↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/67

第五十九話 菱屋ビル 運行 受 壱

 松が取れて、通りの向こうの工事の囲いに、また重機の音が戻ってきた。

朝から風が冷たかった。デパートの入口が開くたびに、暖房の空気が歩道までこぼれてきて、すぐに風に持っていかれた。

昼前に、作業着の上にコートを着た男が、机の前で足を止めた。

五十前後だろう。手に、名刺を一枚持っている。俺の刷った名刺だ。角が丸くなっていた。

「こちらの、拝み屋さんで」

名刺と、看板と、俺の顔を、順に見た。

「みやこビルの、六階の件で。川原(かわはら)さんのところに入られた」

「はい」

「うちが、みやこビルの管理ばしとります。そのときの綴りに、この名刺の挟まっとったとです」

男は、財津(ざいつ)と名乗った。管理会社の名の入った名刺を、俺の名刺の上に重ねて机に置いた。

「天神の、ビルの、エレベーターのことで」

財津さんは、手帳を出した。表紙のあいだに、方眼紙が一枚、四つに折って挟んである。広げると、細かい字の表になっていた。

財津さんは、表の一行目を、指で上から下へなぞった。

「乗った人が、降りてこんとです」


 菱屋(ひしや)ビルは、明治通りから一本入ったところにあった。

六階建ての、古い雑居ビルだ。壁から突き出た袖看板は、どれも中身を抜かれて、白い枠だけになっている。一階の硝子戸に、建て替えのお知らせが貼ってあった。三月から解体、とある。

テナントは、十一月で全部出たという。

「建ったときの持ち主が、菱屋ち言う呉服屋やったそうです。名前だけ、残っとります」

財津さんは、硝子戸の鍵を開けた。

乗り場の床は石で、台車の轍が、白く何本も残っている。

エレベーターは、一基きりだ。扉の上の階数の灯りが、四、五、六と移って、また下りてきた。

誰も乗っていない。

一階に着いて、扉が開いた。中は、明るかった。誰もいない。扉が閉まって、また上がっていった。

「止めとらんとです」

財津さんが言った。

「止めたら、降りてこられんごとなるかもしれんけん。誰も乗せんで、上がって下りるのを、ずっと繰り返させとります」


 一階の奥の、管理人室に通された。

机の上に、ノートパソコンが一台、開いてあった。財津さんは、かごの中の防犯カメラの映像を出した。

十二月の頭の日付が出ていた。最後のテナントが出ていった日だという。

かごの中を、斜め上から見下ろす画だ。扉が開いて、段ボール箱を抱えた若い男が一人、乗ってきた。引越し屋の作業着を着ている。肘で、行き先のボタンを押した。

扉が閉まった。

次の一コマで、扉が開いた。

かごの中には、誰もいなかった。

画の隅の時刻は、続いている。一秒も飛んでいない。

「この人が、最初に戻ってきた人です」

財津さんは、映像を止めた。

「次の日の、昼に。乗ったときの箱ば抱えて、降りてきました」

その日、一人でこのエレベーターに乗った人が、十五人、降りてこなかった。引越し屋の作業員と、テナントの最後の片づけに来た人たちだ。

二人で乗った人は、何事もなく降りてきた。一人で乗った人だけが、降りてこなかった。

財津さんは、方眼紙を広げた。

一行目は、引越し屋の若い男だ。翌日。

二行目は、三日後。

三行目は、一週間後。缶コーヒーを持って乗った人で、降りてきたとき、缶はまだ熱かったという。

四行目は、三週間後。暮れの二十日過ぎに、テナントの事務の女の人が、最後の鍵を手に持って降りてきた。

どの人も、乗って、降りただけだと言った。着ているものも、持っているものも、乗ったときから変わっていなかった。

「警察も、来とります。家の人たちも、毎日のごと来らします」

財津さんは、表の五行目に指を置いた。

「ばってん、戻った人が、乗って降りただけ、ち言うとですけん。何の事件にもならんとです」

五行目から下に、まだ十一人の名前がある。

名前の横に、日付が書き込んであった。鉛筆の字だ。

「一日、三日、七日、二十一日」

財津さんは、四つの日付を、指で順に叩いた。

「三倍ずつ、延びよります。そのまま延びたら、次は九週間。二月の頭です」

その次は、半年後。その次は、一年半。五年。十五年。

最後の行は、四十年先だった。

「解体は、三月からです」

財津さんは、表の二行目から下を、指で上から下へなぞった。五行目の一人だけが、解体の前に入っている。そこから下は、どれも、このビルが無くなったあとの日付だ。

「降りてくる先の、無かとです」


 値段を言った。見立てに二万円、引き取りになれば、十五万円。

財津さんは、手帳に書き留めた。値段の話は、それで済んだ。


 昼過ぎに、保守の技術者が来た。

深町(ふかまち)さんという、六十前後の人だ。灰色の作業着の胸に、エレベーターの会社の名が縫い取ってある。三十年、このかごを見てきたという。

深町さんは、かごを一階に呼んで止めた。若い作業員を一人連れていた。

「乗るときは、二人です」

三人で乗った。

かごの中は、暖かかった。乗り場は冷えきっているのに、かごの中だけ、空調が効いている。

「機嫌のよか日は、止まりが柔らかかとです、こいつは」

深町さんは、扉の脇の壁を、平手で一度叩いた。

六階で降りて、階段で屋上へ上がった。機械室は、屋上の端にある、小さな箱のような部屋だ。

深町さんは、制御盤の蓋を開けて、小さな画面を指で叩いた。

「これが、運行の記録です」

起動の回数が、数字で出ている。深町さんは、日ごとの数字を遡って見せた。

誰も乗っていない夜中にも、数字が増えていた。上がって下りるのを繰り返させているぶんとは、別にだという。

「呼んどらんとに、走っとります。夜中に」

それから、深町さんは、別の数字を指した。

「こっちが、かごの荷重です」

七百二十キロ、と出ていた。

いま、かごは一階で空のまま止めてある。

「定員九人、六百キロのかごです」

深町さんは、画面から目を上げなかった。

「本当なら、ブザーの鳴って、扉の閉まらん重さです。こいつは、鳴らさんで走りよる」

数字は、十二月の頭の日から、ずっとそこにあるという。戻った人が一人降りてくるたびに、下がった。暮れの二十日過ぎには、五十キロと少し、下がった。

乗っているのだ。十一人ぶん。

「閉じ込めよるとですね」

俺が言うと、深町さんは、首を横に振った。

「閉じ込めやったら、かごは止まっとります。閉じ込めは、止まったかごの中に人の残るとです。こいつは、止まっとらん」

深町さんは、制御盤の蓋を閉めた。

「走りよるとです。乗せたまま」


 かごを止めてもらって、目印を貼った。

一階の乗り場の、扉の脇に一枚。六階の乗り場の、扉の脇に一枚。かごの中の、奥の壁に一枚。

かごの一枚は、深町さんたちと三人で乗って貼った。

短い祝詞をあげた。八文字。

深町さんは、黙って見ていた。若い作業員は、天井の灯りを見ていた。

動く箱だ。物の記憶なら、湿りが出る。そう構えていた。


 次の朝、一枚ずつ見て回った。

黄ばんでいた。三枚とも。

一階の一枚は、上の縁から。六階の一枚は、下の縁から。どちらも、扉の向こう、昇降路のほうを向いている。

場の記憶だ。

場は、動かない。動くものは、物か、生き物だ。黄ばんだものが、上がったり下りたりするはずがない。

深町さんにかごを止めてもらって、かごの一枚を見た。

黄ばみが、一か所から広がっていなかった。上寄りから入ったところがあり、下寄りから入ったところがあり、真ん中から入ったところがある。それが一枚の紙の上で、重なっていた。

上を指し、下を指し、その場を指した。

安藤さんの声を、思い出した。みやこビルの仕事を断ったときの話だ。六階の踊り場に貼った一枚が、そうなったと言っていた。

あの踊り場は、ビルの中にあって、ビルではなかった。上へ上がっても、下へ下りても、同じ踊り場に着いた。入ったとき、街の音が消えた。

ビルが、ビルではない場所を、一つ抱えていたのだ。

ここも、同じではないのか。

場は、かごではない。かごが抱えている場所のほうだ。動いているのは、入口だけだ。場は、動いていない。

あの踊り場には、数えながら下りると入った。ここには、一人で乗ると入る。

降りてこない十一人は、そこにいる。

ひとつだけ、合わないことがあった。あの踊り場で、木下(きのした)さんは二日いて、外でも二日が過ぎていた。時間は、ずれなかった。

ここでは、ずれる。三週間が、乗って降りるだけの間になる。

同じ形の場所なのに、なぜそこだけ違うのか。分からなかった。


 乗り場から、書けないことはなかった。

品名は立ちかけていた。数も、一つだ。ここで帳面を開いて書けば、たぶん通る。

ただ、何が入るのか、分からない。

中に、十一人がいる。かごが抱えている場所ごと受ければ、そこにいる人たちも、一緒に入るかもしれない。

大橋(おおはし)中央病院の、非常階段で書いた行を、思い出した。恨みと書いて、人が入った。

どこに人がいるのかを確かめないうちは、書けない。

それに、あの踊り場も、中に入って、やっと解けた。


 夕方、表の店を閉めてから、安藤さんに電話した。

菱屋ビルのことを、話した。かごのこと、十一人のこと、荷重の数字のこと。みやこビルの踊り場と、同じ形だと思うこと。

安藤さんは、黙って聞いていた。

「一人で乗れば、入れると思います。明日の晩、乗ります」

「乗るな」

それだけ言って、安藤さんは、黙った。

あの人は、みやこビルを測って、断った。測って、数が出ないから断った。この件は、測りようもない。

「中に、十一人おるとです」

返事は無かった。

しばらくして、電話が切れた。


 その晩、四畳半で、本家に言った。

「明日の晩、そのエレベーターに乗る。何日になるか、分からん」

本家は、目覚ましの時刻を合わせる手を止めた。

「何日か、ですか」

「何時間で済むかもしれんし、何週間かもしれん」

本家は、目覚ましを枕元に置いた。

「乗るとは、俺が乗る。お前は、乗り場で待っとけ」

「はい」

「降りてきた人の、おったら、迎えてくれ。財津さんと一緒に」

「表は、閉めときます」

「ああ」

本家は、布団を敷いた。それから、言った。

「迎えるとは、元祖さんもですか」

「俺もたい」

「はい」

本家は、灯りを消した。


 次の日の夕方、財津さんは、封筒を二つ持ってきた。見立ての二万円と、引き取りの十五万円だ。

「乗られる前に、と思うて」

受け取って、そのまま本家に渡した。本家は、コートの内に仕舞った。

財津さんは、手帳の方眼紙を広げた。

「何日ぶん、見とけばよかですか。日当の枠ば、取っとかないかんとです」

答えられなかった。

財津さんは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、表のいちばん下の、十一人目の名前の下に、鉛筆で一行足した。

大上さん、と書いてあった。日付の欄は、空けてあった。


 夜の九時に、一階の乗り場に立った。

硝子戸の外を、明治通りのほうへ、人が歩いていく。乗り場の中では、自分の息の音がした。

深町さんが、上がって下りる運転を止めて、かごを一階に呼んでくれた。

財津さんと本家が、乗り場の端に並んで立っていた。本家は、両手をコートのポケットに入れていた。

硝子戸のそばに、年配の女の人が一人、管理人室の椅子を借りて座っていた。降りてこない人の奥さんで、毎晩ここで待っているのだと、財津さんが言った。

扉が開いた。

かごの中は、明るくて、暖かかった。

鞄を肩にかけ直して、一人で乗った。

六階のボタンを押した。

扉が閉まった。本家の顔が、細くなって、消えた。

かごが、上がりはじめた。

床が、足の裏を少しだけ押し上げた。階数の灯りが、二、三、と移っていく。

四、五。

六で、止まった。

扉が開いた。

六階の廊下は、暗かった。非常口の緑の灯りだけが点いている。テナントの出ていった扉が、並んでいた。

携帯を出した。乗ってから、一分と少ししか経っていなかった。

飛ばされなかった。

一階のボタンを押した。かごは下りて、一階で扉が開いた。財津さんが、腕時計を見ていた。本家は、ポケットから手を出していた。

「……二分です」

財津さんが言った。

もう一度、乗った。六階まで上がって、下りてきた。また、二分。

三度目も、変わらなかった。

入れなかった。

一人で乗った人は、みんな入った。俺だけが、入れない。

なぜなのか、分からなかった。


 四度目に、六階で扉が開いたとき、降りずに閉のボタンを押した。

扉が閉まった。かごは、六階で止まったまま動かなかった。

かごの中は、暖かかった。

空調の吹き出し口に、手をかざした。風は、ほとんど出ていなかった。

それでも、暖かい。人の多い朝の電車の、扉が閉まったあとのような暖かさだった。

乗っているのだ。このかごに。十一人が。

同じかごの中に、同じ時間ではないところに、乗っている。

閉じ込めているのではない。深町さんの言ったとおりだ。走っている。乗せたまま、運んでいる。気の済むまで。運ばれている人の側では、乗って、降りるだけの間だ。

運ばれている人は、運ばれているだけだ。運んでいるのは、かごのほうだ。

運行、と深町さんは言った。

運んでいる、のほうを書けば、運ばれている人は入らない。

入らない、はずだ。確かめる手は、無かった。

外では、三月に、このビルが無くなる。

鞄から、帳面を出す。


 短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

かごの中が、張った。

ブザーが鳴った。

扉が、開いた。暗い廊下と、非常口の緑の灯りが、また見えた。

ブザーは、鳴りやまなかった。重さを量って鳴る、あのブザーだ。乗っているのは、俺一人なのに。

扉は、開いたまま閉まらない。

降りろ、と言われているのだと思った。

鳴り続けるブザーの中で、筆を走らせた。


  菱屋ビル 運行 受 壱


 ブザーが、止んだ。

かごの中の暖かさが、ほどけるように、薄くなった。

扉が、閉まった。ボタンは、押していない。

かごが、下りはじめた。

階数の灯りが、五、四、と移っていく。

足の下に、段ボール箱の角が当たった。

肩が、誰かの肩に押された。缶コーヒーの匂いがした。

三、二。

息のしづらいほど、狭くなっていた。俺の背中に、誰かの背中が当たっている。鍵の束の鳴る音がした。

一で、止まった。

扉が開いた。

乗り場の灯りの下に、本家の顔があった。その横で、財津さんが、方眼紙を広げたまま持っていた。

かごの中に、人がすし詰めになっていた。

段ボール箱を抱えた作業着の男。紙袋を提げた女の人。帽子をかぶった年寄り。誰も、声を出さなかった。周りの人と扉の外とを見比べて、困った顔をしていた。

十一人と、俺だ。

ブザーが鳴った。

扉は、開いたまま閉まらなかった。

今度は、本当の重さで鳴っていた。


 かごから、一人ずつ降りてもらった。

三人降りたところで、ブザーは鳴りやんだ。

降りた人たちは、乗り場の真ん中で立ち止まって、互いの顔を見た。

「なんで、こげん乗っとったと」

段ボール箱を抱えた作業着の男が、誰にともなく言った。箱を床に下ろしかけて、また抱え直した。

「トラック、表に停めとったとですけど」

硝子戸の外の、明治通りのほうを見た。トラックは、どこにも見えない。

どこかで、携帯が鳴った。続けて、もう一つ。紙袋を提げた女の人の手の中でも鳴った。乗り場のあちこちで、溜まっていたものが一度に届く音が、しばらく止まなかった。

女の人は、携帯の画面を見たまま、動かなかった。

「……一月」

それだけ言って、画面を、隣の人のほうへ向けた。隣の人も、自分の画面を見ていた。

本家が、扉の脇に立って、降りてくる人に一人ずつ「お帰りなさい」と言った。言われた人は、何のことか分からない顔をして、それでも頭を下げた。

帽子をかぶった年寄りが、かごから出てきた。

硝子戸のそばの椅子から、女の人が立ち上がった。立ち上がったまま、そこから動かなかった。

年寄りのほうが、先に気づいた。

「なんね。下で待っとけ、ち言うたろうが」

女の人は、歩いてきて、年寄りのコートの袖を掴んだ。何も言わなかった。袖を掴んだまま、うつむいていた。

年寄りは、困った顔で、乗り場を見回した。

財津さんは、方眼紙の名前を、上から順に呼んだ。一人目の名前を呼ぶ声が、少しかすれた。呼ばれた人が、「はい」と答える。財津さんは、その行の日付に、鉛筆で線を引いた。

十一回、線を引いた。引き終えると、財津さんは、長く息を吐いた。それから、鉛筆を手帳の綴じ目に挟んだ。

作業着の男は、腕時計を見て、首をかしげていた。

誰もが、乗って、降りただけだと言った。

最後に、俺が降りた。

本家が、こちらを見た。

「お帰りなさい」

「二分ぞ」

「はい」

本家は、それ以上言わなかった。

財津さんは、方眼紙のいちばん下の行を、消しゴムで消していた。大上さん、と書いた行だ。消し終えると、紙の上の滓を、手で払った。


 その晩は、遅くまでかかった。財津さんが一人ずつの家に電話をかけ、警察が来て、迎えの車が何台も明治通りに停まった。

俺と本家は、管理人室の隅で、それを見ていた。

帰りぎわに、財津さんが言った。

「日当の枠の、取ってあったとですけど」

「二分ですけん」

財津さんは、少し考えてから、手帳を閉じた。


 二日後に、深町さんから電話があった。

荷重の数字は、あの晩から、ずっとゼロだという。夜中の起動も、一度も増えていない。

「止まりが、硬うなりました」

深町さんは、機嫌の話をしていたときと同じ声で、それだけ言った。


 安藤さんにも、電話した。

「乗りました」

返事は無かった。

「入れんかったです。俺だけ。二分で、降りてきました」

しばらく、どちらも黙っていた。

「そうか」

それで、切れた。


 表の店は、昼を過ぎても冷えていた。

風が、看板のベニヤ板を、ガードレールに押しつけて鳴らしていた。

一人で乗った人は、みんな入った。俺だけが、入れなかった。

あの十五人と、俺の、どこが違ったのか。

あの人たちには、行き先があった。箱を運び出す人がいた。最後の鍵を返しに来た人がいた。缶コーヒーを持って、どこかの階で用を済ませるつもりの人がいた。

俺は、六階に、何の用も無かった。

用があったのは、かごのほうだ。

運ばれに乗ったのではない。運んでいるものを、引き取りに乗った。

あのかごは、それを分かっていたのかもしれない。客ではないものは、運ばない。

そう考えれば、筋は通る。通る気がするだけで、確かめる手は無い。

十一人が乗せられていた場所を、俺は見ていない。乗せてもらえなかったからだ。

見られなかったことが、少しだけ、惜しかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。