第一話(1) 元祖
看板は自分で書いた。
ベニヤ板が九百八十円、油性ペンキが四百二十円、刷毛は百均。しめて千五百円ちょっとで「元祖天神大上屋」の七文字が出来上がった。元祖、のところにいちばん時間をかけた。垂れたペンキを拭いたら、かえって元祖だけ薄くなった。
師匠のところには看板がない。屋号もない。あるのは番号を知らされた人間だけがかけてくる携帯が一台きりで、留守電の挨拶すら吹き込んでいない。安藤さんはそれを自衛と呼んでいた。俺に言わせれば、商売をする気がないだけだ。
こっちは商売をする。
だから看板を立てた。天神、渡辺通り沿いの歩道。デパートの正面、地下街に下りる階段の裏。階段はガラスで囲ってあって、下りていく人の頭が透けて見える。その裏と、地下の駐輪場へ下りる階段口とのあいだが空いている。折りたたみテーブルがリサイクルショップで八百円、脚が一本ぐらつく。パイプ椅子が同じ店で四百円。テーブルには厄除けの札を三枚、風で飛ばないように文鎮がわりの石を載せて並べ、隅に「怪異 ご相談ください」と書いた紙を置く。相談のほうの値段は書いていない。書けるほど相場を知らない。
開業して二十七日になる。
六月の路上は、雨が降っても降らなくても濡れている。降れば看板をビニールで包んで軒下に抱えて座り、降らなければ湿気で紙が波打つ。札が湿るのと、何かを吸うて湿るのとは別物だと安藤さんに教わったが、梅雨のあいだは正直、見分けがつかない。
この二十七日で分かったことが、いくつかある。
ひとつ。ベニヤ板は風で倒れる。ガムテープで歩道のガードレールに縛ってからは倒れなくなったが、代わりに、向かいのビルの警備員に景観がどうこうと言われた。あの人は看板ではなく俺の顔を見て言っていた。
テーブルと椅子は、毎晩そこに出る屋台の親父に頼んで、昼のあいだ荷車の脇に置かせてもらっている。看板だけは持って帰る。ベニヤ板一枚を小脇に抱えて地下鉄に乗る男を、乗客は見ないふりをしてくれる。
もっとも、この通りは夜になれば屋台が並ぶ。届けを出した屋台の列に、届けを出していない露店が一つ紛れたところで、誰も本気で咎めない。天神で商売を始めるなら渡辺通り沿いしかないと決めたのは、そういう計算だった。計算だけは、一人前だ。
ふたつ。三つ隣で店を出している占いのおばさんは、平日でも一日に六人つかまえる。手相と、あとは生年月日で何かをしている。おばさんは怪異の一匹も祓えない。
みっつ。二十七日のあいだに俺の看板の前で足を止めた人間は、四人。うち三人は地図アプリを見ていただけで、残る一人は「元祖ってことは本家があるんですか」と訊いて、俺が答える前に信号が青になった。
本家はない。元祖もない。強いて言えば安藤さんがそれに当たるが、あの人は屋号を持たないので、名乗った時点でこっちが元祖になる。理屈は通っている。
通っていない部分があるとすれば、金だ。
三万円で受けた退治が一件。五千円で受けたお祓いのようなもの——結局あれは怪異ですらなく、ただの水漏れだった——が一件。二十七日で三万五千円。家賃が四万二千円。米は買った。おかずは、まだだ。
札の材料費も馬鹿にならない。安藤さんは自分で漉くところから始めるから元手はほとんどかからないと言っていたが、あれは時間という元手を無視した勘定だと思う。俺は買う。買った札に術式を込める。込めるのは得意だ。三ヶ月の修行で、師匠が長年かけて覚え、磨いてきたという型を、俺は全部覚えた。
テーブルに出しているのは厄除けだけだ。素人が持っても害がないのは、これしかない。身代わりの札で、何か来ればこっちが先に傷む。焼けるか、裂けるか、とにかく形に出る。
相場は三千円から五千円らしい。三千円の値札をつけて、在庫は三枚。売れたところで次が作れないので、正直、売れてほしいのかどうかも自分で分からない。
鞄のほうには、仕事用が入っている。
目印。怪異の根城に目星をつけるための札。あいつらはたいてい、場所や物につく。
留め。怪異の動きを止める札。止めるまでいかなくても、妨害する。俺がいちばん使う札だ。
祓い。文字どおり祓うための札。素人に売るものではない。
祓いを使ったのは開業してから一度きりだ。足を使って、使って使って、やっとの思いで得た三万円の依頼。留めで動きを止めて、祓いを一枚打った。ちゃんと効いた。札が黒くなって、部屋の空気が軽くなって、依頼人は泣いて喜んだ。
ただ、あれが何だったのかは、いまも分からない。
消えたので、確かめようがない。祓いというのはそういう札で、効けば効くほど、後には何も残らない。金はもらった。仕事は済んだ。それでも帰り道でずっと考えていたのは、いま消したものに名前はあったのか、ということだった。
以来、なんとなく打っていない。
このほかにも型はいくつも覚えた。覚えはしたが、紙が要る。紙には金が要る。だから鞄に入っているのは、この三種類だけだ。
数を出してなんぼの品を並べたいと思っても、一枚こしらえるのに紙代がかかる。売るならまとめて刷れる商売でないと話にならない。
覚えました、と報告したのは、五月の終わりだった。安藤さんの仕事場——事務所でも家でもない、月極めで借りている六畳間だ——で、茶をもらいながら。
窓の外はすぐ隣のビルの壁で、昼でも蛍光灯が点いていた。
「そうか」
それだけだった。褒めもしなければ、疑いもしない。湯呑みを持ち上げて、口をつけて、また置いた。
俺は待った。待っても何も来ないので、自分から言った。
「独立します」
安藤さんは湯呑みを置いて、しばらく黙っていた。
あの人が黙るのは、怒っているときではなく、断る言葉を選んでいるときだ。
「やめとけ」
「型は全部覚えました」
「知っとる」
「三ヶ月でです」
「知っとる」と安藤さんは言った。「それが、いかん」
意味が分からなかった。いまも半分しか分かっていない。理由は、それ以上言わなかった。個人情報どころか、この人は理由まで出し惜しみする。
俺はその足でホームセンターに寄って、ベニヤ板と油性ペンキを買った。
歩道を、金曜の夕方が流れていく。西鉄の駅から吐き出された人の群れが、信号で溜まっては、また流れていく。俺の看板の前を、肩と鞄が次々に通り過ぎる。手を伸ばせば触れる距離を、二十七日ぶんの人間が通り過ぎた。誰も止まらない。看板の元祖の二文字は、街灯が点く時刻になると、薄いぶんだけ先に暗くなる。
二十八日目。
土曜の雨が、夕方になって上がった。ビニールから出した看板を、ガードレールに縛り直したところだった。歩道のくぼみには、まだ水が残っている。
その、誰も止まらないはずの流れの中で、一人が止まった。
俺の看板の正面、三歩ほど手前。動かない。地図アプリを見ている手つきではなかった。
女だった。三十くらい。仕事帰りらしい紺のジャケットに、片手にコンビニの袋、もう片手にスマホ。そのスマホを、見ていない。画面を伏せて握っている。
俺は立ち上がった。パイプ椅子が鳴った。
「どうぞ」
言ってから気づいた。椅子は一脚しかない。俺が立つと、彼女に勧める形にはなるが、勧めたところで座らせて自分は突っ立っている拝み屋というのは、たぶん頼りない。俺は中腰のまま、意味のない角度で止まった。
彼女は座らなかった。看板を見て、俺を見て、それからもう一度看板を見た。
「……元祖って、なんの元祖ですか」
「うちが最初です」
「何の」
「天神大上屋の」
彼女は少し黙って、「そうですか」と言った。この二十八日でいちばん長く俺の看板の前に留まった人間になった。
「あの」と彼女は言った。「断られたんです」
心臓が一度、大きく鳴った。
「どこで」
「名前も屋号もない人で。友達の友達に番号だけ教えてもらって、かけたら、話は最後まで聞いてくれたんですけど、うちでは受けられませんって。他を当たれとも言われなくて。それで、天神をうろうろしとったら、看板が出とったけん」
俺は表情を変えなかったと思う。少なくとも、変えないようにした。
番号だけの拝み屋。福岡にそう何人もいない。一人しかいないと言ってもいい。あの人が、最後まで話を聞いて、断った。
断ったということは、儲からないか、面倒か、危ないかのどれかだ。安藤さんの基準では、この三つはだいたい同じ意味になる。
「話してください」と俺は言った。声がひっくり返らなかったのは上出来だった。
彼女の家は警固にある。祖母が四月に亡くなって、いまは母と二人。木造の二階建てで、築年数は知らない。
増えるのだという。
「一日にひとつ、家の中のものが増えるんです」
最初は箸だった。二膳しかない箸立てに、三膳目。母が買ったのだろうと思った。次の日は湯呑みが一つ増えた。その次はスリッパが一足。座布団。歯ブラシ。玄関の靴。どれも見覚えのない品ではなく、家にあるものと同じ柄の、同じ古びかたをしたものが、一つずつ。
「捨てても増えます。捨てた次の日は、二つ増えます」
「今は、どのくらい」
彼女はコンビニの袋を持ち替えた。そこで初めて、袋の中身が空に近いことに気づいた。
「箸が、七膳です」
二膳の箸立てに、五膳。増えたのは箸だけではないというから、この家はもうずいぶん長いこと、毎日ひとつずつ足され続けていることになる。
俺は札の並んだテーブルを見た。買ってきた紙に、俺が術式を込めたものだ。込めるのは得意だ。三ヶ月で型は全部覚えた。覚えた型のどれが、増えるものに効くのか——それは、まだ習っていない。
習っていないが、応用は利く。利くはずだ。安藤さんが慎重すぎるだけで、俺なら。
「受けます」
言ってしまってから、値段を言っていないことに気づいた。相場を知らない。三万と言いかけて、五万と言った。
彼女は財布から二万円を出して、前金です、と言った。手が震えていた。震えている手で数えて、二万円ちょうどだった。
「あの、ひとつだけ」
「はい」
「昨日は、増えたのが箸でも湯呑みでもなくて」
彼女はそこで、初めて俺の目をまっすぐ見た。
「母が、二人おったとです」
彼女は坂口遥といった。名刺は持っていなかった。天神のビルで経理をしていて、残業のない日は七時に家に着くという。
今日は土曜だが、会社に出ていたのだという。急ぎの仕事はなかったと、自分で言った。
その七時に伺いますと言って、俺は看板をたたんだ。ベニヤ板をガードレールから剥がすとき、ガムテープの糊が茶色の塗装に灰色の筋を残した。
地下鉄で一駅。歩いても行ける距離だが、歩けば考える時間ができて、あの番号を押してしまう。
赤坂駅のホームで一度だけ、履歴を出した。名前で登録するなと安藤さんに言われて、番号のまま並べてある。押さなかった。師匠が断った仕事のやり方を訊くのは、弟子の台詞だ。
鞄の中の札を数えた。留めが六枚、祓いが四枚、目印が二枚。手持ちの現金、二万三千円。前金の二万は、まだ封筒から出していない。
向かいの窓に、ベニヤ板を膝のあいだに立てた自分が映っていた。
七時を過ぎても、空はまだ明るかった。
警固の家は、思ったより小さかった。
二階建て、木造、庭というほどでもない前庭にプランターが三つ。表札は「坂口」が一枚。俺は少しほっとした。表札は増えていない。
玄関を開けて、ほっとしたのが早すぎたと分かった。
三和土に、靴が並んでいた。同じサンダルが四足。同じ革靴が三足。女物のパンプスが五足、すべて同じ型で、すべて同じ場所のかかとが同じだけ擦れている。壁際にきちんと寄せてあるのが、かえって悪かった。誰かが毎朝、増えたぶんを律儀に揃えている。
「捨てても、次の日に倍になるけん」と遥さんが言った。「もう、揃えるしかせんとです」
「お母さんは」
「奥です」
台所にいた母親は、六十過ぎの、小柄な人だった。俺を見て、あらまあ、と言い、若い方が来たとね、と言った。若い方。安藤さんが来ていないことを知っている言い方だった。
一人だった。ちゃんと一人だった。
俺は目印の札を一枚出して、廊下の柱に貼った。その場に働いている力に反応する札だ。強く影響を受けた側から傷むので、傷み方を見れば方角が分かるし、どう傷むかで相手の性質も知れる。
三十秒待った。
札は白いままだった。焦げも、濡れも、黄ばみも出ない。
出ないのは、力がないからではない。
濃すぎて差が出ないときも、札は白いままだ。
俺は初めて、少しだけ嫌な気分になった。
「おばあさまの部屋は」
「二階です」
階段を上がった。八畳の和室で、仏壇があり、座布団が積んであった。積んであるというより、重ねきれずに崩れかけていた。数えなかった。数えたら足が動かなくなる気がした。
畳には、箪笥を出した跡が四角く、青く残っていた。
仏壇の前に座って、俺は短い祝詞をあげた。八文字の祝詞だ。祝詞は短いほどいい、長く唱えるのは自信のない証拠だと、師匠は言っていた。
部屋の空気が、こちらを見た。
そうとしか言えなかった。何も起きない。音もしない。ただ、部屋が増やすのをやめて、俺を見た。
三ヶ月で型は全部覚えた。だが、こういうときにどう動くかは、型に書いていない。安藤さんは書かなかったのではなく、教える段になる前に俺が出ていったのだと、そのとき初めて思った。
留めの札を、仏壇の縁に貼った。指が滑って、二度目でようやく貼れた。
部屋の空気が、俺から目を逸らした。
効いたのだと思った。額の汗を拭って、階段を降りて、遥さんに「今日は目印を置きました、明日また来ます」と、いかにも段取りがあるような言い方をした。彼女は何度も頭を下げた。母親が玄関まで送りに出てきた。
靴を履こうとして、俺は止まった。
三和土に、俺のスニーカーが二足あった。
同じ型の、同じ汚れ方をした、右足の外側だけが同じだけ削れた、俺の靴が。きちんと揃えて、壁際に寄せてあった。
背後で、母親が言った。
「あらまあ。もう増えとる」
拝み屋の顔というものを、俺はこの二十八日でだいぶ練習した。驚かない顔。値踏みされない顔。この程度は日常だという顔。
その顔のまま、俺は三和土の靴を見下ろしていた。
「大上さん」と遥さんが言った。「持って帰らんでください」
「なぜ」
「捨てたことになるけん」
そうだ。捨てれば倍になる。ここから持ち出せば、明日この家には俺のスニーカーが四足並ぶ。四足並んだ家に、俺はもう一度上がらなければならない。
だったら、片方だけ履いて帰ればいい。俺のを履いて、増えたほうを置いていけばいい。
俺はしゃがんだ。
左の一足を見る。右の一足を見る。右足の外側が同じだけ削れている。かかとの内側の、去年こぼしたペンキの跡まで同じだった。靴紐の結び目の、片方だけ短い端まで同じだった。
どちらが俺のか、分からなかった。
分からない、というのが、この稼業でいちばん言ってはいけない言葉だということくらいは知っていた。だから言わなかった。代わりに、俺は靴を履かなかった。
「今日は、このままで」
「え」
「触らんほうがよかとです。明日、道具ば持ってきます」
道具というものは、うちにはない。あるのは鞄の中の札が十枚と、二万三千円だ。
俺は靴下のまま三和土に降りて、そのまま外に出た。玄関の引き戸が閉まる音を背中で聞いた。母親が「あらまあ」ともう一度言ったのが、閉まりぎわに聞こえた。
警固の夜道を、靴下で歩いた。アスファルトの粒がいちいち足の裏に刺さって、そのたびに、俺は本当に何も分かっていないのだと確認させられた。
雨上がりの舗装で、靴下は三軒目を過ぎたあたりで湿った。
安藤さんは、断った。
断ったということは、儲からないか、面倒か、危ないか。俺はそれを、あの人の臆病の言い換えだと思っていた。
いま思うのは、もう一つの可能性だった。
あの人は、断れば済むと知っていたのかもしれない。関わった時点で数えられる側に入る類のものだと、話を最後まで聞いた時点で分かっていたのかもしれない。
薬院のアパートに着いたのは、十時前だった。
外階段の四段目が鳴る。二〇三号室。鍵を回す。ドアを開ける。
玄関に、俺のスニーカーが二足、きちんと壁際に揃えて置いてあった。
今朝、俺は履いて出た。だから、ここには一足もないはずだった。
その履いて出た一足は、いま警固の三和土にある。増えたぶんと並べて、壁際に揃えて置いてきた。つまり目の前のこれは、あの家から歩いてきたわけでも、誰かが運んできたわけでもない。
増えているのは、物ではないのかもしれない。
俺は廊下に立ったまま、しばらく何も考えなかった。考えると数えてしまう気がした。台所に茶碗がいくつあるか。歯ブラシが何本か。布団が何組か。
数えなかった。




