第六十三話 安藤 渡 壱
切れ端は、浮いたまま沈まなかった。湯呑みの湯気が、細くなっていく。
文机の上を見た。硯が無かった。硯が、あったと思う。安藤さんが札を書く硯だ。筆も無い。筆立てが、あったかどうか、もう思い出せなかった。
何も見えない。音もしない。それなのに、部屋じゅうから押されていた。帳面を開いて名乗ったときの、あの張り方に似ていた。違うのは、押してくるのが、こちらではなく、向こうだということだ。
膝で、帳面ににじり寄った。鞄から留めを一枚抜いた。
短い祝詞をあげて、翳した。
何も起きなかった。
留めは、俺の手から畳に落ちた。白いまま、どこも焦げていない。
跳ねを一枚、抜いた。翳して当てれば、押し返せる札だ。力丸さんの家の床下で、イタチを通風口から押し戻した。
祝詞をあげて、圧のいちばん強いほうへ突き出した。
手応えが無かった。
跳ねは、反りもせずに、指のあいだから落ちた。
内ポケットから、祓いを出した。一枚きりの祓いだ。
祝詞をあげて、打った。
落ちた祓いも、白かった。
三枚とも、白かった。
焦げてもいないし、反ってもいない。効かない札なら、力を焼いた痕が残る。何も残っていなかった。
この手触りを、知っていた。
修行に入って一月ほどのころ、初めて自分で札を書いた。安藤さんの札と同じ型で書いて、同じように翳した。何も来なかった。
書けていなかったのだ。札は、書いて、込めて、ようやく札になる。書きそこねた札は、墨の乗った紙でしかない。紙に祝詞をあげても、何も起きない。
いまのが、それだ。
祝詞は通っている。札は応えて、力を立ち上げた。翳した途端に、それが抜けた。
打った端から、札が紙に戻されている。
効かない相手なら、これまでにもいた。紙に戻されたのは、初めてだった。
背中が、冷たくなった。
鞄に手を入れた。留めの束が、一つしかなかった。二つ、入れてきたはずだ。輪ゴムの片方が、鞄の底に落ちていた。
目印の残りも、無かった。
消えるものには、順番があるらしい。安藤さんの硯と筆。それから、俺の札。
どれも、仕事に使う道具だ。
子どもが、大人の道具ば取り上げよるごたる。
そう思って、すぐに打ち消した。そう思ったところで、何がどうなるわけでもない。
俺は、まだ消えていなかった。帳面も、畳の上にある。
なぜ俺を先に消さないのかは、分からなかった。いつ消えるのかも、分からなかった。
帳面には書けない。書く名前が無い。札は効かない。
どうするべきか、分からなかった。
そのとき、空気が止まった。
押してきていたものが、押した形のまま、動かなくなった。止まったのは、向こうのほうだけだ。電灯の傘は、まだ揺れていた。
残った留めの束から、一枚抜いた。
祝詞をあげて、翳した。
今度は、手応えがあった。
札から力が出て、どこかへ届いて、そこで止まっている。紙切れではない。札は、札として働いている。働いた先で、何かに阻まれている。
今度は効いている。
なら、足りないだけかもしれない。
一枚で足りないなら、足りるまで打てばいい。留めは止めるだけで、片は付かない。片を付けるなら、祓いだ。
祓いは、もう無かった。一枚きりを、最初に打った。
零だ。
零は、増やせない。一を五百にすることはできても、無いものは増やせない。
一つだけ、手があった。
帳面を、畳の上で開いた。
新しい行の右に、左の掌を据えた。
借りたものは、増やさない。そう決めてきた。借りたものを増やして、もとを返して、増えたぶんを手元に残す。それは借りるという取り決めに、増やす力を噛ませることになる。なんとなく、まずい気がしていた。
今日は、増やすために借りる。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお借りします」
祓いを一枚、日限は七日。頭の中に置いて、掌を押しつけた。
掌の下で、紙が一度だけ脈を打った。
大上 祓い 手形 壱 七日
帳面の脇に、札が一枚、落ちていた。
拾った。祓いだ。
安藤さんの字だった。払いの終わりが、少し上へ跳ねている。紙は、漉いた紙ではない。買った紙だ。
財布をしまうとき、ジャンパーの内ポケットから覗いていた札だ。あの人と一緒に、帳面の中に入ったのか。
左の掌が、平らになっていた。
祝詞をあげた。祓いに、力が立ち上がる。打つ手前で、止めた。
増やす。
いくつと決めようとして、決められなかった。何枚あれば足りるのか、見当がつかない。相手の大きさも、形も、名前も分からない。五百と決めて足りなければ、そこで終わる。
沢山。
そう願った。数を決めずに増やしたことは、これまで一度も無い。
手の中で、祓いが二枚になった。四枚になった。八枚になって、指のあいだから溢れた。溢れたものが畳に落ちる前に、また増えた。どれも安藤さんの字で、どれも打つ手前の力を立ち上げたままでいる。
撒いた。
両手で掬って、圧の止まっているほうへ投げた。投げた先で、祓いは届いて、止まって、畳に落ちた。落ちたそばから、手の中でまた増えた。
撒いて、撒いて、撒いた。
畳が、紙で見えなくなっていった。
空気が、動いた。
止まっていたものが、急に戻ってきた。戻ってきたところへ、撒いたぶんが一度に届いた。
畳の上の祓いが、一枚、焦げた。
真ん中から、黒くなっていく。力を焼いた痕だ。
焦げた。効いた。
また撒いた。焦げる札が、二枚になり、五枚になった。焦げない札も、まだ多い。焦げない札の上に、焦げる札が積もっていった。
押してくるものが、乱れた。強くなったり、弱くなったりした。窓のカーテンが、内側へ吸い込まれて、また膨らんだ。
乱れたものが、一度、こちらへ寄った。
膝の前の帳面に、何かが噛みついた。
見えはしない。音もしない。それでも、噛まれた、と分かった。帳面の重さが、一塊、無くなった。安藤さんを預かってから、ずっと膝を押さえつけていた重さの、真ん中のところだ。頁を破られたのではない。綴じた一冊の厚みの中から、匙で掬い取られたような手応えだった。
何かが、消された。
安藤さんだ、と思った。
手が止まった。指のあいだで、祓いが増えたまま、撒かれずに溜まった。
帳面を抱き上げた。表紙も、綴じ糸も、指の下にある。重さだけが、さっきまでの重さではない。
押してくるものは、そこで一度、離れていった。噛んだぶんで、腹がふさがったように。
止まっていては、次が来る。
溜まった祓いを、撒いた。撒いて、撒き続けた。
畳に散る黒が、白より多くなったとき。前触れもなく、部屋の真ん中が、抉れた。
畳が、円く無くなった。その下の床板が、鉢の底のように削れて、へこんだ。文机の天板が、端から削れて、半分になった。電灯は、傘の縁を一欠片残して、消えた。
暗くなった。カーテンの向こうの月の白さだけが、残った。
風が起きた。部屋の真ん中の、抉れたところへ向かって、何もかもが引き寄せられていく。祓いの札が、畳の上を滑って、真ん中の暗がりへ吸い込まれていった。焦げたものも、焦げていないものも。
窓が鳴った。戸が鳴った。
戸の前だけ、風が壁に沿って逸れていた。戸は鳴っても、開かなかった。
止水だった。
流れを逸らす札だ。意志の無い流れに効く。風は、意志を持たない。
あの人は、これを知っていたのだ。
しがみつく物が無かった。帳面を胸に抱えて、壁に背をつけた。手の中では、まだ祓いが増えていた。増えたぶんを、そのまま風に放った。風が、真ん中へ運んでいった。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
風が、止んだ。
静かになった。
部屋の中で動いているものは、天井から垂れた電灯の線だけだった。途中で断ち切られた先が、ゆっくり揺れていた。
押してくるものは、もう無かった。
畳の上に、祓いの札が散っていた。焦げたものと、焦げていないもの。数えようとして、やめた。数えられる量ではなかった。
手の中の祓いは、もう増えていなかった。
壁に背をつけたまま、しばらく動けなかった。
何だったのかは、もう分からない。
祓えば、何だったのかは二度と分からない。だから、祓わずに引き取ってきた。
名前の無いものだ。二十年隣にいた人が、知らないと言った。俺は、声一つ聞いていない。見てもいない。消えていく物の順番を見て、子どもみたいだ、と思っただけだ。
店を出してすぐ、三万円の仕事で祓いを打った晩、帰り道でずっと考えていた。いま消したものに、名前はあったのか。
あのときは、名前があったのかどうかが分からなかった。今度は、名前が無いと分かっていて、消した。
少しだけ、哀れだと思った。何に向かって思ったのか、自分でも分からなかった。
帳面を、膝の上で開いた。
月明かりで、頁が読めた。「安藤 預り 壱」の行が、墨の色のまま乾いている。その左に、黒い左手が一つ。皺が、一本ずつ写っている。その横に、手形の行。
預かった。済んだら、出すと言った。
済んだのかどうかは、分からない。押してくるものは無い。目印は、もう一枚も残っていない。読む手立てが無い。
行は、消えていなかった。
ただ、噛まれたときの手応えが、まだ指に残っていた。帳面の重さの、真ん中を掬われた。あの重さは、預かってから増えたぶんだ。安藤さんのぶんだ。
安藤さんが、削られたのかもしれない。
削られたものを出したら、何が出てくるのか。どこかの欠けた安藤さんか。何も出てこないのか。
帳面は、足りないものを、ほかのもので埋める。母の行は、座布団になった。安藤、と書いた行から、安藤さんでないものが出てくるかもしれない。
行が在るなら、安藤さんも在る。書いたもんは、帳面の中に在る。そう思うほかなかった。
それでも、出すと言った。
安武さんの行を読み返した晩、渡と書きかけて、筆を置いた。何が出てくるのか分からなかった。
いまも、分からない。
筆ペンの蓋を取った。手が、一度止まった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお渡しします」
あたりが張った。
安藤 渡 壱
書き終えて、顔を上げた。
半分になった文机の前に、安藤さんが座っていた。
窓を背にして、こちらを向いている。紺のジャンパーの肩が、余っていた。
安藤さんは、部屋の中を見た。抉れた畳と、削れた文机と、電灯の線と、散った札を見た。それから、自分の胸に手をやった。
預かる前は、目を落としただけで、手はやらなかったところだ。
安藤さんは、手をそこに置いたまま、しばらく動かなかった。
「大上」
同じ声だった。本家も、俺と同じ声で喋る。
「はい」
「何枚使うた」
報告のたびに、訊かれてきたことだ。何を引き取った。何枚使うた。いくら取った。
「……分からんとです」
「分からん」
「数えとらんです」
安藤さんは、胸から手を下ろした。足元の札を一枚拾って、月明かりに透かした。
「俺の字やな」
「借りました。安藤さんのを」
「そうか」
安藤さんは、拾った札を、畳に戻した。
戸が、叩かれた。
「元祖さん」
本家の声だ。
開けるな、と言われていたのを思い出した。安藤さんを見た。安藤さんは、戸のほうを見ていた。
「開けてよか」
戸を開けると、本家が鉄の階段の上に立っていた。息が白かった。
「連絡の、来んやったけん」
本家は、俺の肩越しに部屋を見た。それから、俺の顔を見た。
「本家か」
後ろで、安藤さんが言った。
「はい」
あの人は、本家を取り違えたことが一度も無い。いまも、取り違えなかった。
それで何かが確かになったわけでは、なかった。
三人で、札を拾った。
本家が、ポケットから懐中電灯を出した。光の輪の中で、拾っても拾っても、札は出てきた。焦げたものは、焦げたもので束ねた。焦げていないものは、安藤さんの紙袋に入れていった。紙袋が一つ、二つ、いっぱいになった。
焦げていないほうも、もう効かない。撒いたときに立ち上げた力は、どれも抜けている。込め直さなければ、字の乗った紙でしかない。
それでも、捨てられない。増やしたものは、捨てれば湧く。祓いは売らない。売れもしない。
数えなかった。束ねながら、本家も数えなかった。
「これは、どげんしますか」
本家が訊いた。俺は、安藤さんを見た。
「安藤さんの字ですけん」
安藤さんは、紙袋の口を覗いた。
「預かっとく」
それだけ言って、紙袋を壁際に寄せた。
字は、あの人の字だ。込め直すなら、あの人の手のほうが早い。
それで、一つ思い出した。左の掌が、まだ平らだ。
借りた一枚を、納めなければならない。どれが借りた一枚なのかは、もう分からなかった。紙袋の中は、どれも同じ字だ。
増やしたもので返すのは、借りたものを増やしたうえに、もう一つ重ねるような気がした。自分で一枚書いて納める手もある。二時間かかる。
財布をしまうとき、安藤さんのジャンパーの内ポケットから覗いていた札を思い出した。帳面が貸したのは、あの札だ。あの人と一緒に、帳面に入った札だ。
「安藤さん、祓いば、持っとりませんか」
安藤さんが、こちらを見た。
「帳面に、祓いば借りたとです。安藤さんのを。それば返さんと」
「帳面にか」
「はい」
安藤さんは、ジャンパーの内に手を入れて、一枚出した。
「これで納めろ」
安藤さんと本家に、階段の下で待ってもらった。
半分の文机の上に、札を置いた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
安藤方 祓いの札 受 壱
札が、無くなった。
祓い、とだけ書くと、祓ったことのほうを受けてしまう気がした。そんなはずはない、と思いながら、札、と足した。
筆を離すと、隣の行に字が浮いてきた。
大上 祓い 皆済
左の掌が、痒くなった。
見ると、皺が戻っていた。
翌朝、もう一度、六畳間へ行った。
一階の玄関の柱に、柊が括りつけたままになっていた。鰯の頭は、夜のうちに何かに齧られたのか、半分になっていた。
大家さんは、八十近い女の人で、綿入れの上っ張りを着て、背が丸い。杖を突いていて、立ち止まるたびに、杖の先で地面を軽く叩いて確かめた。
安藤さんが、上の部屋を見てもらいたい、と言った。
大家さんは、安藤さんの顔を見上げた。
「……どちらさんでしたかね」
「上を、借りとる者です」
大家さんは、しばらく安藤さんを見ていた。それから、ちょっと待っとってください、と言って、家の中へ入っていった。
戻ってきたとき、手に大学ノートを持っていた。表紙に、家賃、と書いてある。指で行をたどって、ああ、と言った。
「安藤さん。毎月、きちんと入れてもらいよる」
鉄の階段を、大家さんは杖を突いて、一段ずつ上がった。上がりきって、戸を開けて、部屋を見た。
抉れた畳の縁に、杖の先を当てた。それから、へこんだ床板の底を、杖で探るように突いた。
「……あら、まあ」
「夜中、えらい風の音のしよりましたもんね」
「床が、抜けかけまして」
俺が言った。ほかに、言いようがなかった。
大家さんは、天井から垂れた線を見上げた。
「電灯も、ですか」
「電灯も、です」
大家さんは、杖の先で、畳の縁をもう一度叩いた。
「古か家やけんね。いつかは、こげんなると思うとりました」
そう言って、自分で頷いた。
「大工さんに、来てもらいます」
「直す代は、払います」
安藤さんが言った。
財布を出した。昨夜の三万が入っている。
「俺が出します。壊したとは、俺の祓いですけん」
安藤さんは、俺の財布を見なかった。
「頼んだとは、俺や」
「でも」
「仕舞え」
大家さんは、二人の顔を見比べて、何も訊かなかった。
財布を、仕舞った。
五日ほど経った昼、デパートのひさしの下に、紺のジャンパーが立った。
安藤さんは、ひさしの影を出て、歩道を渡ってきた。
「目印。一束」
目印を買っていくのは、初めてだった。
鞄から、輪ゴムで留めた束を一つ出して、渡した。安藤さんは、裏も返さずに、ジャンパーの内に入れた。留めと同じ代を、机に置いた。
「畳は、来週入る」
「はい」
「文机は、買い直した」
「その後、どげんですか。変わったところは」
安藤さんは、通りのほうを見た。
「力の、無うなった」
「力が」
声が大きくなった。通りがかった人が、こちらを見た。噛まれたときの手応えが、指に戻ってきた。
「無うなったとは、封じに割いとったぶんたい。ほかは、変わらん」
預かった束に込め直しよって、分かった、と安藤さんは言った。
安藤さんは、信号のほうへ歩いていった。
背中を見ていた。ジャンパーの肩は、やはり余っていた。
その晩、四畳半で、本家が家計簿を開いた。
鉛筆で、入りの欄に書いた。手間、三万。
「出は」
「無か。安藤さんが払うた」
本家は、出の欄を空けたまま、鉛筆を止めた。
三万は、受け取ったままになっている。した仕事の代金だ。それは分かっている。
壊したのは、俺の撒いた祓いだ。部屋の真ん中を抉らせたのも、電灯の線を断たせたのも、俺がやった仕事の続きだ。その始末を、あの人がした。
落ち着かなかった。
「何枚、使うたとですか」
本家が訊いた。
「数えとらん」
「なら、書かんでおきます」
家計簿を閉じた。




