第六十一話 大坪方 勝手口 受 壱
大寒が近づいて、晴れた日でも風が冷たくなった。北から来る風が、ビルのあいだで向きを変えて、歩道を斜めに吹き抜けていく。机の上の値札が、文鎮の下でめくれては戻った。
日が傾きかけたころ、本家が路地の口から歩いてきた。
「一件、回してよかですか」
本家は机の端に立って、鞄から畳んだ紙を出した。
「馬出の、大坪さんというお宅です。台所で、転ばすとです」
「転ぶ」
「何も無か床で、足の引っかかるとです。お母さんが、昼に、お一人のときに」
本家の机に来たのは、先週の初めだという。本家が家を見に行って、台所の柱に厄除けを一枚貼ってきた。
「三日して見に戻ったら、無かったとです」
「落ちたとか」
「そう思いました。落ちとるなら、床にあるはずです。無かったです。貼り直して、また三日で無うなりました」
「誰が」
「お母さんの言わすには、娘さんの、剥がしよるごたるです。勤めに出とらす、二十を少し出たくらいの」
本家は、それで当たり前だという顔をしていた。俺も、そう思った。
親の家の台所に、知らない札が貼ってある。親が、どこの誰とも知れない男に金を払っている。剥がすのは、家の者として、まっとうなことだ。
「調べの代は」
「まだ、もろうとりません。札の貼っとかれんとなら、何も済んどらんですけん」
厄除けは、貼っておけて初めて効く。押さえる前に剥がされては、押さえようがない。
残る手は、引き取りだ。引き取れるのは、この屋号では俺だけになる。
本家の書き付けを開いた。
馬出、大坪方。木造の二階建て。台所の真ん中、流しの前から奥へ二歩ほどのところで、足が引っかかる。床が一段下がったように踏み外すこともある。昼だけ。夜は何も起きない。
台所に置いた物が、昼のうちに脇へ寄せられている。
目印は貼っていない、とあった。貼っても剥がされるだろうから、と。
いちばん下に、一行空けて書いてあった。通り道のあるごたる、と見る。
「通り道、か」
「そこに書いとるとおりです」
「明日、行く」
「お母さんには、俺から言うときます」
本家は路地のほうへ戻っていった。
地下鉄を中洲川端で乗り換えて、三つ目で降りた。
地上に出ると、大学病院の建物が、冬の空に白く大きく立っていた。病院の塀に沿って歩いて、一本入ると、道が細くなる。古い瓦の家と、新しい家と、月極めの駐車場が、ばらばらに並んでいた。
大坪さんの家は、その中ほどにあった。瓦の二階建てで、門の脇に、葉を落とした柿の木が一本立っている。
大坪さんは、五十代の半ばに見えた。灰色のカーディガンの上から、紺のエプロンをしていた。玄関の上がり框で、まず頭を下げた。
「すみません。何べんも、お手間ば取らせて」
それから、俺の顔を、もう一度見た。
「あら、別の方が来るち伺ったとですけど」
「別のもんです。……双子みたいなもんで」
「まぁ」
大坪さんは、それ以上は訊かなかった。上がり框にスリッパを揃えて出しながら、言葉を継いだ。
「主人は、大阪に単身で行っとりまして。昼は、私一人なんです」
台所は、家のいちばん奥にあった。茶の間からガラスの入った引き戸を開けて入る。思っていたより広い。左の壁に流しとガス台が並び、正面の奥に冷蔵庫と食器棚が据えてあった。床は明るい色の板張りで、まだ新しい。
「去年の春に、張り替えたとです。古うなって、ところどころ浮いとったけん」
大坪さんは、エプロンの裾を両手でたたんだ。
「私が、決めたとです」
床は平らで、どこにも段は無い。板の継ぎ目も、まっすぐ奥まで通っている。
大坪さんは、流しの前から奥へ歩いた。二歩目で、足を上げた。何も無い床を、跨いだ。そのまま冷蔵庫の前まで行って、振り返った。
跨いだことには、気づいていないようだった。
冷蔵庫の脇の壁際に、物が寄せてあった。米の袋、新聞の束、空いた一升瓶が二本、ゴム長が一足。壁から台所の真ん中のほうへ、半ば輪を描くように並んでいる。
「朝、置いたとこから、動いとるとです。昼過ぎに見ると、こう」
「ご自分で、寄せたとでは」
「寄せとりません。……と、思うとですけど」
大坪さんは、またエプロンの裾をたたんだ。
「娘は、私が寄せて、忘れとる、ち言うとです」
「転ばれたことは」
「あります。先月、お湯の入ったお鍋ば持っとって、そこで膝ばついてしもうて」
大坪さんは、流しの前から奥へ二歩のあたりを見た。
「お湯は、ほとんど床にこぼれたとですけど。足の甲に、ちょっとかかって。赤うなりました」
「娘が帰ってきて、それば見て。病院で診てもらい、ち。足の弱っとるとかもしれんけん、ち」
言うほど心配される、と大坪さんは言った。床が下がる、と言えば、なおさら病院の話になる。
「それで、言わんごとしとったとですけど。言わんでおったら、本当に、私の足のせいのごたる気のしてきて」
目印を三枚貼ることにした。流しの上の壁に一枚、冷蔵庫の脇の柱に一枚、茶の間との境の柱に一枚。
大坪さんは、柱の札を見て、少し困った顔をした。
「明日の昼まででよかとです」
短い祝詞をあげた。八文字。
翌日の昼、三枚とも無かった。
柱には、糊の跡だけが残っていた。床にも、流しの中にも、落ちていない。
大坪さんは、茶の間の入口で頭を下げた。
「朝、出る前に、剥がしていったごたるです。すみません」
エプロンの裾を、両手でたたんだ。たたんで、そのまま持っていた。
「娘が……詐欺やけん、ち言うて。すみません。そげん言うたとです」
「娘さんの言わすことは、もっともです」
本当に、そう思った。屋号を言えない拝み屋が、二人で入れ替わり立ち替わり来て、札を貼って、金の話をしていく。俺が娘でも、剥がす。
見えない所に貼る手はある。食器棚の裏、冷蔵庫の下。そうすれば、家の者に隠れて札を貼る男になる。朝貼って、娘さんが帰る前に剥がしに来る手もある。そうすれば、母親ひとりの家に、若い男が朝と夕方に通うことになる。
どちらも、大坪さんに、娘さんへの隠しごとを一つ重ねさせる。
この家では、札では見られない。
帰りに、病院の前のバス停の脇で、安藤さんにかけた。
「なんか用か」
「馬出のお宅です。目印ば、剥がされました。三枚とも、一晩で。依頼人の娘さんです」
電話の向こうで、少し間があった。
「断れ」
「まだ、何も分かっとらんとです」
「家の者の剥がす家は、断れ」
バスが来て、停まって、誰も乗らずに出ていった。
「剥がした者が、正しか」
それで切れた。
その晩、四畳半で帳面を開いた。
目印が使えないなら、ほかに何があるか。
引き取ったものは、使えるようになる。『番』のときに知った。朝掃きのときにも知った。使うと決める前に、働き始める。
働き始めていて、気づいていないものがあるかもしれない。
一行ずつ、読んでいった。
本家が、隣から覗き込んでいた。
「樋渡医院の、呼出」
読み上げると、本家が言った。
「醤油の、切れんです」
「醤油」
「秋口に一本買うて、そのままです。家計簿に、あれから一回も載っとらんとです。少のうなったら、まだ少しある、ち思うて、そのままになっとります」
空になりかけたものを、空にしづらくする。医院の受付が、誰もいない待合を、空にさせなかった。
「渡辺通二丁目の、群れ鳩」
「年末の天神で、一回も人にぶつかっとらんです」
それは、俺も思い当たった。人の詰まった横断歩道を、肩も触れずに渡りきっている。
「堤書店の、仕舞い」
「店じまいの、速うなりました。看板ば縛るとも、ほどくとも」
長浜ハイツの取次のところで、俺が言った。
「客の顔ば、覚えとる。名前は出てこんでも、顔は出てくる」
喫茶白鳥の窓際の人も、名前を知らないのに、顔に見覚えがあった。
同じ頭が、同じ行で、同じことに思い当たっていく。
一つ、試してみた。メゾン平尾の、居間の敷居。線を一本引く力だと思っている。畳の縁に指を置いて、ここから先に行かない線を思った。
何も起きなかった。本家が、畳の縁を踏んで、流しのほうへ水を飲みに行った。
「まだ、寝とるとやろ」
使える。どれも、中で生きている。
ただ、醤油も、人混みも、看板の紐も、台所の床を見るのには役に立たなかった。
翌日の昼も、大坪さんの家に行った。
札を貼らずに、台所に立った。
茶の間から引き戸を開けて、一歩入る。流しの前まで来て、もう一歩、踏み出す。
外に出た。
台所の真ん中に立っていた。左に流しがあり、正面に冷蔵庫がある。頭の上には天井があって、蛍光灯が点いている。それでも、外に出た、と分かった。
家の中にいるのに、家が、背中のほうにあった。
一歩戻ると、内。もう一歩出ると、外。
目で見ている台所と、足の下が言うことが、食い違っていた。
いつから分かるようになったのかは、分からない。部屋にいれば内で、道に出れば外だ。目に見えるとおりのことを、足の下も言っていたのなら、気づきようがない。
床の上を、横へ歩いた。外と内の境を、足でなぞっていく。
境は、台所を横切っていた。流しの脇の壁から、反対側の壁まで、まっすぐに。大坪さんが足を上げる、あの一歩の上を通っていた。
冷蔵庫の脇に寄せられた物の輪が、その線の向こう側にある。米の袋と、新聞の束と、一升瓶と、ゴム長。輪を延ばしていくと、線の端の、壁のところに行き着く。
戸だ。そこに蝶番があって、こちら側へ開く戸がある。開いた戸に押されて、物が輪の形に寄せられる。足が引っかかるのは、そこに敷居があるからだ。床が下がるのは、敷居を跨いだ先に、一段低い土間があるからだ。
この家は、ここに戸があるつもりでいる。
メゾン平尾の敷居が、これなのかもしれない、と思った。あれも、内と外を分ける線だ。
けれど、決め手は無い。区切りに関わるものなら、ほかにもいくつも受けている。みやこビルの踊り場。長浜ハイツの取次。雑餉隈の試着室。小笹の坂の待合。
六本松の下宿の勝手口が、頭に浮かんだ。あれは在る戸で、朝ごとに開いていた。手帳に書いて、消した。
あれは、書いとらん。
どこから来たのかは、分からない。それでも、分かる。
茶の間の入口で、大坪さんが見ていた。
「そこです」
大坪さんは、俺の足元を見て言った。
「そこで、いつも引っかかるとです」
何度も転んで、身体が覚えたのだろう。俺が足の下でなぞった線と、大坪さんが何も無いところで跨いでいる線が、同じところにあった。
夕方、玄関の戸の開く音がした。
「ただいま」
若い女の声がした。廊下を来る足音が、茶の間の手前で止まった。
娘さんは、紺のコートを着たまま、引き戸の向こうに立っていた。俺と同じくらいの歳だろう。髪を後ろで一つに結んで、手に、勤め先の名の入った紙袋を提げていた。
「拝み屋さんですか」
「はい」
「今日は、早う上がれたけん」
大坪さんが、エプロンの裾をたたんだ。
娘さんは、コートを脱がなかった。台所には入ってこなかった。
「母が、いくらお支払いしたか、伺ってもいいですか」
「まだ、いただいとりません」
「お店は、どちらですか」
「渡辺通りの、歩道です。デパートの前の」
娘さんは、少し黙った。
「歩道」
「はい」
「こないだ来た人とは、別の方ですか」
答えようがなかった。同じ顔をした男が、同じ店の者だと言って、二人で来ている。
「同じ店の、者です」
娘さんは、それ以上訊かなかった。訊くことは、全部訊いたという顔をしていた。
「効いたら、どうなるとですか」
「転ばんごとなります」
「それは、母が気をつけたけんでしょう」
返す言葉が無かった。何も起きなくなったことは、何かをした証にはならない。
「お母さんの足は、弱っとりません」
言ってから、言い過ぎたと思った。見せられるものは、何も無い。
娘さんは、母親のほうを見た。
「そうやったら、よかですけど」
大坪さんは、茶の間の隅で、エプロンを握っていた。
娘さんは、紙袋を持ち直した。
「母からは、これ以上取らんでください」
それだけ言って、二階へ上がっていった。階段の途中で、一度足音が止まって、また上がっていった。
その晩は、大坪さんの家のことを考えながら眠った。
玄関から上がって、茶の間、座敷、風呂、二階の二間。台所。昼のうちに、一つずつ歩いておいた。
朝、帳面の最後の頁に、『番』の行が出ていた。
馬出 大坪方 玄関 員数 合
同所 茶の間 員数 合
同所 座敷 員数 合
同所 風呂 員数 合
同所 二階表 員数 合
同所 二階奥 員数 合
台所が、無かった。
同じ家の、同じ屋根の下にある部屋だ。戸もある。それでも、『番』は台所を書いてこなかった。
『番』が書いてこない場所なら、ほかにも知っている。大名のビルの、一階の通り抜けの通路。今泉の屋上。道。
どれも、外だった。
台所は、半分が内で、半分が外だ。内とも外とも言えない部屋は、一つの部屋として数えようがない。
『番』が読むのは、内と外の言える場所だけだ。
みやこビルで、誰にも数えられずに回っていたものだ。数えるのは、自分の受け持ちの内だけなのだろう。外は、番の受け持ちではない。
昼前に、舞鶴の法務局に寄った。
建物の登記を取った。木造瓦葺二階建て。昭和の五十年代の終わりに、増築とあった。一階の床面積が、そこで増えている。
図面の写しも取れた。一階の外回りの線だけが引いてある、四角い図だ。裏の一か所だけ、四角から出っ張っていた。台所のある側だ。出っ張りの付け根の線が、ちょうど、台所を横切るあたりに来ていた。
所有者は、平成の半ばに、相続で今の名義に移っていた。
大坪さんの家に戻る前に、向かいの家の呼び鈴を押した。出てきたのは、背の曲がった年寄りの男で、ジャンパーの下に腹巻きをしていた。
「大坪さんとこの台所ね。昔は、あそこが勝手口やった」
年寄りは、向かいの家の裏手のほうを、顎で指した。
「内開きの戸でね。昼は、いっつも開けっ放しやった。婆さんが、土間から出たり入ったりしよったよ。漬物の樽ば、外に出しとったけん」
「お婆さんは」
「もう、だいぶ前に亡くなったよ。爺さんのほうが、先やったかな。台所ば広げたとは、爺さんの生きとるうちやった」
勝手口を使っていた人は、二人とも亡くなっている。
色が見えない。黄ばみか焦げか、目印が無いので分からない。場の記憶なら黄ばむし、人の記憶なら焦げる。人の記憶で、主が生きていれば、主ごと消える。大橋中央病院の非常階段で、それを知った。
主になりうる人は、もういない。
それでも、確かめておくことがある。
大坪さんに頼んで、寄せられていた物を茶の間に移してもらった。米の袋も、一升瓶も、ゴム長も。代わりに、台所の線の向こうに、空いた丸椅子を一つ置いた。
物の記憶なら、物についていく。茶の間の米の袋が、昼のうちに寄せられるだろう。
次の日の昼、茶の間の物は、置いたところから動いていなかった。
台所の丸椅子が、壁際に寄せられていた。脚の跡が、床に薄く輪を描いていた。
物ではない。場だ。この家の、台所の、あの線が覚えている。
大坪さんに、表に出てもらった。門の外の、柿の木の下で待ってもらう。
台所に戻った。線の手前に、膝をついた。内の側だ。
帳面を、膝の上で開く。
勝手口と書けば、戸ごと入る。その戸は、もう無い。敷居も、土間へ下りる一段も、もう無い。メゾン平尾では、在る敷居を書いて、木が入った。今度は、入るものが無い。
いまの家に、勝手口は無い。指す先は、一つしかない。
色を見ないまま書いたことは、無い。裂けているかどうかも、分からない。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
冷蔵庫を、流しを、蛍光灯を、何かが数えていった。
膝の先の、外の感じが、止んだ。
大坪方 勝手口 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
立ち上がって、線のあったところを踏んだ。何も引っかからない。冷蔵庫の前まで歩いて、戻った。
台所は、端から端まで、内だった。
門の外で、大坪さんは柿の木の下に立っていた。
「済みました」
大坪さんは、台所まで行って、流しの前から奥へ歩いた。二歩目で、足を上げた。跨いでから、自分の足を見下ろした。
見立てに一万円、引き取りに三万円、と言った。本家の貼った厄除けの代は、取らなかった。貼っておけなかったものは、効いていない。
大坪さんは、茶の間の簞笥の引き出しから封筒を出してきた。
領収書を切った。大坪様。金四万円。但し、見立て及び引き取り。屋号の欄は空けて、大上大介と書いた。
「これは、娘さんの見らすところに、置いといてください」
「見せてよかとですか」
「見せてください」
大坪さんは、領収書を両手で受け取って、茶の間の卓袱台の上に置いた。湯呑みを一つ、重しに載せた。
週が明けて、店を出していると、大坪さんから電話があった。
「娘が、最近転ばんね、ち言いました」
「そうですか」
「気ぃつけよるけんやろ、ち」
電話の向こうで、大坪さんは少し笑ったようだった。
「領収書は、娘が持っていきました。何かあったときのために、ち」
「はい」
「本当に、ありがとうございました」
電話が切れた。
それでよかった。娘さんの言うことは、何も間違っていない。転ばなくなったのは、気をつけているからだ、と言われても、違うと言えるものを、俺は何も持っていない。
紙は一枚、娘さんの手に渡った。屋号の書いていない、名前だけの紙だ。
その日は、昼過ぎから空の色が変わった。
夕方になると、風に白いものが混じりはじめた。デパートの入口の前を、人が肩をすぼめて足早に過ぎていく。今夜は大雪になる、と、地下街に下りていく誰かが話していた。
早めに店を畳んだ。机と椅子を片づけて、看板の紐をほどいた。手が、速かった。
報告を入れようと思った。断れと言われた仕事を済ませたのだから、言っておかなければならない。
携帯を出して、履歴を開いた。
登録名の無い番号が、並んでいる。
いちばん上の番号の前で、指が止まった。
誰にかけるところだったのか。
雪が一粒、画面に落ちて、溶けた。
安藤さんだ。
指は、番号の上で止まったままでいた。
電話で済む話だ。済みました、と言えば、そうか、と返ってくる。いつもそうだ。
携帯を、ポケットに戻した。
顔を、見に行くことにした。
月極めの六畳間に着いたころには、道の端が白くなりはじめていた。
戸を叩くと、しばらくして、安藤さんが開けた。紺のジャンパーを、部屋の中でも着ていた。
「雪か」
「雪です」
安藤さんは、何も訊かずに中へ入れた。
火の気の無い部屋で、畳の上に文机が一つあって、隅に電気ポットが置いてある。窓のガラスが、外の白さで薄く明るかった。
安藤さんは、ポットの湯で茶を淹れて、湯呑みを一つ、畳の上に置いた。自分のぶんも淹れて、窓のほうを向いて座った。
「馬出の件、済みました」
安藤さんは、湯呑みを持ったまま、黙っていた。
叱られに来たつもりでいた。断れと言われて、断らなかった。
「目印は、剥がされたままです。貼り直しとりません。引き取りました。四万、もらいました。領収書は、娘さんの見るところに置いてきました」
「そうか」
安藤さんは、それしか言わなかった。
茶を一口飲んだ。ぬるかった。
「安藤さんは、剥がされたこと、ありますか」
訊かなくていいことだと、訊いてから思った。
「ある」
安藤さんは、窓のほうを見たまま言った。
「塩ば撒かれたこともある。目の前で、札ば破られたこともある。警察ば呼ばれたこともある」
どこの家だったかは、言わなかった。
「詐欺や、ち言われたとです。娘さんに。言うたとは、お母さんですけど」
「効いたら、何も起こらん」
安藤さんは、湯呑みを畳に置いた。
「何も起こらんとに金ば払うた、ち家の者は思う。効かんやったら、騙された、ち思う」
「どっちでも、ですか」
「どっちでもや。よう効いた仕事ほど、何も残らん」
娘さんの声を思い出した。それは、母が気をつけたけんでしょう。
「見せられたら、と思いました」
「見せたら、見世物や。見せんやったら、詐欺や」
安藤さんは、少し間を置いた。
「俺は、詐欺のほうば取った」
窓の外を、雪が斜めに流れていた。
「剥がす者のおる家は、まだよか」
安藤さんは、窓を見たまま言った。
「剥がす者のおらん家には、俺らより先に、別のが入っとる」
本物の騙りのことだと、少し遅れて分かった。
「金は、取ったとやな」
「取りました」
「取れ。ただでやった仕事は、あとで何ば取る気か、ち見られる」
取れ、と言われたことは無かった。返金してこい、と言われたことならある。
「塩ば撒かれたときは、どげんしたとですか」
「帰った」
安藤さんは、それだけ言った。
「塩の家からも、札の家からも。帰った」
それきり、黙った。窓のほうを見ていた。
鞄を膝の脇に置いていた。安藤さんの目が、そこへ一度来て、離れなかった。
「札は」
安藤さんが言った。
「貼っとらんです。剥がされましたけん。三枚とも、一晩で」
「何で見た」
すぐには、答えられなかった。
台所の真ん中で、外に出た、と分かった。『番』が、台所を書いてこなかった。
どれも、帳面の中のものだ。どの行から来たのかは、言えない。
「引き取ったもんの、どれかです」
安藤さんは、鞄を見ていた。
「どれかは、分からんとです」
しばらく、どちらも黙っていた。ポットが、小さく音を立てた。
「……そうか」
安藤さんは、湯呑みを取って、残りを飲んだ。
「帰れ。積もるぞ」
外に出ると、雪は本降りになっていた。
道の端に積もった白いところを、踏まないように歩いた。街灯の下だけ、雪の粒が見える。どこかの家の雨樋から、雪の落ちる音がした。
叱られなかった。褒められもしなかった。そうか、と言われただけだ。
物足りなかった。わざわざ雪の中を来て、聞いたのは、塩を撒かれた話と、帰った、という一言だけだ。
鞄を、肩に掛けなおした。蓋の上に、雪が白く積もりかけていた。払った。
何で見た、と訊かれた。
独立してから、ずっとあの人に報告をしてきた。何を引き取ったか、何枚使ったか、いくら取ったか。帳面の中身がどう働くのかを、訊かれたことは無い。中身は訊かん、とあの人は言った。訊いたら、俺のもんになる、と。
あの人が中身を訊いたのは、初めてだった。




