第五十三話 早田方 荷車 受 壱
九月も終わりに近づくと、夕方の風に、昼の暑さが残らなくなった。
店じまいの前に、ガードレールに縛った看板の紐を締め直していると、後ろから声がかかった。
「こんなとこで、商いよったとね」
播谷さんだった。勤め先の上着ではなく、襟のくたびれたポロシャツを着ていた。家電の量販店の紙袋を提げていた。
名刺を一枚出した。播谷さんは住所の行を読んで、ふうん、と言った。前にも、同じ顔をした。
「ちょうどよかった。あんたに頼みのあると」
来週から二週間、勤め先の研修に出るのだという。本社のある町に泊まり込みで、夜も休みの日も戻れない。
「店長の、手前のやつたい。出らんと、上がれんけん」
首の後ろを掻いた。
「そのあいだ、うちの客から電話のあったら、あんたに回してよかね」
父親の代からの客だ。名簿は見せない。急ぎの用なら、この番号に掛けてくれと言っておく。そういう段取りだという。
「うちの値段は、見に行って一万、祓うて三万。あんたは、あんたの値段でよかけん」
「うちは、祓わんですよ」
「知っとる」
播谷さんは、名刺を二つに折りかけて、やめて、財布に差した。
「あんたなら、うちの客に下手なことはせんやろ」
それだけ言って、紙袋を持ち直し、地下街に下りる階段のほうへ歩いていった。褒めたつもりは、ないのだろう。
看板の紐を持ったまま、しばらく立っていた。
その晩、四畳半に布団を二つ敷きながら、本家に話した。寝る前に、その日受けた客を言い合うことにしている。
「播谷さんの客ば、二週間、預かる」
「はい」
「電話の来たら、俺が出る。出とるあいだは、表も、そっちで見てくれ」
「表と、路地と」
「頼む」
本家は、枕の位置を直した。
「四万の客ですね」
「うちの値段で取る」
「はい」
明かりを消したのは、本家だった。
一本目の電話は、三日目に来た。
七隈の酒屋で、夜になると、下ろしたシャッターが鳴るという。風の無い晩に、外から手のひらで叩いたような音が、一度だけ。
学生のアパートの多い通りの、角に店があった。店主は七十前の男で、話すあいだ、レジの横の小銭の皿を、指で揃えていた。
「播谷さんとこは、一時間で済ませて帰らすとですけどね」
目印を三枚貼って、三日通った。黄ばみはごく薄く、進み方も遅かった。場の記憶で、弱い。
三日目の晩に、店主が、昔は閉めたあとでも、叩かれたら開けよった、と言った。近所の人が、一升瓶を提げて買いに来たのだという。
厄除けを一枚、シャッターの内側に貼った。
次の朝、電話があった。鳴らんかった、と店主は言った。
払いのとき、店主は、見立ての一万円と、札代の千円を、皿の上で揃えた。
「打ってもらわんで、よかとですか」
「止まっとります」
「播谷さんは、打って帰らすとですけどね」
店主は、小銭の皿をもう一度揃えた。それから、シャッターの内側の札を、しばらく見ていた。
二本目の電話は、その週の終わりに来た。朝の、まだ店を出す前だった。
「播谷さんに、この番号ば聞いとります」
年寄りの女の人が、早田です、と名乗った。
「車の、また出たとです。今年は、早かです」
本家に、茶山に出ると言っておいた。
地下鉄を茶山で降りて、地上に出た。
低い家の並ぶ住宅地で、道はすぐに上りになった。坂の途中の家の石垣の際に、彼岸花が赤く並んでいた。
早田さんの家は、その坂をもう少し上ったところの、ブロック塀の家だ。
八十に手の届くくらいの人で、割烹着を着ていた。話しはじめる前に、割烹着の袖口を、指で一度引っぱった。
軒下に、リヤカーが置いてあった。
鉄の枠に、ゴムの車輪が二つ。荷台に、黒い鉄の釜が載っている。釜の脇から、短い煙突が一本立っていた。引き手には、色の褪せた手ぬぐいが巻いたままになっていた。
「主人の、焼き芋の車です。やめて、もう二十年になります」
ゆうべ、夜のうちに、このリヤカーが坂の角まで出ていた。ブロック塀が切れて、道が折れるところだ。朝、早田さんが見つけて、隣の人と二人で押して戻した。
「秋口になると、出るとです。最初は門の外まで。ほっとくと、晩ごとに遠うなる」
坂を下りきると、バスの通る道に出る。
「あそこまで行ったら、ことですけん」
袖口を、引っぱった。
毎年、出はじめたら、播谷さんに電話する。来てもらって、打ってもらう。それで一年もつ。
「お父さんの時分からです。守さんのまだ、こんくらいのころから」
早田さんは、自分の腰のあたりに手をやった。
縁側に座らせてもらって、話を聞いた。
ご主人が亡くなって、次の秋から出はじめた。冬のあいだ、ご主人は毎晩、このリヤカーを引いて出ていた。茶山から別府へ、片江のほうへ。
「どこで、立ち止まりよらしたとですか」
「さあ」
「冬の、何時ごろから」
「暗うなってから」
「やめられたとは、何で」
早田さんは、袖口を引っぱった。
「播谷さんは、そげなこと訊かれんです」
責める声ではなかった。そういうものだと思っていたのを、言っただけだ。
目印を三枚、貼らせてもらった。軒の柱に一枚、門柱に一枚、リヤカーを挟んで、物干しの支柱に一枚。
短い祝詞をあげた。八文字。
その晩は、門の内側の、塀の陰に座った。早田さんには、寝てもらった。
坂の下のほうで、バスが一台、通っていった。それきり、車の音はしなくなった。
一時を過ぎて、軒下で、鉄の軋む音がした。
リヤカーが、動いていた。
誰も引いていない。引き手を前にして、車輪がゆっくり回り、軒下から庭へ出てきた。荷台の釜が、ことりと鳴った。
門を抜けて、坂のほうへ向きを変えた。
立ち上がって、引き手を、掴む。
手の中で、引き手が前へ出ようとした。強くはない。人ひとりが、重い荷を引き出すときの、最初の一歩くらいの力で引いている。
しばらく、そうしていた。
そのうちに、引き手が軽くなった。車輪が止まった。
押して、軒下まで戻した。釜の蓋が、少しずれていた。直すと、中の石から、古い灰の匂いがした。
朝、目印を剥がして回った。
三枚とも、湿っていた。紙の縁から、水を吸ったように波打っている。
湿りは、植物か、物だ。草木の記憶なら、根を張った場所から動かない。三本の線を延ばすと、交わるのは、軒下の、荷台の釜の上。
動いて、出ていくもの。物の記憶だ。
縁側で、早田さんが茶を出してくれた。
「ゆうべ、出ました。門の外までです。引き手を持ったら、止まりました」
早田さんは、湯呑みを膝に置いて、聞いていた。
「旦那さんの道ば、また回りたかとでしょう」
早田さんは、少し笑った。
「主人は、寒うなるとが嫌いでしたよ」
袖口を、引っぱった。
「寒うなったら、仕事の始まるけん。あの車ば引き出す晩は、毎年、門のところで、ため息ついて出よりました」
回りたかった人は、いなかった。
ご主人は、嫌々引き出していた。それでも二十年、冷えてくる晩ごとに、門を出ていた。リヤカーのほうは、それを覚えている。冷えたら、出るものだと。
祓えば、止まる。播谷さんが打てば、その晩から出なくなる。
ただ、記憶は残る。一年たてば、また育って、秋口の冷えた晩に、門を出る。毎年、出るのはそのためだ。丸二印刷の、安武さんの恨みは、播谷さんが打ってから一月で戻ってきた。
引き取れば、もう出ない。
リヤカー、と書けば、車だけかもしれない。冷えた晩に、釜を載せて引き出されていたのは、焼き芋の荷車だ。
行は、立っていた。
早田方 荷車 受 壱
「うちで引き取れば、もう、出んごとなります」
「播谷さんのも、打ったら出んごとなりますよ」
「来年も、出ません。再来年も」
早田さんは、湯呑みを両手で持った。
「引き取るち、どげんなるとですか」
「車ごと、うちで預かります。ここからは、無うなります」
「釜も」
「はい」
値段は二万円だと言った。見立ての一万円とは別に。
早田さんは、軒下のほうを見た。
「一回で、済むとですか。それも、二万で」
「はい」
袖口を、引っぱった。それから、首を横に振った。
「それは、困ります」
「出んごとなってもですか」
「うちのもんですけん」
軒下のリヤカーを見たまま、言った。
「毎年、播谷さんの来て、打ってもろうて、それで一年もつとです。それで、よかとです」
湯呑みを置いた。
「止まりゃ、よかとです」
頭の中で、勘定をしていた。
四万円を、二十年。八十万円になる。こちらは二万円で、一度で済む。
早田さんも、勘定ができない人ではない。二十年、毎年払ってきた人が、その数を知らないはずがない。
知っていて、毎年、四万円を払う。
止めてくれ、と頼んでいる。終わらせてくれとは、言っていない。
「播谷さんの戻るまで、待ちましょう」
二週間、持たせる手当てをする、と言った。
厄除けを一枚、釜の蓋に貼った。それから、庭の隅に積んであったコンクリートのブロックを一つ借りて、車輪の前に噛ませた。
「札は、何か来たら、先に傷みます。ブロックは、車の出らんごと」
早田さんは、ブロックを見て、笑った。
「播谷さんは、そげなことはされんです」
見立ての一万円だけ、受け取った。札代はいらないと言った。早田さんは、袖口を引っぱって、それでも千円札を一枚、封筒に足した。
帰りぎわ、門のところで言われた。
「播谷さんに、ようしてもろうたち、言うときますけん」
それから二週間、二日おきに茶山へ寄った。
リヤカーは、毎朝、少しずつ前に出ていた。ブロックが、手のひら一枚ぶん、押されている。門までは行かなかった。
釜の蓋の厄除けは、縁から少しずつ湿っていった。三度目に寄ったときには、紙の端が反りかけていた。貼り替えて、湿ったほうを鞄にしまった。
早田さんは、寄るたびに茶を出してくれた。何も訊かなかった。こちらも、もう何も訊かなかった。
その間に、本家の客が二件あった。どちらも、厄除けで済んだ。
寝る前に、言い合った。
「播谷さんの客は、二件。引き取りは、無し」
「見立てが、二万ですか」
「一万と一万。札代が二千」
「四万の客に」
「見たぶんだけたい」
「はい」
本家は、それ以上は言わなかった。布団の端を、足で伸ばした。
十月に入って最初の週末に、播谷さんが店の前に来た。
「こんなとこで、商いよったとね」
名刺を一枚出した。播谷さんは住所の行を読んで、ふうん、と言った。
「早田さんとこ、行ってきた。打ってきたばい」
「何時間」
「一時間」
「四万ですか」
「四万たい」
播谷さんは、首の後ろを掻いた。
「あんた、うちの若い衆にされとったよ。播谷さんとこの若い人の、よう訊きよらしたち」
七隈の酒屋の親父さんにも、電話で同じことを言われたという。
封筒を出した。七隈の一万千円と、茶山の一万一千円。
「なんね、これ」
「播谷さんの客の分です」
播谷さんは、封筒を受け取らずに、こちらの胸のほうへ押し返した。
「見たとは、あんたやろ」
封筒は、こちらの手に戻った。
播谷さんは、机の端に腰を預けて、こちらの鞄を顎で指した。
「うちの客の、なんか持って帰っとらんやろね」
笑っていた。
「持って帰っとらんです」
鞄から帳面を出して、開いた。最後に書いた行を、指で示そうとした。地行の、床下のイタチの行だ。
播谷さんが、横から覗き込んだ。
「なんち書いてあるとか、いっちょん分からん」
しばらく、そのまま見ていた。
「字の上手かね」
それだけ言って、机から腰を上げた。
帳面を閉じるのが、少し遅れた。




