳面に書いてあるのも、在庫だ。引き取って、抱えている。

なら、この帳面に入った七(・)は、何を数えるのか。

俺は「坂口方 員数 七」の左に、もう一行、書き足した。


  元祖天神大上屋 員数 七


 家に住むなら、人や物を数える。

店に住むなら、数えるのは在庫だ。

俺は自分の住所を書かなかった。屋号を書いた。ベニヤ板に千五百円で書いた、あの屋号を。

帳面が、ことりと鳴った。それだけだった。


 翌朝、鞄を開けると、留めの札が二枚入っていることに気がついた。

坂口家から増えた物を引き取ったとき、鞄の中にあった札は全部使ったはずだ。

あの仏壇に貼った札だ。俺についてきたのだろう。スニーカーと同じことが、鞄の中でも起こっていたのだ。

二枚の札を手に取り、眺めてみる。同じ角度、同じ皺、同じ糊のはみ出しかた。やはり、同じ札だ。

帳面を見る。増やしたのは、坂口家にいたあいつだ。そして今、あいつはこの帳面にいる。

帳面の中にいるあいつは、どこで、何を増やすのだろうか。

手の中の札に視線を戻し、頭の中で数を一つ足してみた。二枚が、三枚になった。はじめからここにいた、という顔で。

材料費は、ゼロだ。開業以来ずっと胃の底にあった重石が、すっと軽くなるのが分かった。


 その日の夕方、渡辺通り沿いに看板を立てていると、安藤さんが来た。買い物帰りのような顔で、量販店のズボンで、スーパーの紙袋を提げて。

俺のテーブルの上を見て、札の枚数を見て、それから俺の顔を見た。

「増やせるとか」

「はい」

安藤さんは、缶コーヒーをテーブルに一本置いた。奢りらしい。この人が何かを人にやるのを、俺は初めて見た。

「大上。増やしたもんは、返せんぞ」

「知っとります」

俺は帳面を、テーブルの下の紙袋の横に置いた。

「うちは、引き取る店ですけん。返す店やないとです」

安藤さんは何も言わずに歩いていった。三歩目で、こちらを振り返らずに、片手を上げた。


 パイプ椅子に座ると、日常に戻ってきた気がした。前にもそう思って、気がしただけだった。

テーブルの下の帳面を見た。

あの家は、戻ってこない人を待っていたのではない。

そんな優しいものではなかった。あれが欲しがっていたのは、いちばん満ちていたころの数だ。数さえ揃えば、中身は何でもよかった。

いつも家にいる人ほど、増やしやすい。だから母が先に増えて、遥さんが遅れた。俺が増えたのは、あの晩、家に俺しかいなかったからだ。

甘かった。俺はどこかで、あの家にも心があると思っていた。

あれは人の理屈で動いていない。数が合うまで、合わせるだけだ。

だから帳面に移せた。あいつは数を区別しない。求める数がそこにあれば、家でも、ビルでも、紙でもいい。

帳面を手にとって、開く。


  坂口方 員数 七


 ほかの行より、ひときわ重い。ただの字のはずなのに、あいつはそこにいた。

その行の右へ、目を移した。

いま、帳面には六行ある。六行のうち、氏名で書いたのは一行だけだ。母でも娘でもなく、座布団でも員数でもなく、氏名で。


  大上大介 壱


 その行を書いたのが本物のほうだったかどうかは、分からない。

分かると言えば、嘘になる。


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