第五十五話 貸しボート
朝のうちは、上着が要った。昼を過ぎると、デパートのひさしの影が、歩道の半ばまで伸びてきた。
渡辺通りを、乾いた風が北へ抜けていく。
ひさしの下に、紺のジャンパーが立っていた。
安藤さんだ。こちらを見ていたのかどうかは、分からない。
留めの束を、鞄の内側から出して、机の端に揃えた。
南の信号が変わって、渡ってきた人の群れが、歩道を埋めた。人の切れたあとの、ひさしの下には、誰もいなかった。
歩道の先を見た。ジャンパーの背中は、もう見えなかった。
留めの束を、鞄に戻した。
電話をかけて、何の用だったのかと訊くほどのことでは、なかった。
夕方近くに、客用の椅子に女の人が座った。
四十前後で、日に焼けた顔をしている。会社の名の入った緑のウィンドブレーカーを着て、耳にボールペンを一本、挟んでいた。
「これ、財布に入っとったとです」
机に置かれたのは、うちの名刺で、角が丸くなっていた。
「いつ貰うたとか、覚えとらんとですけど」
「大上です」
「田代です。大濠で、貸しボートば、しよります」
大濠公園の池で、ボートを貸している会社の、現場の主任なのだという。
「ボートの、戻ってくるとです」
閉めるときに、ボートは一艘ずつ桟橋に舫う。それでも、結びの甘いのがあれば、夜のうちにほどける。乗り捨てていく客もいる。
「朝来たら、全部、桟橋に並んどるとです。風の無か晩でも」
「何か、困ったことになっとるとですか」
「困っとらんとです」
田代さんは、耳のボールペンを抜いて、指の間で回した。
「助かっとるとです。朝一番に、池に出て、流れたとば拾うて回る手間の無かけん。去年まで、それは一人の仕事やったとです」
その一人が、去年の秋でやめた。人は入れていない。
「入れんでも、回っとるとです。正直」
ボールペンを、耳に戻した。
「ただ、上がですね」
夜回りの警備の人が、明け方の池で、ボートがひとりでに桟橋へ寄っていくのを見た。公園の管理事務所に報告が上がり、そこから会社の所長に話が来た。
「原因の分からんもんを、そのままにしとけん、ち言われとるとです。今月で、今年のボートは終わりですけん、それまでに、何か書いて出さないかんとです」
見立ては一万円だと言った。
田代さんは、ボールペンを抜いて、名刺の裏に、一万、と書いた。
本家に一報を入れて、日の傾くころに大濠へ行った。
地下鉄を降りて地上へ出ると、池の上の空が広い。水面が、西の空の色を映していた。周りの道を、走っている人がいる。
貸しボートの乗り場は、池の縁から桟橋が張り出したところにある。白鳥の形をした足漕ぎのボートが首を揃えて並び、その脇に、手漕ぎのボートがつないである。どれも、白く新しい。
「ボートは、五年前に、全部入れ替えたとです」
田代さんは、最後の客から櫂を受け取っていた。
「前のは、木やったとですか」
「前のも、もう木やなかったです。荒木さんは、木のころから知っとらしたとですけど」
荒木さんが、去年やめた人だという。
桟橋の付け根に、受付の小屋があり、その奥に、道具を入れておく小屋がもう一つあった。
戻ってくるのは、ボートだ。
ボートが覚えているのなら、目印は湿る。池の水が覚えているのでも、湿る。どちらにしても、ボートのほうか、池のほうを指すはずだ。
目印を三枚、貼った。桟橋の付け根の杭に一枚、受付の小屋の柱に一枚、岸の柳の幹に一枚。
短い祝詞をあげた。八文字。
田代さんは、白鳥の首に一つずつ手を当てながら、舫いを確かめていた。
次の日、閉める前に見て回った。
三枚とも、湿っていた。
杭の一枚は、左の下から。受付の柱の一枚は、右から。柳の一枚は、右の上から。
一枚で引けるのは、線が一本だけだ。三本を延ばした。
池のほうへ延びた線は、一本も無かった。桟橋のボートの上でも、交わらない。
三本は、道具の小屋の壁で交わった。
田代さんに、小屋を開けてもらった。
中は、ロープと救命胴衣と、白鳥の首に掛けるカバーの束で埋まっていた。ペンキの缶が、棚に並んでいる。
奥の壁に、長い竿が一本、横に掛けてあった。
樫の柄で、先に鉄の鉤が付いている。柄の握るところだけが、黒く光っていた。
「荒木さんの鉤竿です」
田代さんが言った。
「もう、誰も使わんとですけど。捨てるとも、なんか」
鉤は、錆びていなかった。誰かが、油を引いている。
「田代さんが、手入れしよらすとですか」
「まさか」
田代さんは、笑いかけて、やめた。
もう一度、確かめた。
竿を受付の小屋の奥へ移してもらい、目印を三枚、貼り直した。
次の日、三本の線は、受付の小屋の奥で交わった。
竿が動けば、付いて動く。場所が覚えているのなら、動きはしない。
柄は樫だ。木のほうが覚えているのなら、ひさごの畳と同じで、割れない。だが、ボートを寄せるのは、木のすることではない。
「竿ですね」
「竿が、ボートば寄せよるとですか」
「たぶん、ですけど」
田代さんは、受付の奥の竿を見た。それから、桟橋の白鳥のほうを見た。
「竿は、元の場所に戻しとってください」
戻すことにしたのは、こちらの都合だった。
荒木さんは、草香江の団地に住んでいた。
池から歩いて十分もかからない。四階の部屋で、窓から、木の間に池の水が少しだけ見えた。
八十近い人で、膝に毛布を掛けていた。耳が遠く、こちらが言うたびに、身体を半分こちらへ傾けた。
「竿で、寄せよった」
荒木さんは、両手で、見えない竿を握ってみせた。
「閉める前に、池に残っとるとば、一艘ずつ。鉤ば舳先に掛けて、こう」
手首を返して、胸のほうへ引いた。
「四十年。毎日」
「夜も、ですか」
「風の晩は、夜中に見に行きよった。ここから近かけん。ほどけて流れよるとのあったら、寄せて、舫い直して、帰って寝る」
膝の毛布を、引き上げた。
「膝が言うこと聞かんごとなって、やめた」
「その竿が、いまも寄せよるとです」
荒木さんは、身体を傾けたまま、しばらく黙っていた。
「荒木さんの仕事ば、まだ続けよるとやと思います」
荒木さんは、声を出して笑った。
「竿が勝手にやりよるなら、わしは要らんかったとやな」
笑ったまま、窓のほうを見た。木の間の水は、もう暗くなっていた。
夕方の受付で、田代さんに話した。
竿が覚えているのは、ボートを寄せることだ。四十年ぶん寄せて、いまも寄せている。
「引き取ることは、できます」
田代さんは、ボールペンを抜いた。
「うちが引き取ったら、竿ごと、ここから無くなります。寄せるのも、止まります」
城戸さんの時計がそうだった。癖だけを受けたつもりで、時計ごと入った。渡と書いて返せば、時計と一緒に、癖も戻ってきた。
「それは、困ります」
田代さんは、すぐにそう言った。言ってから、ボールペンを指の間で回した。
「困る、ち言うたら、おかしかですか」
「おかしくないです」
困っているのは、上のほうだ。上が欲しいのは、原因が分かったという紙だ。
「害の無かか、確かめさせてください。夜に、寄せるところば見ます」
「夜通しですか」
「風の吹く晩に」
予報が、夜半から北の風だと言った晩に、行くことにした。
路地の口で、本家に言った。
「今晩、大濠で夜を明かす。表は」
「朝から、開けときます。机は、俺が出します」
「裏は」
「閉めます。昼に、一回だけ開けます。香椎の人が、札ば取りに来るけん」
本家は、厄除けの束を輪ゴムで留めた。
「戻りは」
「始発のあと」
「なら、朝飯は、要らんですね」
「要らん」
それで、段取りは済んだ。
閉めたあとの桟橋で、田代さんが手漕ぎのボートを一艘だけ、舫いを緩くしてくれた。
「ほどけるごと、しときます」
道具の小屋の鍵を、こちらに預けて、帰っていった。
池の周りの道には、遅くまで人がいた。走る人、犬を連れた人、ベンチで話し込む二人連れ。九時を過ぎると、まばらになった。十一時には、足音が無くなった。
桟橋の付け根のベンチに座った。座っているのに飽きると、桟橋に立った。立つのに飽きると、また座った。
池の向こうの街の灯りが、水に縦に伸びていた。
一時を過ぎたころ、風が来た。
水面に、細かい波が立った。舫いの緩い一艘が、桟橋から離れて、ゆっくり池のほうへ出ていった。
道具の小屋のほうで、乾いた音がした。木の柄が、板に当たったような音だ。
離れていった一艘が、止まった。
風は、北から吹いている。ボートは、風に逆らって、こちらへ戻ってきた。舳先が、まっすぐ桟橋を向いていた。鉤を掛けて引くと、ああいう寄り方になるのだろう。
桟橋の縁に、そっと当たって、止まった。
風の中で、ほかのボートと並んで、舳先を揃えていた。
小屋の戸を開けて、懐中電灯を向けた。竿は、壁に掛かっていた。動いた様子は無い。
もう一艘くらい流れるかと思って、朝まで待った。流れなかった。
空が白むころ、池の周りに、走る人が戻ってきた。
ベンチから立った。
膝が、軽かった。
一晩、座って、立って、また座った。それなのに、どこも固まっていない。
新天町の飾り山の脇に、五晩立った。最後の晩が明けて、駅の階段が、脚にこたえた。小笹の坂の屋根の下で、一晩座った。始発の音で立ったとき、膝が少し固まっていた。
今朝は、どちらも無い。
立って待った晩と、座って待った晩。
安河内さんの夜番と、小笹坂上の待合。受けた行は、二つとも、待つことだった。立って待つのが苦にならない。座って待つのが苦にならない。
それが、今夜はどちらも効いている。
目の前を、走ってきた人が、息を上げて過ぎていった。
あの人のほうが、よほど一晩起きていた人の顔をしていた。
会社の事務所は、公園の外の、通りを渡ったビルの二階にあった。
所長は、五十過ぎの男の人で、作業着の胸に、名札を着けていた。
書き付けを、一枚渡した。百均の便箋に、横書きで書いてある。
原因 道具小屋の鉤竿。前任の方が四十年使ったもの
現象 閉めたあとに離れた艇を、桟橋へ寄せる
害 見た範囲では、無し
見立て 月に一度、目印を貼って、変わりがないかを見る
所長は、書き付けを二度読んだ。
「この、鉤竿ば、処分したら止まるとですか」
「止まるとは、限りません。物の記憶は、物と一緒に動きます。捨てた先で、同じことをするかもしれんです」
ボートの無いところで、と言いかけて、やめた。
「拝み屋さんが、持っていくとは」
「できます。ただ、持っていけば、竿ごと無くなって、寄せるのも止まります」
田代さんが、横で、ボールペンを抜いた。
所長は、書き付けを机に置いて、しばらく、それを見ていた。
「月に一度、見に来るとですね」
「はい」
「いくらですか」
「一か所、千五百円です」
所長は、顔を上げた。安い、という顔をしていた。それから、机の引き出しを開けて、厚紙の挟まった板を一枚、出した。
「遊具の点検表です。ここは遊具やなかけど、桟橋も、胴衣も、これで見よる」
表の下のほうに、空いた行があった。所長は、胸のポケットからペンを抜いて、一行、書き足した。
「原因の分かって、見る人のおるなら、点検の対象です。止める理由は、なか」
板を、田代さんに渡した。
「小屋に、掛けとけ」
田代さんは、耳のボールペンを抜かずに、両手で受け取った。
十一月の半ばに、薬院へ行った。帳簿を持っていく日だ。
税所さんは、ひと月ぶんをひと息にめくって、最初に戻って、ゆっくりめくり直した。
指が止まった。本家の字で、大濠、一万円、とある。行の脇に、小さく、点検は来月から、と書き添えてあった。
「点検ですね」
税所さんのほうが、先に言った。
「継続のお仕事ですか」
「……毎月です」
「はい」
税所さんは、はい、と言った。付箋は、取らなかった。
十一月の終わりに、大濠へ行った。
貸しボートは、先月で終わっていた。白鳥は、桟橋に寄せて首を揃え、舫いを二本ずつ掛けてあった。受付の小屋には、来年の春まで休みます、と貼り紙がしてあった。
池の上を、風が渡っていく。柳の葉が、ほとんど落ちていた。
田代さんが、道具の小屋を開けてくれた。
竿を小屋に戻した日に、杭と柱と柳に貼り直した三枚を見た。杭の一枚も、柱の一枚も、柳の一枚も、貼った日から、濃くなってもいない。薄くなってもいない。
奥の壁に、竿が掛かっていた。鉤は、相変わらず錆びていない。
その脇の釘に、点検表が下がっていた。桟橋の床板、手すり、救命胴衣、浮き輪。どの行にも、日付と、丸と、見た人の名前が並んでいる。
いちばん下の行だけ、字が違った。
鉤竿 月一回
所長の字で書いてある。横の欄に、紐で鉛筆が結んである。
鉛筆を取って、今日の日付を書いた。丸を書いた。名前の欄に、大上、と書いた。
竿は、壁に掛かったままだった。




