第五十八話 赤司方 鏡台 受 壱
師走の一日は、朝から曇っていた。
高架の上を電車が渡るたびに、路地の奥まで音が降りてくる。日の差さない路地は、昼になっても冷えたままで、室外機の吐く風だけが生ぬるかった。
本家は朝から、春吉のほうへ見に行っていた。厄除けで済むかどうか、見てくると言っていた。
出がけに、本家は言った。
「今日、昼過ぎに、毎月一日に厄除けば一枚買いに来る人のおるとです。裏ば、開けといてもらえますか」
それで、表を閉めて、一本裏の机に座っていた。
本家の机は、俺の机と同じ机だ。脚が一本ぐらつくところまで同じで、雨よけのビニールが端に巻いてある。客用のパイプ椅子が、机の前に一脚。
二時を回ったころ、路地の口から、小柄な人が入ってきた。
八十は過ぎているだろう。灰色のコートに、毛糸の帽子をかぶって、手提げを肘にかけている。歩幅が小さいが、迷わずにこちらへ来た。
顔に、覚えがあった。表の店の前を、月に一度、通っていく人だ。足を止めたことは、一度もない。
その人は、机の前まで来て、手提げの口を開けた。中から、四つに畳んだ千円札を出した。
それから、顔を上げて、俺を見た。
千円札を持った手が、止まった。
「今日は、おりんしゃれんとですか」
訊かれたことが、すぐには呑み込めなかった。
本家と取り違えられたことなら、何度もある。客に取り違えられなかったことは、無い。
「……出とります。俺も、同じ店のもんです。厄除けなら、ここに」
束を、机の上に出した。
その人は、束を見なかった。俺の顔を、もう少しだけ見ていた。
「そうですか」
千円札を、畳んだまま、手提げに戻した。
「また来ます」
小さく頭を下げて、路地の口へ戻っていった。
客用の椅子には、座らなかった。
同じ顔だ。同じ声で、同じ店の名を言った。
二人を取り違えないのは、安藤さんだけだと思っていた。あの人は、帳面で分かるのだろうと思っていた。鞄の中の帳面が、俺のほうにしか無いからだ。
いまの人に、帳面の気配が分かるとは思えなかった。
日が傾いて、本家が戻ってきた。春吉のは、厄除け一枚で収まったと言った。
机を本家に返して、表へ戻った。
その晩、四畳半で、その日受けた客を言い合った。本家の言う名前のほうが、多かった。
「一日の人、来たぞ」
本家は、目覚ましの時刻を合わせていた。
「俺の顔ば見て、今日はおらんとですか、ち言うた。買わんで帰った」
本家の手が、少し止まった。
「店じまいの前に、戻って来らして、買うていかれました」
「同じ顔やろうが」
「同じ顔です」
本家は、目覚ましを枕元に置いた。
「赤司さん、ち言わすとです。御所ヶ谷の方の」
それ以上は、言わなかった。
年の瀬にかけて、厄除けがよく出た。
寝る前に言い合うと、その晩からも、本家の言う名前のほうが多い晩が続いた。
理由は、思い当たらない。表も裏も、店の名を覚えてもらえないのは同じだ。名刺の文言も同じで、置いている札も同じ束から分けている。
多かった。それだけだ。
暮れも押し詰まった晩に、本家が言った。
「赤司さんの、今週、三回来らしたとです」
一日に一枚、毎月。それが、一週間で三枚になった。
本家は、三回目に理由を訊いたという。御所ヶ谷の家まで行って、見てきた。
「鏡台です。嫁入りのときに持ってきらした、と」
朝の六時になると、誰も触っていないのに、鏡に掛けた布がめくれて、引き出しが開いている。片づけても、次の朝にはまた開いている。秋からだという。
「厄除けば、鏡台の脇の柱に貼りました。二日で、黒うなります」
貼り替えれば、また二日。そのうちに、夜中にも開くようになった。
「一昨日の晩、鏡が前に倒れて、角の欠けたそうです」
本家は、膝の上で手を組んだ。
「割れた鏡で正月ば迎えるわけにはいかん、ち言いよらします。年の内に、どうにかしたかと」
本家は、俺の顔を見た。
「押さえきれんです。お願いできますか」
「明日、行く」
「俺も、行きます。赤司さんが、そのほうが、よかろうけん」
本家は、そう言ってから、目覚ましの時刻を合わせた。
御所ヶ谷の家は、坂の上にある。
大きな家の塀が続く道を、本家の後について上った。石段を十段ほど上がったところに、古い平屋が建っていた。垣根の山茶花が、赤く咲いていた。散った花びらが、石段の端に寄せて掃いてある。
玄関で、赤司さんが待っていた。
「寒かったろう。上がって」
本家に言った。
本家は、靴を揃えてから、俺を手で示した。
「うちの元祖です。今日は、見てもらいます」
赤司さんは、俺を見て、頭を下げた。
「お世話になります」
言い方が、本家に向けたものと違っていた。
茶の間に通された。
炬燵に、厚い布団が掛けてある。赤司さんは、盆に湯呑みを二つ載せて、台所から戻ってきた。
湯呑みは、先に本家の前に置かれた。それから、俺の前に。
「あんた、手の冷たかろう。先に飲み」
本家にだけ、そう言った。
鏡台の話を、聞いた。赤司さんは、俺が訊くたびに、答えを本家のほうへ向けた。
嫁入りのときに、母親が誂えてくれた鏡台だという。六十年、毎朝その前に膝をついて、髪を結ってきた。
秋に、庭で転んだ。膝を悪くして、それからは、膝をついて座れない。顔は、洗面所の鏡で済ませている。
「座らんごとなってから、勝手に開くごとなったとです」
赤司さんは、本家のほうを見て言った。
「この人に、言うたとおりです」
値段を言った。見立てに一万円、引き取りになれば、三万円。
赤司さんは、本家を見た。
「それで、よかろうか」
「よかと思います」
本家が言うと、赤司さんは、うなずいた。
鏡台は、奥の六畳にあった。
縁側の障子を背にして、黒い漆の、膝をついて使う低い鏡台が置いてある。鏡に、朱の色の褪せた掛け布が下ろしてあった。前に、薄い座布団が一枚。
掛け布の裾が、少し持ち上がっている。引き出しが、指一本ぶん、開いていた。
脇の柱に、本家の厄除けが貼ってあった。縁から、黒く焼けている。
赤司さんは、掛け布をめくって見せた。
鏡の左下の角が、小指の先ほど欠けていた。そこから、細い罅が一本、斜めに入っていた。
「割れんうちに、と思うて」
赤司さんは、掛け布を下ろした。
床の間の柱に一枚。襖の、鏡台から離れた端に一枚。縁側の障子の、桟に一枚。目印を、三枚貼った。
短い祝詞をあげた。八文字。
赤司さんは、廊下に立って、本家と並んで見ていた。
次の朝、六時の前に、一人で御所ヶ谷へ上った。
坂の上は、まだ暗かった。吐く息が白い。
赤司さんは、もう起きていて、玄関の灯りを点けて待っていた。俺の後ろを、一度見た。
「あの人は」
「店ば開けとります」
「そうですか」
奥の六畳は、冷えきっていた。灯りを点けずに、襖の陰に立った。赤司さんは、茶の間に戻っていった。
障子が、外から少しずつ白くなってきた。
掛け布の裾が、持ち上がった。
誰の手も無い。布が、下からゆっくりめくれて、鏡の上へ折り返された。鏡に、白みかけた障子が映った。
それから、引き出しが出てきた。手のひら一枚ぶん、すうっと。
音はほとんどしなかった。木の擦れる音が、一度だけした。
近づいて、引き出しを覗いた。つげの櫛が一つ、手前の縁に、歯をこちらへ向けて置いてある。
茶の間から、赤司さんが来て、後ろに立った。
「櫛は、奥に仕舞いよったとです。いつも」
三枚の目印を、見て回った。
湿っていた。三枚とも、紙の一か所が、水を吸ったように色を変えている。
床の間の柱の一枚は、右の縁から。襖の一枚は、真ん中から。障子の一枚は、左の縁から。それぞれから一本ずつ、線を引いた。
三本は、鏡台の引き出しで交わった。
湿りなら、植物か物だ。この部屋に、植わっているものは無い。
昼に、本家と二人で、鏡台を動かした。
赤司さんに断って、六畳の反対の端、床の間の脇へ運んだ。思ったより軽かった。持ち上げたとき、引き出しの中で、櫛が小さく鳴った。
三枚を、貼り替えた。
次の朝、線は、床の間の脇で交わった。鏡台の引き出しだ。
付いてくる。鏡台そのものが、覚えている。
その日の昼に、茶の間で話した。
炬燵の上に、蜜柑が盛ってあった。赤司さんは、本家の前と俺の前に、一つずつ置いた。
本家の前のほうが、大きい気がした。
「鏡台が、覚えとるとです。毎朝、赤司さんが前に座って、布ば上げて、引き出しから櫛ば出しよった。それを」
赤司さんは、黙って聞いていた。
「座らんごとなっても、鏡台のほうは、まだ毎朝、支度ばしてもらいよると思うとるとです」
赤司さんは、本家のほうを向いた。
「あんたが言うたとと、同じこと言いよらすね」
本家は、少し間を置いた。
「はい」
同じことを言ったのだ。同じ頭なのだから、そうなる。
赤司さんは、二人の顔を見比べはしなかった。
「支度ばしよるとは、鏡台のほうですよ」
赤司さんは、湯呑みを両手で持った。
「うちが起きていったら、いつも、向こうのほうが先に待っとった。冬でも。そげな気のしよったです」
「鏡台が、支度を」
「そう」
赤司さんは、湯呑みを置いた。
手順を覚えている物なら、手順に合う中身を当ててやれば、静かになる。宮原先生の待合の、形見の鉢も、花を入れたら収まった。
この鏡台の手順の中身は、毎朝その前に座る人だ。
「毎朝、どなたか、座られる方は」
赤司さんは、首を横に振った。
「娘は、東京ですけん。孫は、まだ小まか」
それから、自分の膝に手を置いた。
「もう、座れんですけん」
炬燵の中で、誰かの足が動いた。
「引き取ってもらうと、どげんなるとですか」
「うちの帳面に、書きます。書いたら、ここからは無くなります」
赤司さんは、少し考えていた。
「無くなって、どこへ行くとですか」
「うちに、入ります」
赤司さんは、本家を見た。
「あんたのとこで、預かってもらえるとね」
「うちで、お引き取りします」
本家が言うと、赤司さんは、首を横に振った。
「引き取りやなかとよ。預けると」
「お返しは、できんかもしれんです」
俺が言った。
赤司さんは、こちらを見た。
「返してもらおうとは、思うとりません」
それから、また本家のほうを向いた。
「預けるとよ」
本家は、うなずいた。
「はい。お預かりします」
年の暮れの最後の平日に、もう一度坂を上った。
途中の家で、門に注連飾りを付けていた。
奥の六畳で、鏡台を元の場所に戻した。縁側の障子を背にして、前に座布団を一枚。
「その前に、一回だけ、座らせてもらえんですか」
赤司さんが言った。
本家が、すぐに腕を出した。
赤司さんは、その腕に掴まって、片方ずつ、ゆっくり膝を折った。途中で一度、息を詰めた。本家は、腕を下げる速さを、赤司さんに合わせていた。
俺は、帳面を持って、襖の脇に立っていた。
赤司さんは、座布団の上に膝をついて、背筋を伸ばした。
掛け布は、めくれなかった。赤司さんが、自分の手で上げた。
欠けた角のある鏡に、赤司さんの顔が映った。その後ろに、同じ顔が二つ並んでいた。
赤司さんは、引き出しを引いて、奥から櫛を出した。帽子を取った白い髪に、一度だけ、櫛を通した。
櫛を、引き出しの奥に戻した。引き出しを、閉めた。
掛け布を、下ろした。
「これで、よか」
本家の腕に掴まって、立ち上がった。
本家が、赤司さんを連れて表へ出た。山茶花を見てくると言っていた。
奥の六畳に、一人になった。
鏡台の前に立った。引き出しは、閉まったまま動かなかった。
帳面を、開く。
掛け布が、少しだけ持ち上がった。鏡の下の端に、帳面を開いた俺が映った。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
部屋が張った。引き出しの取っ手を、漆の剥げたところを、鏡の欠けた角を、何かが数えていった。
赤司方 鏡台 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
鏡台は、無かった。
畳に、鏡台の置いてあった跡が、四角く浅く残っていた。その手前に、座布団が一枚。
三枚の目印を剥がして、柱に残っていた本家の厄除けも剥がした。
茶の間に戻ると、赤司さんと本家が、炬燵に入っていた。
赤司さんは、奥の六畳のほうを、見に行かなかった。
「壊れるよりは、よかです」
それだけ言った。
赤司さんは、茶箪笥の引き出しから、封筒を出した。膝の上で、一度撫でて伸ばしてから、本家の前に置いた。
本家は、封筒に手を置いたまま、言った。
「仕事ばしたとは、うちの元祖ですけん」
赤司さんは、うなずいた。
「知っとります。仕事ばしてくれたとは、そちらさんでしょう」
こちらを向いて、両手を膝に置いた。
「ありがとうございました」
きちんと、頭を下げた。
それから、本家のほうへ向き直った。
「ありがとうね」
本家は、何か言いかけて、やめた。封筒を、両手で受け取った。
四万円が、入っていた。
坂を下りながら、本家は、封筒を俺に渡そうとした。
「持っとけ。帳簿ばつけよるとやけん」
本家は、封筒をコートの内に仕舞った。
石段の端に寄せてあった山茶花の花びらが、風で少し散った。
元日は、晴れた。
朝のうちに、表の机を出した。元日は、通りの店がどこも閉まっていて、歩道が広く見えた。
警固神社へ向かう人が、着ぶくれて、北のほうへ歩いていく。戻ってくる人は、破魔矢を持っていた。
誰も、机の前で足を止めなかった。
昼前に、本家が路地の口から出てきた。
手に、小さなポチ袋を一つ持っていた。白地に、赤い鶴が刷ってある。
「赤司さんの、来らしたとです。お参りの帰りに」
本家は、ポチ袋を机の上に置いた。
「若か人には、お年玉、ち」
厄除けも、一枚買っていったという。千円札は、いつものように、膝の上で伸ばしてから渡してきたそうだ。
本家は、ポチ袋の口を開けた。
「半分、どうですか」
「もろうたとやろ。取っとけ」
本家は、少しのあいだ、ポチ袋を持っていた。
「はい」
口を閉じて、コートのポケットに入れた。
「今年も、よろしくお願いします」
「ああ」
本家は、路地のほうへ戻っていった。
客は来なかった。
机の前の、客用のパイプ椅子に座った。
員数の外の椅子だ。店番の椅子と並べて買ったものではない。客が座るために置いている。
座ったのは、初めてだった。
前に、机がある。脚の一本がぐらつく、折りたたみの机だ。端に、厄除けの束と、三行書いた値札が置いてある。
机の向こうに、店番の椅子が一脚、空いていた。
その後ろに、ガードレールに縛った看板がある。ベニヤ板に、ペンキの字で、元祖天神大上屋。
元祖天神大上屋は、俺とあいつの店だ。
本家天神大上屋は、あいつだけの店だった。
しばらく、そうして座っていた。




