第五十四話 寄り合い
机を出して看板を縛っていると、歩道の向こうから、女の人がまっすぐこちらへ歩いてきた。
六十半ばくらいで、短い髪を後ろへ撫でつけている。紺の前掛けを外して、手に丸めて持っていた。
「ふく八の古賀さんとこの、勘定の合わん件ば片づけた人ですか」
屋号では、来なかった。仕事のほうで、来た。
「はい。大上です」
名刺を出した。女の人は、名刺を読まずに前掛けと一緒に握った。
「黒木です。中洲で、屋台ばしよります。三日月、ち言います」
弥太郎の親父さんに、ここを聞いてきたのだという。
客用の椅子を引くと、黒木さんは浅く腰かけた。
「客の、来んごとなったとです」
夏の終わりからだという。中洲の川沿いの列で、四軒だけ、客が減っている。
「うちの三日月がラーメンで、とんぼが天ぷら」
黒木さんは、指を折った。
「小春がおでんで、千鳥が焼き鳥。四軒」
四本折った指を、膝の上に置いた。
「ほかの店は、なんともなかとです。うちらだけ」
「その四軒は」
「冷泉から来た四軒です」
冷泉公園の脇の歩道に、昔は屋台が並んでいた。六年前に、市の決めで、そこを出た。歩道が狭くて、人の通る邪魔になるというのが理由だった。
「出るときに、四軒一緒にしてください、ち市に頼んだとは、うちです」
黒木さんは、丸めた前掛けを握り直した。
「場所は市の決めたもんですけん、客の来んけんちいうて、動かれんとです」
見立ては一万円だと言った。そのうえで、引き取ることになれば、また別に値段を言う。
黒木さんは、指を四本、立てた。
「四軒で割りますけん。二千五百円ずつ」
その勘定は、もう決めてきたような言い方だった。
本家に一報を入れて、日が落ちてから中洲へ出た。
川沿いの遊歩道に、屋台が一列に並んでいる。三日月は、その列のいちばん端にあった。隣に、とんぼと、小春と、千鳥。四つの幕が、肩を寄せるように並んでいた。
三日月の台の中で、黒木さんが寸胴の火を見ていた。客は、一人しかいなかった。
五十過ぎの勤め人で、ネクタイを緩めている。焼酎のコップを、置くたびに少しずつ回していた。
「冷泉のころからの、お客さんです」
黒木さんがそう言うと、男の人は、コップを回した。
「会社が、上川端の裏でね。冷泉の時分は、出て三分。こっちに来てからは、川ば渡って十分」
「来られるときは、どこば通らすとですか」
「公園の脇ば抜けて、橋ば渡る。それが近かけん」
コップを、回した。
「先月、それが抜けられんかった」
同僚と二人で、公園の脇の歩道を歩いていた。話しながら歩いて、気がつくと、入ったほうの角に立っていた。
「二人とも、戻っとる。曲がった覚えは無か。もう一回歩いたら、また戻っとった」
二度目からは、遠回りをして来るようになった。そのうちに、来なくなった。
「遠回りしてまで来るほどの年でも、なかもんね」
男の人はそう言って、黒木さんのほうを見ずに、コップを回した。
黒木さんは、寸胴の蓋を、少しだけずらした。
冷泉公園は、博多川から一本東にある。
中洲から橋を渡ると、川沿いの通りの向こうに、公園の木が黒く固まっていた。桜の古い木が多い。葉が、色づいて落ちはじめていた。
脇の歩道は、思っていたより狭い。街灯が等間隔に立ち、公園の側には低い柵が続いている。屋台が並んでいたのは、ここだという。いまは、何も無い。
北の角から、歩道に入る。
人通りは少ない。柵の向こうで、ベンチに一人、背を丸めて座っている人がいた。歩道の先に、次の街灯が見えている。その先にも、もう一本。
歩いた。
次の街灯の下を過ぎたあたりで、空気が、そこだけ少しぬるかった。湯気の中を通ったような感じがした。
気がつくと、正面に、博多座の灯りがあった。
入ってきたほうの角に立っていた。曲がった覚えは無い。
もう一度、歩いた。今度は、歩数を数えながら歩いた。
四十いくつまでは数えた。その先を、覚えていない。博多座の灯りが、また正面にあった。
目印を三枚、貼った。北の角の車止めに一枚、歩道の中ほどの街灯の柱に一枚、南の角の柵の支柱に一枚。
短い祝詞をあげた。八文字。
次の晩、目印を見て回った。
三枚とも、出ていた。ただ、出かたがおかしい。
北の角の一枚は、左から焦げ、右の上から湿っていた。中ほどの一枚は、焦げが二か所から入り、そのあいだを湿りが縫っていた。南の角の一枚は、下のほうで、焦げと湿りが混ざって、どちらが先なのか分からなかった。
焦げは、人か、動物だ。湿りは、草木か、物だ。
一枚の紙に、両方が出ている。それも、一か所からではない。
一枚で引ける線は一本のはずだった。それが一枚から、二本も三本も引ける。延ばすと、歩道のあちこちで交わった。街灯の下で交わり、柵の際で交わり、車止めの手前で交わった。
一点に、ならない。
渡辺通で、建て替えのビルを追われた鳩の群れを受けたときは、目印は焦げしか出さなかった。何羽いるのかは分からなくても、群れで一つと書けた。出どころが、一つだったからだ。
ここは、色が違う。出どころが違う。何がいくつ寄っているのか、一つと書いていいのかも分からない。
品名が、立たなかった。
柵の内側の暗がりを、しばらく見ていた。
屋台の灯りが消えて、六年になる。それでも、ここには並びがある。人が寄って、腰掛けて、寸胴の湯気が上がっている。屋台が持っていった物の、置いていった跡も。
「並びの客が、まだ来よる」
口に出していた。
「満席で、通されんとたい」
路地の店じまいに寄って、本家に目印の話をした。
本家は、机を畳む手を止めずに聞いていた。
「屋台のあったけん、寄っとる、ち読むとですね」
「三十年、並んどったとこたい」
「六年前に出たとでしょう。来んごとなったとは、先月から」
本家は、畳んだ机に手を置いた。
「なんで、今ごろですか」
答えられなかった。
本家は、少し考えてから言った。
「わけは、なかとかもしれんです」
「わけの無かもんが、あげん寄るか」
本家は、それ以上は言わなかった。机を、壁に立てかけた。
昼のうちに、もう一度、中洲へ行った。
黒木さんは、台の裏で葱を刻んでいた。冷泉のころの写真が、仕込みの棚の上に一枚貼ってあった。
夜の歩道に、幕が五つ並んでいる。手前から三つ目が、三日月だった。
「五軒あったとです。いちばん奥の店は、出る前の年にやめました」
包丁を置いて、写真のほうを見た。
「残った四軒で、一緒に来たとです」
「なんで、一緒やったとですか」
黒木さんは、少し考えた。
「さあ」
指を折りかけて、やめた。
「隣やったけん、でしょうね。それだけです」
仕入れも一緒にしている。氷も四軒で取る。雨の日に休むかどうかも、四人で決める。日曜は、四軒そろって休む。誰が言い出したのかは、もう覚えていないという。
とんぼの台で、若い男が、天ぷらの油の鍋に火を入れていた。三十を少し過ぎたくらいで、首にタオルを掛けている。
「有田さんとこの息子さんです。冷泉のころは、お父さんがしよらしたとです」
有田さんは、こちらを見て軽く頭を下げた。それから、鍋のほうへ向き直った。
氷屋の軽トラックが、列の端に停まった。有田さんが立っていって、氷の塊を一つ受け取った。
台の上に置いて、錐を当てた。手首を返すたびに、塊に筋が入った。四つに、割った。
割れた氷を、一つずつ、隣の台へ配っていく。三日月の台にも、一つ置いた。黒木さんは、礼も言わずに、それを発泡の箱に入れた。
「氷は、冷泉のころから四軒で一つ取っとります。割るとは、とんぼの仕事です」
四つの氷は、どれも同じ大きさに見えた。
日曜の夕方、黒木さんたちに、公園へ来てもらった。
人数が多いとどうなるのかを、見ておきたかった。一人でも、二人でも、戻された。四人ならどうか。それが分かれば、寄っているものの強さが、いくらか測れる。
四人は、北の角の車止めのところに集まった。黒木さん、有田さん、小春の主人、千鳥の主人。休みの日の格好をしていると、四人とも、屋台の中で見るより小さく見えた。
「並んで、歩いてみてください。戻されたら、ここに出てきます」
黒木さんが先に立ち、あとの三人が続いた。
四人が、歩道を歩いていく。街灯の下を一つ過ぎ、二つ目に掛かった。
こちらは、北の角に立って、待っていた。
四人は、戻ってこなかった。
三つ目の街灯の先へ、背中が小さくなっていった。
追いかけた。湯気のようなぬるさは、どこにも無かった。歩数を数えるまでもなく、南の角に着いた。
四人は、南の角にいた。
黒木さんが、柵の支柱の脇に立っていた。小春と千鳥の主人は、車道の際に。有田さんは、少し離れたところで、こちらに背を向けて、煙草に火を点けていた。
「抜けましたね」
黒木さんが言った。誰も、それには何も言わなかった。
有田さんの煙草の煙が、車道のほうへ流れていった。
その晩、四畳半で、本家に言った。
「抜けた。四人とも」
本家は、目覚ましの時刻を合わせていた。
「戻されんやったとですか」
「戻されんやった」
「わけは」
「分からん」
本家は、目覚ましを枕元に置いた。それ以上は、訊かなかった。
次の晩、三枚とも剥がして、新しく三枚貼った。
その次の晩、三枚とも白かった。
もう一晩待った。白かった。歩道を、端から端まで歩いた。戻されなかった。
前の三枚は、手元にある。焦げと湿りが、何か所からも入っている。一晩で、あれだけ出ていた。
記憶は、一晩では消えない。日を追って進めば怪異で、止まれば、濃く覚えているだけのものだ。止まることはあっても、無くなりはしない。
それが、日曜の晩を境に、無い。
四人で歩いたからか、とも考えた。だが、男の人は同僚と二人で戻された。二人で戻されるものが、四人なら通す、というのはおかしい。数で押し切れるものなら、そもそも寄ってはいない。
誰かが打ったのかとも思った。歩道を、もう一度、端から端まで見て回った。祓いの焼け屑も、札を貼った糊の跡も、無かった。そもそも、日曜の晩は、ずっとここに立っていた。
寄っていたものは、確かにあった。目印が、そう言っている。
それが、目の前で、ほどけた。
こちらは、何もしていない。
何かの力が、ほどいた。
次の日曜に、黒木さんが店に来た。
公園の脇を抜けてきたのだという。
「ビールの祭りの、始まっとりました。オクトーバーフェスト。テントの、公園いっぱいに立っとって」
人の多かったです、と黒木さんは言った。櫛田さんのほうも、おくんちで人が出ていたという。
「お客さん、戻ってきました。上川端の人も、毎晩」
黒木さんは、客用の椅子に浅く腰かけて、頭を下げた。
「ありがとうございました」
それから、封筒を三つ、机に並べた。白い小さな封筒で、それぞれ屋号が書いてある。三日月、小春、千鳥。
「とんぼの有田さんとこは、うちらと、別にやることになったとです」
黒木さんは、とんぼの封筒の無いところを、見なかった。
「日曜の帰りに、言い合いになって。何で揉めたとか、誰も、よう覚えとらんとです。仕入れも、氷も、来週から別々です」
「有田さんは」
「店は、続けるそうです。場所も隣です」
黒木さんは、前掛けを膝の上で畳んだ。
「隣におっても、別は、別ですけん」
黒木さんが帰ってから、封筒を一つずつ開けた。
三日月の封筒に、三千三百三十四円。小春と、千鳥に、三千三百三十三円ずつ。
一円玉が一枚、三日月の封筒にだけ多く入っていた。
日曜の晩、四人は、ほどけた並びの中を歩いていた。
並びに寄っていたものは、一晩で、ほどけた。わけも無く、外から解かれたように。四人も、その晩のうちに、言い合いになった。何で揉めたのか、誰も覚えていない。
同じ形をしている。
何がほどいたのかは、分からない。確かめる手も無い。それでも、そう読むしかなかった。
並んで歩いてくれ、と言ったのは、こちらだ。
封筒を、返そうかと思った。返す理由を、言えなかった。
一万円を、四で割れば、割り切れた。




