第一話(2) 元祖
鞄からスマホを出して、履歴を出した。登録名のない番号。二十八日間、一度も押さなかった番号。
押した。
二回目の呼び出し音で出た。この人が二回で出たことは、弟子だった三ヶ月で一度もなかった。つまり、待っていたということだ。
「安藤です」
「……大上です」
息を吸う音が聞こえた。それだけで、この人が全部察したのが分かった。俺が何を受けて、どこへ行って、どうなって電話しているのか。
「大上」と安藤さんは言った。声はいつもと同じ、平らな声だった。
「今からひとつ訊く。落ち着いて答えろ」
「はい」
「お前は今日、あの家に何人で行った」
「一人です」
言ってから、玄関を見た。
スニーカーが二足、揃っている。
「……一人で、行きました」
「そうか」と安藤さんは言った。「なら、まだ外にある」
外にある。俺の中にはまだ入っていない、という意味だと、少し遅れて分かった。
「そこは家か」
「はい」
「これから言うことを、順番どおりにやれ。理由は訊くな」
「はい」
「玄関の靴に触るな。数えるな。捨てるな。片方を履くな。電気は点けたままにしろ。冷蔵庫を開けるな。風呂の水は張るな。それから」
少し間があった。
「鏡に布をかけろ。手ぬぐいでもタオルでもいい。二枚あるなら、二枚とも同じ布でかけるな」
俺は言われたとおりにした。洗面所の鏡にバスタオルをかけ、玄関の姿見——不動産屋が置いていった安物だ——にはTシャツをかけた。かけながら、この二つが同じ布でないことを、俺は必死で確かめていた。自分が何を恐れているのかも分からないまま。
「終わったら、部屋の真ん中に座れ。何もするな。三十分で行く」
「安藤さん、俺は」
電話は切れていた。
二十六分だった。
外階段の四段目が鳴って、ノックが二回。ドアを開けると、安藤さんが立っていた。紺のジャンパーに、量販店のズボン。手には近所のスーパーの紙袋。誰の記憶にも残らない格好をしている。三ヶ月一緒にいて、俺はこの人の私服を思い出せたことがない。
安藤さんは、俺の顔を見なかった。
三和土のスニーカーを見て、それから廊下の奥を見て、「ああ」と言った。医者が検査結果を見たときみたいな「ああ」だった。
「上がるぞ」
紙袋から出したのは、札でも数珠でもなく、白い布切れだった。安藤さんはそれを三和土に敷いて、二足のスニーカーの、片方をその上に載せた。
「どっちがお前のか、分かるか」
「分かりません」
「上出来だ。分かると言う奴は、もう入られとる」
安藤さんは布の四隅をつまんで、包んだ。祝詞はあげなかった。札も貼らなかった。ただ、包んだ。
そのとき、玄関の空気が、ほんの一瞬だけ薄くなった。
息が楽になったとか、寒くなったとか、そういうことではない。今しがた自分が何を見ていたのか、それが思い出せなくなった。俺はさっきまで、三和土にあるものを数えていたはずだ。何足あった。何を見た。
思い出せない。
安藤さんの手の中には、もう何も包まれていない布だけがあった。
封印した怪異の力を引き出して使う——型としては聞いていた。実際に見たのは、初めてだった。見たのかどうかも、正直、あやしい。
「一足に戻った」と安藤さんは言った。
三和土には、スニーカーが一足だけ揃っていた。俺のものだった。今度は、なぜか、そうだと分かった。
部屋に上がって、安藤さんは冷蔵庫の前に立ち、開けずに手のひらを当てた。それから鏡の布を確認して、俺の前に座った。
「安藤さん」
「なんや」
「なんで、そこまで分かるとですか」
電話でこの人が並べた手順のことだ。鏡に布をかけろ。二枚あるなら同じ布でかけるな。冷蔵庫を開けるな。風呂の水は張るな。あれは初めて聞く話を初めて聞いたまま喋る人間の喋り方ではなかった。
「調べたけん」
「調べた?」
「断る前に調べる」と安藤さんは言った。「断るとは、この稼業でいちばん間違うたらいかんとこや。受けるほうは、間違うても死ぬだけやけんな」
依頼人から電話をもらって、あの人は二日かけたのだという。家の登記を取って、いつ建ったか、いつ誰が死んだかを見て、近所の年寄りに世間話を仕掛けて、それから断った。断ったあとも、念のため作法だけは書き出して手元に置いていた。
「似たもんば、二十年前に一遍見た。同じもんやなかけど、作法は似とる」
二十年前に何を見たのかは、言わなかった。
俺は、二万円を受け取って、地下鉄に乗って、その家に上がった。調べたものは何もない。築年数も知らない。何を訊いたかといえば、おばあさんの部屋はどこですか、だけだ。
三ヶ月で型を全部覚えた。覚えていないものが、まだいくらでもあった。
「大上」
「はい」
「今日、いくらもらった」
「……前金で、二万」
「返せるか」
俺は答えられなかった。二万円は封筒に入ったまま鞄にある。返そうと思えば返せる。だが、返してどうなる。
「返して、それで終わりですか」
「終わりにできるかは、俺にも分からん」と安藤さんは言った。「いちばん多い品で、箸が七膳やろ。なら、あの家が合わせよる数は、少なくとも七以上ある。いくつかは、俺には分からん。次に何が入るかは、家が決める。お前は今日、その家に自分の靴を置いてきた」
「置いてきたら、どうなるとですか」
安藤さんは、しばらく黙っていた。
俺はその沈黙を知っている。怒っているときの沈黙ではない。断る言葉を選んでいるときの沈黙だ。
この人はいま、俺を断ろうとしている。
断られる前に喋ってしまおうと思った。喋っている間は断られない。
「明日、朝いちで行きます。留めの札はまだ五枚あるし、仏壇のは効いとりました。空気が、こっちから目を逸らしたけん」
「大上」
「目印も貼りました。動かんかったとは、濃すぎるけんです。それは分かっとります。だけん明日は」
「大上」
二度目で、俺は黙った。
「その家に、母親は何人おった」
「……一人です」
「昨日は二人おったと、依頼人は言うたとやろう」
言った。看板の前で、俺の目をまっすぐ見て、そう言った。
「一人はどこに行った」
俺は答えなかった。答えられなかった。俺はそれを訊かなかった。二万円を受け取って、地下鉄に乗って、家に上がって、仏壇に札を貼って、靴下で帰ってきた。その間ずっと、俺は自分の段取りのことだけを考えていた。
安藤さんは、責めなかった。責められるより、こたえた。
「たいていは、物は置いとけば居着く。人は居着かん。三日で消えるか、家から出されるかのどっちかや。出されたら、それは」
「……捨てた、ことになる」
「そうや」
「安藤さん。なんで、人だけ消えるとですか」
安藤さんは、湯呑みも茶もない部屋で、湯呑みを置くような手つきをした。
「家が数えよるとは、人やなか。人のぶんの道具や」
箸。湯呑み。スリッパ。座布団。歯ブラシ。玄関の靴。増えたものを並べてみれば、全部が一人ぶんの持ち物だった。所帯の充ち具合を、あの家は道具の数で測っている。
「箸も茶碗も布団も無い人間は、家から見たら足りとらん。足りとらんもんは、三日ももたん」
「じゃあ」
言いかけて、俺は自分で気がついた。
「道具が揃うたら」
「居着く」と安藤さんは言った。「そこまでいったら、俺の手にも負えん」
だったら明日の朝、あの家には母親が二人増える。合わせて三人。
「もう一つある」と安藤さんは言った。「今日、台所におった一人が、元の母親やと、誰が言うた」
俺は口を開けて、そのまま閉じた。
三和土で、俺は自分の靴を見分けられなかった。ペンキの跡まで同じだった。人間だけが例外である理由は、どこにもない。
「あんたは、分かるとですか」
「分からん」と安藤さんは即答した。「分かると言う奴は、もう入られとる。さっき言うた」
この人は、自分の見分けられないものを、見分けられないと言う。それを三ヶ月間、俺は臆病だと思っていた。
「安藤さん」
俺は、いちばん訊きたくないことを訊いた。
「なんで、断ったとですか」
安藤さんは、白い布切れを畳んでいた。四つに折って、また四つに折って、紙袋に戻した。それから、初めて俺の顔を見た。
「俺の中には、増やしたらいかんもんが入っとる」
部屋の空気は動かなかった。冷蔵庫が低く鳴っていた。
「若いころに封じた。封じたまま、力だけ借りとる。あの家に上がったら、家はまず俺を数える。俺を数えたら、中のもんも一緒に数える」
「……二つに、なる」
「一つは封じられとって、一つは封じられとらん」
言い方は平らなままだった。それが余計に悪かった。
この人が慎重なのは、性格ではなかった。持ち歩いているものの問題だった。断れる仕事を全部断ってきたのは、断らなければ街ひとつ道連れになる類の重さを、毎日抱えて生活しているからだった。
俺はそれを一度も訊かず、免許皆伝と訳して、看板を書いた。
「返金してこい」と安藤さんは言った。「あとは俺が、別の人間に振る。心当たりはある」
「俺の靴は」
「……ああ」
安藤さんは、そこで初めて言い淀んだ。
「向こうにあるな」
置いてきた。壁際に、きちんと揃えて。あの家はもう俺を一足ぶん数えている。俺が手を引いても、家は数えるのをやめない。
「引けません」
「引けとは言うとらん。返金してこいと言うた」
「同じことでしょう」
「違う」と安藤さんは言った。「金ば持っとる限り、お前はあの家の稼業の相手や。返せば、ただの、数えられただけの若造になる。若造一人なら、まだ拾える」
拾える、と言った。
俺はその言葉の意味を、理解できなかった。
安藤さんは立ち上がって、紙袋を持って、玄関で靴を履いた。一足しかない三和土で、俺のスニーカーの隣に、この人の靴が並んだ。二足。数として、正しい二足だった。
「明日の朝、俺も警固に行く。家には上がらん。外で待っとる」
「上がったらいかんのに、なんで来るとですか」
安藤さんはドアを開けて、少し考えて、こう言った。
「弟子が中におるけん」
拾える、の意味が分かった。少し泣きそうになった。
朝五時四十分、電話が鳴った。
坂口遥さんだった。声は、看板の前で聞いたときよりずっと落ち着いていた。落ち着いている声のほうが、こういうときは悪い。
「大上さん。今朝、台所に」
息を吸う音がした。
「母が、三人おります」
警固に着いたのは六時二十分だった。
空はもう白い。ゴミ収集車が坂の下を通っていく。こんな時間でも、街は普通に朝をやっている。
夜のうちにまた降ったらしく、坂の舗装が黒く濡れている。
坂口の家から二軒離れた電柱のところに、安藤さんが立っていた。缶コーヒーを持っている。飲んでいる様子はない。持っているだけだ。
「上がるとか」
「上がります」
「策は」
「ありません」
安藤さんは頷いた。ないと言ったことに頷いたのだと思う。
「二つだけ言う。捨てるな。選ぶな」
「選ぶな、とは」
「どれが本物か決めるな。決めた瞬間、決めたほうが偽物になる」
俺は玄関の引き戸に手をかけた。
「安藤さん」
「なんや」
「もし俺が、三人で出てきたら」
安藤さんは缶コーヒーのプルタブを起こして、そこで手を止めた。
「そんときは、俺が三人とも連れて帰る」
三和土には、俺のスニーカーが三足あった。
二足は昨日置いて帰ったもので、一足はいま脱いだものだ。三足とも、右の外側だけ同じだけ削れて、かかとの内側に同じペンキの跡がついて、壁際にきちんと揃えて寄せてある。
昨日から考えていたことが、ここで一つの形になった。
この家は、物を増やしているのではない。数を合わせている。
昨日から今朝にかけて足したのは、靴ではなく、三人目の母親だった。
俺は、もうこの家の勘定に入っている。
台所には、母親が三人いた。
三人とも同じ割烹着で、三人とも同じ位置に立って、三人とも俺を見て「あらまあ」と言った。声が三重にならず、ぴったり重なって一つに聞こえた。それが何よりも怖かった。
遥さんは廊下の壁に背中をつけて立っていた。目の下が黒い。手にはコンビニの袋を持っていた。昨日と同じ、中身の少ない袋。
「ご飯ば、三人ぶん作ろうとしとるとです」
飯を作るのは、道具を使わないとできないことだ。
「作らせんでください。道具ば使わせんでください。俺がおる間、なんもせんでください」
そう言い渡して、俺は二階に上がった。
仏壇の縁に貼った留めの札が、二枚になっていた。
同じ角度で、同じ皺で、同じ糊のはみ出しかたで、二枚。俺の術式が、そのまま数えられていた。効いたのではなかった。昨日この部屋の空気が俺から目を逸らしたのは、諦めたからではない。数え終わったからだ。
三ヶ月で型は全部覚えた。覚えた型は、全部この家では在庫になる。
俺は階段の下に向かって声を張った。
「遥さん。葬式のあと、おばあさんのもの、どうしました」
少しの間があって、返事が来た。
「……捨てました。ほとんど」
「いつ」
「四十九日の次の日です。母が、いつまでも置いとったらいけんて」
箸が増え始めたのは、その週だと言った。
俺は仏壇の前に座った。
この家は増やしているのではない。減らされたことを、受け付けていないのだ。祖母が減った。祖母のものが減った。減ったぶんを、家は律儀に足し直している。足しても足しても足りないのは、足りない一人が、どうやっても戻らない一人だからだろうか。
そして捨てれば倍になる。捨てるというのは、この家にとって二度目の侮辱だから。
だったら、捨てなければいい。
俺は鞄から札を出した。留めが五枚、祓いが四枚、目印が一枚。全部並べて、ペンを取った。安藤さんの型にはない使い方だ。型にないというより、型を教わる前に俺が出ていったので、あるのかどうかも知らない。
札の裏に、俺は書いた。
元祖天神大上屋。
商売をする、と言ったのは俺だ。看板を立てたのも俺だ。だったら、うちには取引ができる。捨てるのではない。棄てるのでもない。屋号のある店が、客から品を引き取る。それは減ることではなく、渡ることだ。
渡った先には、ちゃんと数える人間がいる。
俺は短い祝詞をあげた。八文字。昨日と同じ祝詞を、昨日より早く唱えた。ここから先を、早く言いたかった。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
部屋の空気が、こちらを見た。
昨日と同じだ。ただ、昨日と違って、俺は目を逸らさなかった。
名乗ったからには、あとは足で回るだけだ。うちの商売は、品物のあるところまで行く商売である。
俺は立ち上がって、八畳間を出た。
階段を降りる。一段ごとに、背中で家が見ているのが分かった。逃げていると思われては困る。逃げるのではない。順に回っているだけだ。
台所には、母親が三人。廊下には遥さん。四人が壁際に寄って、黙って俺の手元を見ていた。
箸立ては、流しの脇にあった。
「箸、五膳」
言って、七膳のうちから五膳を抜き、札で包んで紙袋に入れた。数えた。数えていいのだと、このときだけは思った。捨てるために数えるのではなく、受け取るために数えるのだから。
食器棚を開けて、「湯呑み、四つ」。
廊下に戻って、「スリッパ、三足」。
洗面所のコップから、「歯ブラシ、五本」。
一つ引き取るたびに、家の中の空気が一つぶん軽くなった。柱が軋み、二階で、仏壇の鈴が、押されてもいないのに一度鳴った。
最後に、三和土に降りた。
「スニーカー、二足」
どれを取るか、俺は選ばなかった。選ぶなと言われたからではない。選べないからだ。手前から二足に札を貼って、紙袋に入れた。残った一足に足を入れると、それは俺の足の形をしていた。今度もそうだった。
三足あって、二足を引き取って、一足履いて帰る。誰が見ても、勘定は合っている。
台所の三人は、まだ三人だった。
「人は、引き取れません」と俺は遥さんに言った。「うちは、そこまでの店やないとです」
「じゃあ、母は」
「三日です。人は居着かんけん、三日で消えます。それまで——」
そこで、俺は詰まった。
それまで放っておいてください、とは言えない。三人のうち二人を無いものとして扱えば、扱わなかった一人を本物だと決めたことになる。決めた瞬間、決めたほうが偽物になる。
かといって、三人を等しく扱うというのは、三人ぶんの飯を出すということだ。
昨日の夜、安藤さんは言った。箸も茶碗も布団も無い人間は、家から見たら足りとらん。足りとらんもんは三日ももたん。逆に言えば——道具が揃うたら、居着く。
三人ぶんの茶碗を出せば、三人ぶんの居場所を作ることになる。三日で消えるはずのものが、消えなくなる。
俺は台所を見た。
母親が三人、同じ位置に立っている。流しの脇の箸立てには、いま抜いてきた残りが二膳。この家の、元からの二人ぶんだ。
道具を増やさずに、等しく扱う。
やり方は、一つしかなかった。
「遥さん。飯は、あなたが作ってください」
「はい」
「めいめいに盛らんでください。大皿と鍋で出して、めいめいが取るごとしてください。茶碗も箸も、新しく出さんでください。買うのも、うちが引き取ったぶんを戻すのも、絶対にせんでください」
遥さんは、俺の言っている意味を、少し遅れて理解した顔をした。
「……その人らの茶碗ば、作らんように、ですか」
「そうです」
誰の茶碗でもない皿から、三人が同じように食べる。誰も選ばれず、誰にも居場所ができない。それが、この三日で唯一通る道だった。
「あなたは、あなたの茶碗で食べてください」
言ってから、これがいちばん残酷な指示だと気づいた。この家で自分の茶碗を持っているのは、遥さんと、三人のうちの誰かだけだ。
遥さんは、しばらく黙っていた。それから、「消えるとが、本物やったら」と言った。
俺は答えられなかった。答えを持っている人間がこの街に一人だけいるが、その人はいま、二軒先の電柱のところで、飲まない缶コーヒーを持って立っている。上がってこられない理由を抱えて。
「分かりません」と俺は言った。「分かると言うたら、嘘になります」
遥さんは頷いて、台所に入っていった。冷蔵庫が開く音がした。三人ぶんの、朝の音がした。
外に出ると、来たときと同じ電柱のところに、安藤さんが立っていた。目が一度だけ、俺の提げた紙袋に行った。
ふくらんだ紙袋だ。箸と湯呑みとスリッパと歯ブラシと、俺のスニーカーが二足。
「大上」
「はい」
「それ、どこに置くとや」
俺は一度詰まってから答えた。
「うちのアパートに置いとくつもりです」
ほかに置くところがない。
安藤さんはしばらく黙っていた。それから「そうか」とだけ言って、歩き出した。別れの挨拶はなかった。
その背中が角を曲がるまで見送ってから、俺も帰ることにした。これから同居する品を提げて、あの四畳半へ。
その日も、俺は渡辺通り沿いに看板を立てた。ベニヤ板をガードレールに縛って、折りたたみテーブルを開いて、パイプ椅子に座る。
昼の日差しが、ガードレールの茶色を白っぽく見せていた。ろくに寝ていない目には、それがいちいち眩しい。
この椅子に座ると、日常に戻ってきた気がする。まだひと月にも満たない日常だが。
修行を積んだのだから、どんな怪異でもどうにかなると思っていた。覚えた型は、一つも役に立たなかった。俺がやったのは、数を合わせたことだけだ。それも、当たっているかどうか分からない推理を頼りに。
テーブルの下に押し込んだ紙袋を見る。
箸五膳、湯呑み四つ、スリッパ三足、歯ブラシ五本、スニーカー二足。スニーカーは、いま履いているのと同じものだ。増えた生活用品は、二つずつを残して全部持ってきた。
これを、俺は捨てられない。捨てたとみなされるのが怖くて、手元から離せなかった。ここまで提げてきたのも、そのせいだ。
あの家は、足りていた頃に戻そうとしている。
それは果たされることがない。足りない一人は、もう戻ってこないから。
戻らないとは知らずに、律儀に足し続けている。物で済むうちはまだいい。道具が揃えば、人が居着く。だから減らすしかなかったが、足したものを捨てれば、あの家は倍にして返してくる。
しかも、数えた相手のところへは、行った先まで来て数を合わせる。俺の玄関に、俺の靴が二足並んだように。
捨てずに減らすには、店が引き取ればいい。屋号を名乗って、屋号を書いた札に包んだのは、そのためだ。あの家がそれを受け入れたのか、これで増えるのが止まるのかは、まだ分からない。
残金の三万円は、三日後にもらう約束になっている。もらえるかどうかは、三日後の坂口家に何人いるかによる。
日が傾き始めた頃、男が看板の前で足を止めた。
いらっしゃいませ、と言いかけて、顔を見てやめた。
「安藤さん」
誰の記憶にも残らない格好で、無愛想な表情の男。安藤さんだった。
「どうしたとですか」
「別件の帰りや」そう言ったきり、黙ってしまった。じっと看板を見ている。
呆れられているような気がして、少し恥ずかしくなった。
しばらくして、こう言った。
「看板、書き直せ」
「なんでですか」
「元祖の字が薄い。屋号は、はっきり書いとかんと通らん」
通らん、と言った。役所の書類の話をするような言い方だった。
安藤さんが立ち去った後──相変わらず、別れの挨拶もなかった──看板を書き直した。
元祖、の二文字にかかった時間はさらに増えた。
今度はこの二文字が、いちばん黒い。




