第六十二話 安藤 預り 壱
二月に入っても、日陰の雪は溶けきらなかった。ビルの北側の植え込みに、灰色になった塊がまだ残っている。空は晴れているのに、陽の当たる歩道に出ても、風が頬を切った。
朝、店に来る途中のコンビニの硝子に、巻き寿司の予約の貼り紙が出ていた。今年はこちらを向いて食べる、と矢印が描いてあった。
机と椅子を出して、看板の紐を締めた。指がかじかんで、結び目が一度ほどけた。値札を文鎮で押さえた。
昼前に、勤め人ふうの男が厄除けを一枚買っていった。千円札を出しながら、寒かですね、と言った。寒かですね、と返した。
雪の晩から、十日ほど経っていた。
あの晩のことを、ときどき思い出す。何で見た、と訊かれた。中身は訊かん、と言っていた人が、訊いた。
何かあったのだろう、とは思う。それが何かは分からないが、悪い話ではない気がしていた。
昼を過ぎてすぐ、携帯が鳴った。
画面に、登録名の無い番号が出ていた。
「はい」
「今晩、六畳間に来い」
「仕事ですか」
「来れば分かる」
それで切れた。
携帯を、しばらく手に持っていた。
あの人に呼ばれたことは、一度も無い。報告に行くのも、札を届けるのも、いつもこちらからだ。あの人のほうに用があるときは、ひさしの下に立つか、電話一本で済ませる。来い、と言われたことは無かった。
電話で済まない用、ということになる。
仕事を回してくれるのかもしれない、と思った。あの人が一人では手に負えない、と見るような仕事を。
夏に、境目を買っていったことを思い出した。何に使うとですか、と訊きかけて、訊けなかった。あれも、そういう仕事の一つだったのかもしれない。
看板を、見上げた。元祖天神大上屋。ペンキが、去年より少し褪せていた。
客の切れたところで、鞄の中を検めた。
留めの束が二つ。跳ねが二枚。目印が十枚ほど。輪ゴムで留めた伝票の束。いちばん上は、マット、四。
内ポケットの奥に、祓いが一枚あった。城戸さんの時計に打ったあとで、書き直した札だ。角が、もう丸くなっている。店を開けてから、祓いを打ったのは二度しかない。
あの人が手に負えない仕事なら、留めだけでは足りないかもしれない。だが、打つかどうかを決めるのは、現場を見てからだ。
跳ねの二枚を、留めの束の上に重ねた。
日が傾きかけたところで、表を畳んだ。机と椅子を片づけて、路地の口へ回った。
本家は、高架の下の薄暗がりで、値札を書き直していた。
「安藤さんに、呼ばれた」
本家は、ペンを止めた。
「六畳間ですか」
「ああ。来れば分かる、ち」
本家は、少し考える顔をした。俺が昼に考えたのと同じことを考えている顔だった。
あの部屋の場所を、俺は本家に教えたことがない。教えなくても知っている。前にそれで薄気味悪くなったことがあった。いまは、そうでもない。
「表は、閉めてきた」
「こっちは、もう少し開けときます」
「戻ったら、連絡する」
「はい」
本家はペンに蓋をして、書き直した値札を机の端に揃えた。
電車を降りて、住宅のあいだの細い道を歩いた。
日が落ちると、風がいっそう冷たくなった。どこかの家の風呂の湯気が、塀の上で白くちぎれていた。月が、もう高いところに出ていた。
安藤さんの六畳間は、古い二階建ての二階にある。一階には大家さんが住んでいて、外の鉄の階段を上がった先が、その戸になる。
一階の玄関の柱に、柊の小枝が括りつけてあった。枝の先に、焼いた鰯の頭が刺してある。
階段を上がった。鉄の段が、靴の下で冷たく鳴った。
戸を叩くと、すぐに開いた。
「入れ」
部屋の中が、この前と違っていた。
文机も、電気ポットも、窓も、雪の晩のままだ。天井から下がった電灯が、傘の下で黄色く点いている。
違うのは、壁のほうだ。
四方の壁に、一枚ずつ札が貼ってある。窓の脇に一枚、押し入れの襖の上に一枚、戸の脇に一枚、残りの壁の真ん中に一枚。
境目だった。
近づいて、見た。俺の字だった。夏に、あの人が表の机で買っていった札だ。
ほかにも貼ってあった。部屋の三方に、目印が一枚ずつ。どれも白い。戸の内側には、止水が一枚貼ってあった。
止水は、川の流れを逸らす札だ。この部屋で何を逸らすつもりなのかは、分からなかった。
雪の晩には、どれも無かった。
安藤さんは、ポットの湯で茶を淹れていた。湯呑みを一つ畳に置いて、自分のぶんを持って、窓のほうの文机の前に座った。
電灯の下で見ると、紺のジャンパーの肩が余っていた。前から、ああいう着方だっただろうか。
腰を下ろして、鞄を膝の脇に置いた。安藤さんの目が、一度、鞄に来て、離れた。
「仕事ですか」
安藤さんは、茶を一口飲んだ。
「頼みや」
「どこのお宅ですか」
「ここや」
安藤さんは、湯呑みを畳に置いた。
「頼むとは、俺や」
すぐには、呑み込めなかった。
「俺の中に、一つ居る」
安藤さんは、窓のほうを向いたまま言った。
「二十年、抱えとる」
抱えとるもんが少しずつ食う、とあの人が言ったことがある。店を始めてまもないころ、電話で。下の名前は、それに食われた、と。
そのことだ。
「何ですか、それは」
「知らん」
「名前は」
「無か。俺も知らん」
「祓えんとですか」
「札は、通らんやった。留めも、祓いもや。それで、俺の中に入れた」
いつのことかは、言わなかった。
「出したら、どうなるとですか」
「無うなる」
「何がですか」
「何でもや。物だけじゃなか。人も、無うなる。無うなったものは、誰も覚えとらん」
安藤さんは、そこで言葉を切った。
白い布のことを思い出した。坂口の家で、増えた俺のスニーカーを一足、包んで消した。梅野さんのところで、二十年前に亡くなったお兄さんを包んで消した。包んだものは、無くなった。
それでも、俺はあの靴を覚えている。梅野さんも、お兄さんのことを覚えたまま、あの家に残った。誰も覚えとらん、とは違う。
あの力が、どこから来ていたのか。いま、分かった気がした。
中身は訊かん、とあの人は言っていた。訊いたら、俺のもんになる、と。そう言う人が、自分の中身のことは、二十年、誰にも話さずにきたのだと思った。
「大上」
「はい」
「俺と、俺の中のもんは、別か」
訊かれているのは、帳面のことだと分かった。
帳面は、出どころが同じものを、一つと読む。大橋中央病院の非常階段で、安武さんの恨みを書いた。恨みだけを受けたつもりで、入院していた安武さんがいなくなった。あの恨みは、あの人の中から出たものだった。
坂口の家の母と娘は、違った。俺が引き取ったのは、家が足した母と娘で、残った二人は消えなかった。出どころが、別だったからだ。
安藤さんの中のものは、安藤さんから出たものではない。外から入れたものだ。
「たぶん、違うもんです」
言ってから、たぶん、と付けたことを考えた。帳面に訊いて確かめたのではない。帳面がこれまでやってきたことから、そう読んでいるだけだ。
「安藤さんの中のもんば引き取っても、安藤さんは、消えんと思います」
「なら、書け」
鞄から帳面を出して、膝の上で開いた。筆ペンの蓋を取った。
書こうとして、手が止まった。
宛先が、書けなかった。中のものは、安藤さんの中にいる。安藤、と書けば、それは安藤さんのことになる。その下に何を続けても、安藤さんの何かになる。
品名も、立たなかった。名前は無い、とあの人は言った。何なのかも知らない、と言った。二十年隣にいた人が指せないものを、俺は指せない。
筆ペンの先が、頁の上で止まったまま動かない。
「書けんとです」
安藤さんは、窓のほうを見ていた。
「何と書いても、安藤さんのことになります」
「そうか」
ポットが、小さく鳴った。
「なら、俺ば引き取れ」
筆ペンに、蓋をした。
「生きとるもんは、受けたらいかん、ち言うたとは、安藤さんです」
「言うた」
「引き取ったら、安藤さんは消えます。安武さんのときみたいに」
安武さんが消えたことを、俺は初めて口に出した。胸に重いものが落ちた。
「知っとる。俺が消えたら、中のもんが残る。違うか」
安藤さんは、自分の胸のあたりに目を落とした。目を落としただけで、手はやらなかった。
「残ったもんば、祓え」
「札は、通らんやったとでしょう」
「俺のはな。お前のは、知らん」
壁の札を、見回した。四方に境目、三方に目印、戸に止水。境目は、区切りを作る。中のものが出てきても、この部屋から外へは出さないための札だ。雪の晩から十日、あの人はこの部屋を、そのために拵えていた。
止水だけは、まだ分からなかった。
窓の外で、どこかの犬が一度だけ吠えた。
重松さんの部屋の前で、牟田さんの貸しを引き取らなかったことがある。うちが持って帰ってよかもんやなかとです、とあのとき言った。持って帰れば、商売の筋が通らなくなるものがある。安藤さんは、それだった。引き取って、帳面の中に置いておく人ではない。
それなら、と思った。
入江さんのクリーニングの、預り物を思い出した。三十八点、帳面に入れて、そのまま置いてあった。去年の夏、四十七番の票を持った國武さんから電話があって、全部出して、背広を渡した。
預かったものは、渡すまでが仕事だった。あのとき、そう思った。
「引き取りやないです」
安藤さんが、こちらを向いた。
「預かります。済んだら、出します」
帳面には、出す手がある。俺自身が、一度、あの中から出されている。本家がそれだ。
安武さんの行を書いたあと、渡、と書きかけて、筆を置いたことがある。何が出てくるのか、分からなかったからだ。
いまも、分からない。それでも、出すと言った。
安藤さんは、しばらく黙っていた。
「出てきたとが俺かどうか、お前に分かるとか」
答えられなかった。
本家は、俺と同じ顔をして、同じ声で喋って、俺の知っていることを全部知っている。いまでは、俺の知らないことも知っている。あれが出てきたとき、俺はその場にいなかった。出てきたのが何だったのか、誰も見ていない。
安藤さんは、答えを待たなかった。湯呑みを取って、また置いた。
「なんで、俺に頼むとですか」
「書けるとは、お前だけや」
そうだろう、と思った。あの人の知っている拝み屋のうちで、帳面を持っているのは俺だけだ。腕を見込まれたのではない。持っているものを見込まれた。
それだけだろうか。
「なんで、今ですか」
安藤さんは、答えなかった。窓のほうを見ていた。
答えを聞かなくても、思い当たることはあった。夏の晩に、仕事の帳簿で読んだ留めの行。先月より、多かった。暮れに、紙袋の縁から覗いた祓いの紙。漉いた紙ではなく、買った紙だった。電灯の下の、余ったジャンパーの肩。
あの人は、札が足りなければ、自分を使う。使えば、削れる。
削れて、残りが少なくなってきたのだ。
安藤さんが、ジャンパーの内に手を入れて、財布を出した。
「いくらや」
すぐには、言えなかった。
金は取れ、とこの人に言われたのは、雪の晩だ。ただでやった仕事は、あとで何ば取る気か、ち見られる。
「預かるとも、出すとも、頂きません」
「祓いは」
「札の代は、頂きません。手間で、三万です」
安藤さんは、一万円札を三枚出して、文机の上に置いた。
財布をしまうとき、ジャンパーの内ポケットから、札の端が覗いた。安藤さんの字の、祓いだ。
三枚を取って、二つに折って、財布に入れた。
「品名は」
安藤さんが訊いた。
これまでに一度だけ、人を名指しで引き取ったことがある。そのときは、氏名で書いた。
だが、安藤さんには下の名前がない。下の名前が消えた。そう聞いている。
黙っていると、安藤さんが言葉を続けた。
「安藤、と書け」
安藤さんは、文机の前で座り直した。窓を背にして、こちらを向いた。
「下は、無かけん」
無いものは、書かなくていい。言われてみれば単純だった。
「目印は、読みますか」
「読まんでよか」
「戸は」
「開けるな。お前が出るときもや」
安藤さんは、それで言うことを済ませたらしい。窓のカーテンを引いた。月が、布の向こうで白く滲んだ。
本家に、戻ったら連絡すると言ってきた。いつ戻れるのかは、言っていない。
帳面を、膝の上で開き直す。
新しい行の右に、筆ペンを置いた。
預かる、と言った。言った以上は、そう書くのが筋だ。渡と書いてあるから、受と書いてきた。入江さんの品を書いたときも、預り物、と書いた。
ただ、帳面がその字を通すかどうかは、分からない。
安藤さんが言った。
「書け」
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお預かりします」
部屋の空気が、こちらを向いた。いつもと変わらない。安藤さんの目が、鞄ではなく、帳面に来ていた。
書いた。
安藤 預り 壱
最後の一画を抜いて、筆ペンを上げた。
顔を上げると、文机の前に、誰もいなかった。
文机の脇に、安藤さんの湯呑みが置いてある。湯気が、まだ細く立っていた。座布団が、人の形に少しへこんでいた。
帳面を見下ろした。いま書いた行が、墨の色のまま乾いていく。
安藤さんは、この中にいる。書いたもんは、帳面の中に在る。預かっただけだ。済んだら、出す。
膝の上の帳面が、重かった。
鞄の中で、日増しに重くなっていくのは知っていた。いまのは、それとは違う。膝を、上から押さえつけられている。持ち上げようとして、すぐには上がらなかった。
両手で閉じて、畳に下ろした。
電灯の傘が、ゆっくり揺れていた。誰も触っていない。
音が無かった。ポットも、窓の外も、鳴らなかった。
三方の目印が、一斉に焦げた。
貼った側の真ん中から、黒が広がった。広がりきる前に、真ん中から裂けが走った。三枚とも、同じところから。焦げと裂けが紙の縁まで届いて、三枚とも、壁から剥がれて、破れて、散った。
燃え殻のような切れ端が、畳の上に落ちてきた。
切れ端が一つ、安藤さんの湯呑みに落ちて、沈まずに浮いていた。




