第六十話 鷺の家 池の鯉 受 壱
冷たい雨が三日続いて、四日目の昼に、ようやく切れた。
歩道のタイルはまだ濡れていて、デパートの入口の前だけ、靴の跡が乾いた白い筋になっていた。机を出して、値札に掛けておいたビニールを外した。
昼過ぎに、傘を提げた年寄りの男が、机の前で足を止めた。
六十前後だろう。灰色のジャンパーの襟を立てて、ズボンの裾が、くるぶしのところまで濡れていた。閉じた傘の柄を左手で持って、親指で、柄に残った雨の粒を拭っていた。
「拝み屋さんですな。藤崎の、城戸さんに聞いて」
「城戸さんの」
「時計の件で、来てもろうたち言いよらしたとです」
屋号は出てこなかった。それでも、時計の一件から、ここまで辿り着いている。
男は、椛島と名乗った。室見のマンションで、管理組合の理事長をしているという。
「駐車場の、水たまりで、魚の跳ぶとです」
椛島さんは、親指で傘の柄を拭った。もう水は残っていなかった。
「雨の降ると、駐車場の真ん中へんに、水の溜まるとです。そこで、ぽちゃん、ち跳ぶ。覗いたら、赤かとが寄ってくる」
「いつからですか」
「去年の冬からです。夏の夕立のときは、何も出らんやったとに」
三階の家に、小学一年の女の子がいる。雨の日の夕方、学校から帰ってくると、その水たまりの前にしゃがみこむ。手を入れる。赤いのを、掴もうとする。
先週、しゃがんでいるところへ、隣の区画の車がバックしてきた。運転していた人は、女の子に気づいていなかった。ブレーキの音を聞いて、母親が三階から駆け下りてきた。
「当たっとらんです。寸前で止まった」
理事会で、その母親が言った。沈んだところを埋めてくれ。補修は見積もりを取って、春の総会にかけることになった。
「春までにも、雨は降りますけんな」
コーンを置いた、と椛島さんは言った。貼り紙もした。それでも、子どもは寄ってくる。
「住んどる者で、地のもんは、わしだけです。みんな越してきた人ばっかりで。昔からおらすけん、ち言われて」
それで、拝み屋を探すことになったのだという。
見立てに一万円、と言った。引き取ることになったら、そこから三万円。
「組合の金からは、出せんとです。名目の立たんけん」
椛島さんは、傘の柄を握りなおした。
「わしが呼んだとですけん。わしが払います」
本家に、今日は室見に出ると電話を入れた。本家も、昼から箱崎のほうに出ているという。
天神から地下鉄に乗った。西新を過ぎ、藤崎を過ぎて、室見で降りた。
地上に出ると、また細かい雨が落ちてきていた。
駅を出ると、すぐに川がある。川沿いを、河口のほうへ下った。室見川は、河口が近いぶん、幅が広い。三日の雨で、水は茶色く濁っていた。嵩は、思ったほど上がっていない。冬の川は、降っても、そう膨らまないのだろう。向こう岸の愛宕山が、雨に煙っていた。
川沿いの道に、古い料理屋が何軒か並んでいた。昼の営業を終えた時分で、どの店も、暖簾が下りていた。
並びの一軒ぶんが、五階建てのマンションになっていた。
「ここは、鷺の家ち言う料亭やったとです」
椛島さんは、傘の下から、マンションを見上げた。
「十五年くらい前に、畳んでしもうて」
駐車場は、建物の川側にあった。屋根の無い平面の駐車場で、二十台ほどが白い線で区切ってある。
真ん中より少し奥、区画と区画のあいだの通路に、水が溜まっていた。差し渡しで、大人が両腕を広げたくらい。周りのアスファルトは雨に濡れているだけなのに、そこだけ、水が溜まって動かない。
脇に、赤いコーンが一つ立っていた。コーンの頭に、ラミネートした紙がガムテープで留めてある。手書きで、水たまりに手を入れないこと、とあった。字が、雨の筋で半分読めなくなっていた。
「そこだけ、沈んどるとです。建って十年で」
椛島さんは、傘の柄を親指で拭った。
「庭に、池のあったとですよ。料亭の。マンション建てるときに、埋めて」
雨が、水たまりの面に、小さな輪をいくつも立てていた。
椛島さんが、水たまりの縁に立った。傘をすぼめて、上から覗き込んだ。
しばらくは、何も起きなかった。
それから、水たまりの真ん中で、ぽちゃん、と音がした。
雨粒の輪とは違った。掌を広げたくらいの輪が、ひとつ立って、縁まで広がった。
覗き込んだ椛島さんの影の下に、赤いものが、ゆらりと寄ってきた。
深さは、手首が隠れるほどもない水たまりだ。底には、黒いアスファルトが見えている。赤いものは、その上に、浮くように見えた。
椛島さんが顔を上げると、消えた。
「これです」
俺も、覗き込んでみた。
しばらく待つと、ぽちゃん、と鳴った。俺の影の下に、赤いものが寄ってきた。大きい。肘から先くらいある。
顔を上げると、消えた。
目印を貼る場所を探した。
雨の駐車場では、貼れる場所が限られる。札は濡れても貼れるが、濡れた紙は、読むときに手触りが変わる。
濡れた紙と、湿りとは違う。安藤さんに、そう教わった。ただの水で湿った紙は、ふやけるだけで、消耗の湿りとは手触りが違う。分かってはいる。それでも、読む前に紙が濡れていれば、こちらの目が迷う。
一枚目は、駐輪場の屋根の下、鉄の柱の内側に貼った。二枚目は、マンションの入口の庇の下、柱の陰に。三枚目は、川側の隅にあるゴミ置き場の、屋根の下の壁に。
三つとも、水たまりから離れて、違う向きにある。
短い祝詞をあげた。八文字。
雨の日に出て、すぐ脇を川が流れている。舞鶴の表具屋の、渕上さんの作業場では、ビルの下に埋めた井戸が、毎朝床を丸く濡らしていた。あのときの目印は、湿った。
ここも、埋めた池だ。川の水が、地面の下を通って、池のあったところに上がってきているのかもしれない。
湿るだろう、と思った。
朝、三枚を剥がしに行った。
雨は夜のうちに上がっていた。水たまりは、まだそこにあった。
駐輪場の柱から、一枚目を剥がした。
焦げていた。
湿りではない。紙は乾いていて、縁の一か所から、茶色く焦げが広がっていた。
二枚目も、三枚目も、焦げていた。
焦げは、獣の色だ。生きていたものの色だ。
それぞれの焦げの中心から、線を延ばした。三本は、駐車場の真ん中で交わった。水たまりの上だ。
水ではなかった。水は、器だ。中にいるのは、生き物のほうだ。
赤くて、肘から先くらいある。池に、いたもの。
「鯉ですか」
椛島さんに訊いた。
「料亭の池に、鯉はおりましたか」
「おりました。緋鯉の、でっかかとが」
「その鯉は、どうなったとですか」
椛島さんは、首を振った。
「知らんです。わしは、とうに家ば出とったけん。戻ってきたときには、もう、ここが建っとった」
生きているものなら、受けられない。
「並びの店の人なら、知っとらすかもしれん」
椛島さんは、川沿いの道のほうを見た。
昼前、並びの料理屋の勝手口に回った。
勝手口の脇の表札に、古藤とあった。出てきたのは、八十近い女将で、割烹着の袖を、二の腕のところで留めていた。椛島さんの顔を見ると、まあ、と言った。
帳場の奥の、小上がりに通された。
壁に、古い写真が額に入れて掛けてあった。
水を抜いた池の写真だ。底の泥に、子どもたちが何人も入っている。どの子も、肘まで泥だらけで、両腕に鯉を抱えて笑っていた。池の縁に、白い前掛けの男が立っていて、ひときわ大きな鯉を、たらいの上に掲げている。白黒の写真なのに、その鯉だけ、色が分かるような気がした。
「鷺の家さんは、毎年、寒に池ば干しよったとです」
女将は、湯呑みを三つ並べた。
「冬は、鯉の動かんけん。水ば抜いて、底ば浚うて。鯉は、手で掬うてたらいに移すとです。近所の子どもの、みんな来よった」
「この、大きいのは」
「それが、主ですたい。四十年おったとですよ、あの池に」
女将は、写真の、白い前掛けの男を指した。
「大将が、毎年、いちばん最後に、自分で掬いよりました」
「その鯉は、どうなったとですか」
「最後の池干しの前の冬に、浮いとりました。大将が、庭の隅に埋めてやって。ほかの鯉は、小学校の池にやったとです」
死んでいる。
大きいのは、あの一匹だけだ。
「水たまりで、跳ねよるとです。浅い水で」
俺は、見たことを話した。雨の日にだけ、手首も隠れないほどの水たまりで、跳ねる。人が覗くと、寄ってくる。
「水の足らんで、苦しがっとるとやと思います。池の、つもりで」
女将は、しばらく写真を見ていた。
「苦しかとやなかですよ、あれは」
「は」
「池ば干したら、鯉は跳ねよりました。毎年。苦しかけん跳ぶとやなかとです。浅うなったら、手の来るとを知っとるけん」
女将は、湯呑みを両手で包んだ。
「掬うてもらいよるとですよ、あれは」
冬の浅い水には、手が来る。毎年、寒になると、子どもたちが泥に入ってきて、両手で掬い上げて、たらいに移してくれる。
四十年、それが続いた。
だから、夏の夕立では出てこない。冬の雨で、浅い水が溜まったときにだけ、跳ねて、寄ってくる。
寄ってくるのは、覗き込んだ人の影の下だ。手が来る、と思っている。
三階の女の子は、手を入れた。
椛島さんは、写真の前から動かなかった。
池の端のほうに、坊主頭の子どもが一人、写っていた。泥の中に膝までついて、両手を、まだ水の中に入れている。顔は、ぶれていた。
「……俺も、入りよりました」
椛島さんは、それだけ言った。女将は、何も言わずに、椛島さんの湯呑みに茶を注ぎ足した。
店を出ると、また雨が落ちてきた。
川沿いの道を、駐車場まで戻った。椛島さんは、傘の柄を、親指で拭わなかった。
コーンの脇で足を止めた。頭に留めた貼り紙が、雨を吸って、角から浮いていた。
椛島さんは、浮いたガムテープを親指で押さえた。一度押さえて、もう一度、押さえた。
それから、マンションの入口のほうへ歩いていった。
夜、十時を過ぎて、駐車場の区画が全部埋まった。
椛島さんに、終わるまで部屋にいてもらうよう頼んだ。上の階の窓は、半分ほど明かりが点いていた。どの窓も、カーテンが引いてあった。
雨は、細く降り続いていた。
駐車場の灯りは、川側の隅に一本だけ立っている。白い光が、濡れたアスファルトに伸びていた。
水たまりの縁に、膝をついた。
ズボンの膝から、冷たい水が染みてきた。
傘は差せない。両手が要る。
鞄から、帳面を出した。膝の上で開いた。
灯りを背にして、水たまりに身を乗り出した。俺の影が、水の面に落ちた。
しばらく待った。
ぽちゃん、と鳴った。
影の下に、赤いものが寄ってきた。
左手を、水に入れる。
冷たかった。寒の雨の、溜まり水だ。掌を沈めると、指の先がアスファルトの底に触れた。その指の先から、感覚が遠のいていった。
赤いものが、手の下に来た。
掌に、重みが乗った。
冷たくて、ぬるりとしている。一度だけ、掌の上で身をよじった。それから、動かなくなった。乗っていることに、慣れているような重さだった。
帳面の頁に、雨が落ちていた。
粒が紙の上で弾けて、すぐに見えなくなる。頁は、濡れていなかった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
車を、白い線を、コーンを、灯りの柱を、何かが数えていった。
掌の重みは、じっとしていた。
筆ペンを持った右手で、書く。
鯉、とだけ書けば、小学校の池にやられた鯉まで指すかもしれない。あれも、鷺の家の鯉には違いない。
けれど、あれはもう、鷺の家の池の鯉ではない。池に残ったのは、一匹だけだ。
指が、もう水の冷たさしか分からなかった。
鷺の家 池の鯉 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
掌の重みが、抜けた。
左手は、水の中で、自分の指の形のまま開いていた。指の先が、アスファルトの底に触れていた。
雨が、水の面に、小さな輪をいくつも立てていた。
しばらく、覗き込んだままでいた。
何も、寄ってこなかった。
立ち上がって、膝の水を払っていると、入口の自動扉が開いて、椛島さんが下りてきた。
手に、封筒を二つ持っていた。
「済みました」
「そうですか」
椛島さんは、封筒を差し出した。見立ての一万円と、引き取りの三万円が、分けて入っていた。
受け取るとき、左手が、うまく動かなかった。
椛島さんは、俺の手を見て、それから、駐車場のほうを見た。
水たまりに、雨が落ちていた。
「冷たかったでしょう」
「はい」
「寒の水ですけんな」
椛島さんは、傘の柄を親指で拭った。
「あの頃は、冷たかとも思わんやったです」
地下鉄で天神まで戻って、歩いて薬院に帰った。
本家は、まだ帰っていなかった。
流しで、手を洗った。湯が出るまで待って、石鹸で二度洗った。指に、ようやく血が戻ってきた。
タオルで拭いて、左手を、顔に寄せた。
泥と、水草の匂いがした。
手を浸けたのは、アスファルトに溜まった、雨の水だった。




