↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/68

第六十話 鷺の家 池の鯉 受 壱

 冷たい雨が三日続いて、四日目の昼に、ようやく切れた。

歩道のタイルはまだ濡れていて、デパートの入口の前だけ、靴の跡が乾いた白い筋になっていた。机を出して、値札に掛けておいたビニールを外した。

昼過ぎに、傘を提げた年寄りの男が、机の前で足を止めた。

六十前後だろう。灰色のジャンパーの襟を立てて、ズボンの裾が、くるぶしのところまで濡れていた。閉じた傘の柄を左手で持って、親指で、柄に残った雨の粒を拭っていた。

「拝み屋さんですな。藤崎(ふじさき)の、城戸(きど)さんに聞いて」

「城戸さんの」

「時計の件で、来てもろうたち言いよらしたとです」

屋号は出てこなかった。それでも、時計の一件から、ここまで辿り着いている。

男は、椛島(かばしま)と名乗った。室見(むろみ)のマンションで、管理組合の理事長をしているという。

「駐車場の、水たまりで、魚の跳ぶとです」

椛島さんは、親指で傘の柄を拭った。もう水は残っていなかった。

「雨の降ると、駐車場の真ん中へんに、水の溜まるとです。そこで、ぽちゃん、ち跳ぶ。覗いたら、赤かとが寄ってくる」

「いつからですか」

「去年の冬からです。夏の夕立のときは、何も出らんやったとに」

三階の家に、小学一年の女の子がいる。雨の日の夕方、学校から帰ってくると、その水たまりの前にしゃがみこむ。手を入れる。赤いのを、掴もうとする。

先週、しゃがんでいるところへ、隣の区画の車がバックしてきた。運転していた人は、女の子に気づいていなかった。ブレーキの音を聞いて、母親が三階から駆け下りてきた。

「当たっとらんです。寸前で止まった」

理事会で、その母親が言った。沈んだところを埋めてくれ。補修は見積もりを取って、春の総会にかけることになった。

「春までにも、雨は降りますけんな」

コーンを置いた、と椛島さんは言った。貼り紙もした。それでも、子どもは寄ってくる。

「住んどる者で、地のもんは、わしだけです。みんな越してきた人ばっかりで。昔からおらすけん、ち言われて」

それで、拝み屋を探すことになったのだという。

見立てに一万円、と言った。引き取ることになったら、そこから三万円。

「組合の金からは、出せんとです。名目の立たんけん」

椛島さんは、傘の柄を握りなおした。

「わしが呼んだとですけん。わしが払います」


 本家に、今日は室見に出ると電話を入れた。本家も、昼から箱崎(はこざき)のほうに出ているという。

天神から地下鉄に乗った。西新(にしじん)を過ぎ、藤崎を過ぎて、室見で降りた。

地上に出ると、また細かい雨が落ちてきていた。

駅を出ると、すぐに川がある。川沿いを、河口のほうへ下った。室見川は、河口が近いぶん、幅が広い。三日の雨で、水は茶色く濁っていた。嵩は、思ったほど上がっていない。冬の川は、降っても、そう膨らまないのだろう。向こう岸の愛宕山(あたごやま)が、雨に煙っていた。

川沿いの道に、古い料理屋が何軒か並んでいた。昼の営業を終えた時分で、どの店も、暖簾が下りていた。

並びの一軒ぶんが、五階建てのマンションになっていた。

「ここは、鷺の家(さぎのや)ち言う料亭やったとです」

椛島さんは、傘の下から、マンションを見上げた。

「十五年くらい前に、畳んでしもうて」

駐車場は、建物の川側にあった。屋根の無い平面の駐車場で、二十台ほどが白い線で区切ってある。

真ん中より少し奥、区画と区画のあいだの通路に、水が溜まっていた。差し渡しで、大人が両腕を広げたくらい。周りのアスファルトは雨に濡れているだけなのに、そこだけ、水が溜まって動かない。

脇に、赤いコーンが一つ立っていた。コーンの頭に、ラミネートした紙がガムテープで留めてある。手書きで、水たまりに手を入れないこと、とあった。字が、雨の筋で半分読めなくなっていた。

「そこだけ、沈んどるとです。建って十年で」

椛島さんは、傘の柄を親指で拭った。

「庭に、池のあったとですよ。料亭の。マンション建てるときに、埋めて」

雨が、水たまりの面に、小さな輪をいくつも立てていた。

椛島さんが、水たまりの縁に立った。傘をすぼめて、上から覗き込んだ。

しばらくは、何も起きなかった。

それから、水たまりの真ん中で、ぽちゃん、と音がした。

雨粒の輪とは違った。掌を広げたくらいの輪が、ひとつ立って、縁まで広がった。

覗き込んだ椛島さんの影の下に、赤いものが、ゆらりと寄ってきた。

深さは、手首が隠れるほどもない水たまりだ。底には、黒いアスファルトが見えている。赤いものは、その上に、浮くように見えた。

椛島さんが顔を上げると、消えた。

「これです」

俺も、覗き込んでみた。

しばらく待つと、ぽちゃん、と鳴った。俺の影の下に、赤いものが寄ってきた。大きい。肘から先くらいある。

顔を上げると、消えた。


 目印を貼る場所を探した。

雨の駐車場では、貼れる場所が限られる。札は濡れても貼れるが、濡れた紙は、読むときに手触りが変わる。

濡れた紙と、湿りとは違う。安藤さんに、そう教わった。ただの水で湿った紙は、ふやけるだけで、消耗の湿りとは手触りが違う。分かってはいる。それでも、読む前に紙が濡れていれば、こちらの目が迷う。

一枚目は、駐輪場の屋根の下、鉄の柱の内側に貼った。二枚目は、マンションの入口の庇の下、柱の陰に。三枚目は、川側の隅にあるゴミ置き場の、屋根の下の壁に。

三つとも、水たまりから離れて、違う向きにある。

短い祝詞をあげた。八文字。

雨の日に出て、すぐ脇を川が流れている。舞鶴(まいづる)の表具屋の、渕上(ふちがみ)さんの作業場では、ビルの下に埋めた井戸が、毎朝床を丸く濡らしていた。あのときの目印は、湿った。

ここも、埋めた池だ。川の水が、地面の下を通って、池のあったところに上がってきているのかもしれない。

湿るだろう、と思った。


 朝、三枚を剥がしに行った。

雨は夜のうちに上がっていた。水たまりは、まだそこにあった。

駐輪場の柱から、一枚目を剥がした。

焦げていた。

湿りではない。紙は乾いていて、縁の一か所から、茶色く焦げが広がっていた。

二枚目も、三枚目も、焦げていた。

焦げは、獣の色だ。生きていたものの色だ。

それぞれの焦げの中心から、線を延ばした。三本は、駐車場の真ん中で交わった。水たまりの上だ。

水ではなかった。水は、器だ。中にいるのは、生き物のほうだ。

赤くて、肘から先くらいある。池に、いたもの。

「鯉ですか」

椛島さんに訊いた。

「料亭の池に、鯉はおりましたか」

「おりました。緋鯉の、でっかかとが」

「その鯉は、どうなったとですか」

椛島さんは、首を振った。

「知らんです。わしは、とうに家ば出とったけん。戻ってきたときには、もう、ここが建っとった」

生きているものなら、受けられない。

「並びの店の人なら、知っとらすかもしれん」

椛島さんは、川沿いの道のほうを見た。


 昼前、並びの料理屋の勝手口に回った。

勝手口の脇の表札に、古藤(ことう)とあった。出てきたのは、八十近い女将で、割烹着の袖を、二の腕のところで留めていた。椛島さんの顔を見ると、まあ、と言った。

帳場の奥の、小上がりに通された。

壁に、古い写真が額に入れて掛けてあった。

水を抜いた池の写真だ。底の泥に、子どもたちが何人も入っている。どの子も、肘まで泥だらけで、両腕に鯉を抱えて笑っていた。池の縁に、白い前掛けの男が立っていて、ひときわ大きな鯉を、たらいの上に掲げている。白黒の写真なのに、その鯉だけ、色が分かるような気がした。

「鷺の家さんは、毎年、寒に池ば干しよったとです」

女将は、湯呑みを三つ並べた。

「冬は、鯉の動かんけん。水ば抜いて、底ば浚うて。鯉は、手で掬うてたらいに移すとです。近所の子どもの、みんな来よった」

「この、大きいのは」

「それが、主ですたい。四十年おったとですよ、あの池に」

女将は、写真の、白い前掛けの男を指した。

「大将が、毎年、いちばん最後に、自分で掬いよりました」

「その鯉は、どうなったとですか」

「最後の池干しの前の冬に、浮いとりました。大将が、庭の隅に埋めてやって。ほかの鯉は、小学校の池にやったとです」

死んでいる。

大きいのは、あの一匹だけだ。

「水たまりで、跳ねよるとです。浅い水で」

俺は、見たことを話した。雨の日にだけ、手首も隠れないほどの水たまりで、跳ねる。人が覗くと、寄ってくる。

「水の足らんで、苦しがっとるとやと思います。池の、つもりで」

女将は、しばらく写真を見ていた。

「苦しかとやなかですよ、あれは」

「は」

「池ば干したら、鯉は跳ねよりました。毎年。苦しかけん跳ぶとやなかとです。浅うなったら、手の来るとを知っとるけん」

女将は、湯呑みを両手で包んだ。

「掬うてもらいよるとですよ、あれは」

冬の浅い水には、手が来る。毎年、寒になると、子どもたちが泥に入ってきて、両手で掬い上げて、たらいに移してくれる。

四十年、それが続いた。

だから、夏の夕立では出てこない。冬の雨で、浅い水が溜まったときにだけ、跳ねて、寄ってくる。

寄ってくるのは、覗き込んだ人の影の下だ。手が来る、と思っている。

三階の女の子は、手を入れた。

椛島さんは、写真の前から動かなかった。

池の端のほうに、坊主頭の子どもが一人、写っていた。泥の中に膝までついて、両手を、まだ水の中に入れている。顔は、ぶれていた。

「……俺も、入りよりました」

椛島さんは、それだけ言った。女将は、何も言わずに、椛島さんの湯呑みに茶を注ぎ足した。


 店を出ると、また雨が落ちてきた。

川沿いの道を、駐車場まで戻った。椛島さんは、傘の柄を、親指で拭わなかった。

コーンの脇で足を止めた。頭に留めた貼り紙が、雨を吸って、角から浮いていた。

椛島さんは、浮いたガムテープを親指で押さえた。一度押さえて、もう一度、押さえた。

それから、マンションの入口のほうへ歩いていった。


 夜、十時を過ぎて、駐車場の区画が全部埋まった。

椛島さんに、終わるまで部屋にいてもらうよう頼んだ。上の階の窓は、半分ほど明かりが点いていた。どの窓も、カーテンが引いてあった。

雨は、細く降り続いていた。

駐車場の灯りは、川側の隅に一本だけ立っている。白い光が、濡れたアスファルトに伸びていた。

水たまりの縁に、膝をついた。

ズボンの膝から、冷たい水が染みてきた。

傘は差せない。両手が要る。

鞄から、帳面を出した。膝の上で開いた。

灯りを背にして、水たまりに身を乗り出した。俺の影が、水の面に落ちた。

しばらく待った。

ぽちゃん、と鳴った。

影の下に、赤いものが寄ってきた。

左手を、水に入れる。

冷たかった。寒の雨の、溜まり水だ。掌を沈めると、指の先がアスファルトの底に触れた。その指の先から、感覚が遠のいていった。

赤いものが、手の下に来た。

掌に、重みが乗った。

冷たくて、ぬるりとしている。一度だけ、掌の上で身をよじった。それから、動かなくなった。乗っていることに、慣れているような重さだった。

帳面の頁に、雨が落ちていた。

粒が紙の上で弾けて、すぐに見えなくなる。頁は、濡れていなかった。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

あたりが張った。

車を、白い線を、コーンを、灯りの柱を、何かが数えていった。

掌の重みは、じっとしていた。

筆ペンを持った右手で、書く。

鯉、とだけ書けば、小学校の池にやられた鯉まで指すかもしれない。あれも、鷺の家の鯉には違いない。

けれど、あれはもう、鷺の家の池の鯉ではない。池に残ったのは、一匹だけだ。

指が、もう水の冷たさしか分からなかった。


  鷺の家 池の鯉 受 壱


 書き終えると、張ったものが落ちた。

掌の重みが、抜けた。

左手は、水の中で、自分の指の形のまま開いていた。指の先が、アスファルトの底に触れていた。

雨が、水の面に、小さな輪をいくつも立てていた。

しばらく、覗き込んだままでいた。

何も、寄ってこなかった。


 立ち上がって、膝の水を払っていると、入口の自動扉が開いて、椛島さんが下りてきた。

手に、封筒を二つ持っていた。

「済みました」

「そうですか」

椛島さんは、封筒を差し出した。見立ての一万円と、引き取りの三万円が、分けて入っていた。

受け取るとき、左手が、うまく動かなかった。

椛島さんは、俺の手を見て、それから、駐車場のほうを見た。

水たまりに、雨が落ちていた。

「冷たかったでしょう」

「はい」

「寒の水ですけんな」

椛島さんは、傘の柄を親指で拭った。

「あの頃は、冷たかとも思わんやったです」


 地下鉄で天神まで戻って、歩いて薬院(やくいん)に帰った。

本家は、まだ帰っていなかった。

流しで、手を洗った。湯が出るまで待って、石鹸で二度洗った。指に、ようやく血が戻ってきた。

タオルで拭いて、左手を、顔に寄せた。

泥と、水草の匂いがした。

手を浸けたのは、アスファルトに溜まった、雨の水だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。