第五十七話 ソナタ 十二号室 締め 受 壱
年の瀬が近づくと、天神は夕方から人が多くなった。勤め帰りの背広が、四、五人ずつ固まって、信号のたびに渡辺通りを渡っていく。どの固まりも、これからどこかで飲む顔をしていた。
日が落ちてから、風が冷たくなった。机の下で、足の指を靴の中で動かしていた。
デパートのひさしの下に、紺のジャンパーが立った。
安藤さんは、ひさしの影を出て、歩道を渡ってきた。
「留め。一束」
鞄から、輪ゴムで留めた束を出して、渡した。
安藤さんは、ジャンパーの内から紙袋を出して、束を入れた。口を折り返そうとして、中のものが一枚、袋の縁から覗いた。
祓いが一枚、あの人の字で書いてある。払いの終わりが、少し上へ跳ねる字だ。
紙が、違っていた。
梅野さんの家の仏間で、あの人が紙袋から出した祓いは、表がわずかに毛羽立っていて、厚みが一定でなかった。漉いたものの厚みだった。
覗いている一枚は、表が平らで、端まで同じ厚みをしている。俺のものと、同じ紙に見えた。
安藤さんは、紙袋の口を折り返して、ジャンパーの内に戻した。千円札を机に置いた。
訊かなかった。訊けば、見たことが伝わる。
「寒かな」
安藤さんは、それだけ言って、信号のほうへ歩いていった。
机の上の千円札を、財布にしまった。
その晩、店を畳んで四畳半に戻ったところで、電話が鳴った。
知らない番号から。出ると、男の声が、店の名を言った。中洲のカラオケ店だという。
「お客さんの、カウンターに名刺ば置いていったとです。拝み屋さん、ち書いてあったけん」
声の後ろで、誰かが歌っていた。遠くて、何の歌かは分からなかった。
「奥の部屋のことで、ちょっと、見てもらえんかと思うて」
「今晩、伺えます」
「二時過ぎのほうが、よかです。そのころなら、俺一人になるけん」
本家に、今晩は中洲に出ると言った。本家は、明日も裏の店を開けると言った。年末で、厄除けの出が多い。
二時を回った中洲は、まだ人が歩いていた。
那珂川に沿って、ネオンが水の上に伸びている。橋の上を、肩を組んだ三人連れが、まっすぐ歩けないまま渡っていった。
川寄りの通りに、古い雑居ビルがあった。一階はシャッターが下りていて、脇の狭い入口に、袖看板が縦に並んでいる。四階の看板に、カラオケ ソナタ、とあった。
エレベーターは、小さかった。四人乗れば肩が触れる。扉が開くと、すぐ前に受付のカウンターがある。
壁に、色の褪せた歌手のポスターが貼ってある。カウンターの上に、マイクの入った籠が三つ並んでいた。
桑野さんは、四十を少し過ぎたくらいの男の人で、黒いポロシャツの上に、店の名の入ったエプロンを着けていた。伝票の束を、輪ゴムで留めていた。
「拝み屋さん。遅うに、すみません」
通路の奥から、歌の終わりが聞こえてきた。どこかの部屋の誰かが、最後の一節を、声を張って伸ばしていた。
桑野さんは、伝票の束をカウンターに置きながら、その一節を、口の中で小さく拾った。拾い終えて、こちらを向いた。
「こっちです」
通路は、二本あった。表の通路は、まだ半分の部屋に灯りが点いている。
桑野さんは、奥の通路のほうへ曲がった。こちらは、どの部屋も暗かった。
「二時を過ぎたら、奥は閉めるとです。俺一人で回すけん、表だけにして」
いちばん奥に、十二号室があった。その先の突き当たりに、配膳室の戸がある。
「ドリンクは、全部あそこで作るとです。表の部屋に持っていくにも、ここの前ば通らんと、行かれん」
十二号室の扉には、細長い小窓が付いていた。中は暗い。
桑野さんは、扉の前で立ち止まった。
少し待った。
扉の向こうで、拍手がした。
何人ぶんかは分からない。ばらばらに鳴りだして、少し続いて、まばらになって、止んだ。曲が終わったあとの、あの拍手だ。
歌は、聞こえない。拍手だけが鳴った。
小窓から中を覗いた。誰もいない。ソファも、机も、暗いままで置いてある。
「四、五分したら、また鳴ります。朝まで、ずっとです」
桑野さんは、平らな声のまま続けた。
「最初は、怖かったとですよ。いまは、あ、終わったな、ち思うだけで」
「いつからですか」
「俺が来たときには、もう鳴りよりました。七年前です。前の店長も、知っとったごたります」
困っているのは、今月からだという。
今月入った学生のアルバイトが、二人とも、夜中にはこの前を通らなくなった。二時までは、まだ表の部屋に人がいるので、運ぶのは誰かに頼める。二時を過ぎると、一人になる。
「忘年会の時期で、ドリンクの数が、普段の三倍は出るとです。それば全部、俺が運びよる」
桑野さんは、配膳室の戸のほうを見た。
「辞められたら、困るとです。この時期に」
値段を言った。
見立てに二万円、引き取りに五万円。
会社の店で、いちばん稼ぐ時期の困りごとだ。会社なら、このくらいは払う。
桑野さんは、少し顔をしかめた。高いと思った顔ではなかった。
「俺の一存じゃ、決められんとです。本社に通さんと」
「通るまで、見るだけ見ときます。払いは、通ってからで、よかです」
その晩は、通路の端の、配膳室の戸の脇に立たせてもらった。
四、五分おきに、十二号室で拍手が鳴った。
桑野さんは、盆にジョッキを四つ載せて、何度も前を通っていった。通るたびに、表のどこかで終わった曲の、最後の一節を口の中で拾っていた。十二号室で拍手が鳴っても、足は止まらなかった。
次の日の夕方、桑野さんから電話があった。
「通りました」
本社は、値段のことは何も言わなかったという。
「忘年会の時期に、奥の通路が回らんほうが、高うつくち」
その晩、二時を過ぎてから、十二号室に入った。
六人ほどが座れる部屋だ。赤い合皮のソファが壁に沿って曲がっていて、座面の破れたところに、同じ色のテープが貼ってある。正面の壁に、大きなモニター。低い机の上に、曲を選ぶ機械と、タンバリンが一つ。
扉を閉めると、表の通路の歌が、ほとんど聞こえなくなった。耳の奥が、少し詰まったような気がした。
モニターの下の壁に一枚。ソファの、右の曲がり角の上の壁に一枚。左の壁の、エアコンの吹き出し口の下に一枚。目印を、三枚貼った。
短い祝詞をあげた。八文字。
部屋を出るとき、扉の内側に立った。振り返ると、暗いモニターに、自分の影が映っていた。
次の晩、三枚を見た。
黄ばんでいた。濃い。
貼って一晩で、ここまで色の出たものは、あまり見たことがない。
中洲のど真ん中だ。人も、人の記憶も、毎晩、いくらでも流れてくる。いろんなものが混ざって、色が濁っていてもおかしくない。
混ざっていなかった。三枚とも、黄ばみしか出ていない。
モニターの下の一枚は、真ん中から。右の壁の一枚は、左の縁から。左の壁の一枚は、右の縁から。それぞれから一本ずつ、線を引いた。
三本は、扉の内側で交わった。部屋に一歩入ったところだ。
場の色だ。この部屋そのものが、何かを覚えている。
しばらく、扉の内側に立っていた。
拍手が鳴った。ばらばらに鳴りだして、まばらになって、止んだ。
何十年、この部屋は、人の歌を聞いてきた。うまい歌も、下手な歌も。歌い終わった人は、みんな手を叩いてもらって、帰っていく。
それで、この部屋のことは、誰も叩かない。
扉の内側で、線が交わっていた。誰かに、入ってきてほしいのだ。
部屋を出ると、桑野さんが、盆を持って通路を戻ってきた。
「この部屋は、何十年も、人の歌ば聞いてきとるとです。なのに、誰からも、手ば叩いてもらっとらん」
桑野さんは、盆を持ったまま、立ち止まった。
「褒めてもらいたかとやろ、と思います」
「はあ」
桑野さんは、十二号室の小窓を、ちらりと見た。それから、盆を持ち直して、表のほうへ歩いていった。
次の晩も、二時を過ぎてから、十二号室に入った。
ソファの真ん中に座った。灯りは、点けなかった。通路の灯りが、扉の小窓から細く差していた。
四、五分して、拍手が鳴った。
手を叩いた。
部屋の拍手と、俺の拍手が、少しのあいだ重なった。部屋のほうが先に、まばらになって、止んだ。俺の手が、一人で残った。
手を下ろした。
また四、五分して、鳴った。叩いた。
それを、何度か続けた。
部屋の拍手は、強くもならないし、弱くもならない。鳴りだして、まばらになって、止む。叩いても、叩かなくても、同じように鳴った。
小窓の向こうを、桑野さんの影が、盆を持って通っていった。一度、止まった。中を見ていたのかもしれない。影はまた、表のほうへ動いた。
手のひらが、熱くなっていた。
四時を過ぎて、表の通路の最後の客が帰ったころ、桑野さんが十二号室に入ってきた。
灯りを点けて、こちらを見て、何も言わなかった。
「掃除しても、よかですか。どうせ、朝にはせんといかんけん」
濡れた布巾で、机を拭いた。曲を選ぶ機械を、充電の台に戻した。タンバリンを籠に入れた。ソファの上に落ちていた紙のおしぼりを拾って、ゴミ袋に入れた。最後に、マイクを二本、机の端に揃えて置いた。
置いた手を、離したところで、拍手が鳴った。
ばらばらに鳴りだして、まばらになって、止んだ。
桑野さんは、ゴミ袋の口を縛っていた。
「ほら。掃除の済んだら、鳴るとです」
「掃除でも、鳴るとですか」
「鳴ります。歌の終わりと、掃除の終わりと。俺が伝票ばここで締めよったときも、鳴りよりました」
桑野さんは、縛ったゴミ袋を、扉の脇に置いた。
「拍手ば聞きよる人やら、おらんですよ」
こちらを見た。
「歌い終わったら、みんな叩きますけど。叩きながら、もう次の曲ば探しよる。機械ば覗き込んで。誰も、聞いとらんです」
桑野さんは、マイクの向きを、一本だけ直した。
「終わったけん、叩く。そんだけです」
部屋を見た。
赤いソファがあって、暗いモニターがあって、マイクが二本、揃えて置いてある。何十年ぶんの歌が、ここで終わった。終わるたびに、誰かが手を叩いて、扉の内側を通って、出ていった。
拍手は、誰に向けたものでもない。
行が立った。あの拍手は、喝采ではない。終わったことを言う、締めだ。
五時の前に、桑野さんには、表のカウンターで閉店の支度をしてもらうことにした。
十二号室の扉を閉めた。表の音は、ほとんど届かない。
鞄から帳面を出した。
扉の内側に立った。三本の線が交わっていたところだ。
帳面を開く。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
部屋が張った。ソファの継ぎ目を、テープの端を、マイクを、モニターの縁を、何かが数えていった。
ソナタ 十二号室 締め 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
しばらく、扉の内側に立っていた。
四、五分たった。拍手は、鳴らなかった。
もう少し待った。鳴らなかった。
小窓から、通路の灯りが差していた。
三枚の目印を、壁から剥がした。
払いは、次の晩に受け取った。
九時過ぎに行くと、受付の前の長椅子に、部屋の空くのを待つ客が並んでいた。ネクタイを頭に巻きかけている男がいた。エレベーターから、また五人降りてきた。
桑野さんは、カウンターの内で、伝票と内線の電話を交互に見ていた。
封筒が一つ、出てきた。表に、店の会社の名前が刷ってある。七万円が入っていた。
領収書を書いた。宛名は会社の名前で、但し書きを訊くと、桑野さんは、伝票から目を上げずに言った。
「なんでもよかです。本社が、なんか考えるでしょう」
見立てと引き取り、と書いた。
「昨日は、一回も鳴らんやったです。奥の部屋も、今日から開けました。学生の子も、ドリンク運びよります」
桑野さんは、伝票を一枚めくった。
「いや、よかったです。ほんと」
そう言って、手を二つ、軽く叩いた。目は、伝票の上にあった。
胸のあたりが、少し浮いた。
「また何かあったら、言うてください。中洲の店なら、どこでも見に行きますけん。ここらへんの古かビルは、どこも何かしら抱えとるでしょうし、そげなとは、だいたい——」
内線の電話が鳴った。
桑野さんは、受話器を取った。
「はい、フロントです。……はい、生、四つ。ありがとうございます」
受話器を置いて、ジョッキを取りに配膳室のほうへ歩いていった。奥の通路へ曲がるとき、表のどこかで終わった曲の、最後の一節を、口の中で拾っていた。
カウンターの上に、名刺を一枚置いた。
言いかけたことの続きが、口の中に残っていた。待っていた客たちは、誰もこちらを見ていなかった。
エレベーターを降りると、通りは人で埋まっていた。
向かいの料理屋の前に、背広の一団が出てきて、輪になった。誰かが、それでは、と声を上げた。
「一本締めで」
輪の全員が、両手を胸の前に上げた。
掛け声の後に、手を打つ音が一つだけ通りに響いた。
それで、お開きになった。誰も、それ以上は叩かなかった。一団は、それぞれ、駅のほうへ、次の店のほうへ、ほどけていった。
川のほうから、風が来た。
手を、コートのポケットに入れた。




