第五十二話 地行 イタチ 受 壱
九月も半ばを過ぎると、日の落ちるのが早くなった。昼のあいだはまだ暑いが、夕方になると、ビルの陰から涼しい風が下りてくる。
机の端に立てた値札の前で、年寄りの男が足を止めた。七十をいくつか過ぎたくらいで、着古した開襟シャツの胸ポケットに、眼鏡を一つ差していた。眼鏡は掛けずに、値札を、口を動かして読んだ。
「運は、良くなりません」
読み終えて、笑った。
「正直か」
客用の椅子に座った。座るなり、踵で歩道のタイルを一度、とん、と鳴らした。
「力丸です。地行に住んどります」
床下を、何かが走るのだという。夜中に、毎晩。
「娘が、そげん言うとです。わしは、なんも聞こえんですけど」
とん、と踵が鳴った。
娘さんは、この春から一緒に住んでいる。奥さんを亡くしてから、力丸さんは何年か、一人であの家に住んでいた。
春のうちに、娘さんが業者を呼んだ。業者は縁の下に潜って、何もいないと言って帰った。糞も、足跡も無かった。二度目も、同じことを言って帰った。
「寝られんなら、わしば自分のマンションに連れていくち言いよります。姪浜の」
「行かれるとですか」
「行かんです」
とん。
「親父の建てた家ですけん。わしは、あそこから出んです」
それから、少し声を落とした。
「聞こえんもんのために金ば払うとも、おかしな話ですけどな」
見立てに一万円、と言った。引き取ることになったら、そこから三万円。
「よかです」
力丸さんは、値札をもう一度見て、また笑った。帰りぎわ、歩道を二、三歩行ってから、踵を一度鳴らした。
次の日の夕方、本家に、今晩は地行に出ると言っておいた。
唐人町で地下鉄を降りて、海のほうへ歩いた。
地行は、マンションの多い町だ。高い建物のあいだに、ところどころ、古い家が挟まっている。
「昔は、侍の、下のほうの家の並んどったげなです」
力丸さんは、板塀の木戸を開けながら言った。
板塀の奥に、瓦屋根の平屋が建っていた。床が高い。玄関の上がり框が、膝のあたりまである。縁の下に、四角い通風口がいくつか開いていて、どれにも金網が張ってあった。
「十年前に、家ば直したとです。家内の生きとったころに。そのとき、業者が張っていきました」
それまでは、イタチがいた、と力丸さんは言った。
「年中、走りよったです。あの時分は」
娘さんが勤めから帰ってきた。四十代の半ばで、紺のカーディガンの袖を、肘のところまでたくし上げていた。言いにくいことを言う前に、一度、口を結ぶ癖があった。
奥の六畳に通された。娘さんの寝ている部屋だ。
「二時ごろです。台所のほうから来て、この下ば通って、お風呂のほうに行くとです」
娘さんは、畳の上を指でなぞった。台所の側の襖から、縁側の側の隅まで。
「毎晩です。同じ時間に、同じとこば」
それから、口を結んだ。
「父は、聞こえんち言うとです。この家で、聞こえんわけがなかとに」
廊下で、とん、と踵が鳴った。
「朝、仕事に出るとです。寝られんと、もたんとです」
業者は二度とも、何もいないと言った。金網も破れていない。娘さんも、それは分かっている。分かっていて、毎晩、二時に目が覚める。
力丸さんの姿は、もう廊下に無かった。茶の間で、テレビの音がしていた。
その晩、携帯で調べた。野のイタチは、長くて三年ほど生きるという。
金網を張ってから、十年になる。生きているものは、もう、この下にはいない。
台所の床下収納の箱を、持ち上げてもらった。
下は暗かった。懐中電灯を入れると、乾いた土が照らし出された。床が高いぶん、腹這いになれば肘で進める。頭の上を、太い材が何本も渡っていた。その下に、短い柱が、一本ずつ土台の石に載って並んでいる。
土は冷えていた。外の暑さが、ここまでは下りてこない。
肘で這って、目印を三枚貼った。台所の下の柱に一枚。奥の六畳の下の柱に一枚。風呂場に近い、基礎の際の柱に一枚。
短い祝詞をあげた。八文字。
上がって、台所の隅に座らせてもらった。
二時を少し過ぎた。
床の下で、小さな音がした。
爪が板を掻くような、軽い音だった。それが、速い足音になった。台所の下から、廊下の下を抜けて、奥のほうへ。
音は、風呂場のほうで途切れた。
それきりだった。
奥の六畳で、明かりが点いた。襖の隙間から、細い光が廊下に落ちた。しばらくして、消えた。
茶の間からは、何の音もしなかった。
朝、床下に潜って、三枚を剥がしてきた。
焦げていた。薄い。猫より小さいものの焦げ方だ。
ただ、焦げが一点から広がっていなかった。縁の一か所から始まって、紙の上を斜めに、刷毛で掃いたように流れていた。
一枚では、線が一本引けるだけだ。だから三枚貼る。それぞれの焦げの始まりから、一本ずつ線を延ばした。
三本は、交わらなかった。一本は縁側の雨戸のほうへ抜け、一本は台所の流しの下を指し、もう一本は風呂場の壁に突き当たった。どれも、ほかの二本とは関わりのない向きを指していた。
一つ所にいるものではない。走っているあいだに、三枚がそれぞれ、違う場所で浴びたのだ。
焦げの流れは、三枚とも同じ側へ掃いていた。台所の側から、風呂場の側へ。貼った柱を、台所の下、奥の六畳の下、風呂場の際と並べると、その順に走っている。
焦げは、獣の色だ。
娘さんは、もう勤めに出ていた。
茶の間で、力丸さんが茶を淹れてくれた。
「毎晩、同じ道ば走っとります。台所の下から、奥のほうへ」
「ほう」
「金網ば張って十年たっても、床下から出ていかんとです」
力丸さんは、湯呑みを両手で持っていた。
「この家に、居りたかとやと思います」
力丸さんは、何も言わなかった。湯呑みを置いて、踵で畳を一度鳴らした。
その晩は、留めを持って潜った。
走ってくるところへ行って、置けばいい。在る場所が分かれば、留めは効く。
奥の六畳の下で、腹這いのまま待った。懐中電灯は消した。土の匂いと、古い材の匂いがした。
二時を過ぎて、台所のほうで、爪の音がした。
足音が、こちらへ来る。
留めを持った手を、上げた。
足音が、逸れた。
柱を一本回って、左の暗がりへ流れた。追って身体を捻ったとき、頭の上の材に、額を打った。足音は、背中のほうを抜けて、風呂場のほうへ遠ざかった。
這って追った。基礎の際まで行ったときには、何の音もしなかった。
懐中電灯を点けた。金網の張った通風口から、外の街灯の明かりが、四角く差していた。土の上には、何も無かった。
逃げられた。俺から。
留めは、在る場所にしか置けない。走っているものの在る場所は、こちらが着いたときには、もう無い。
朝、額に、赤い筋が一本できていた。
娘さんが、台所で笑った。
「夜中、下で、ごつん、ち言いよりましたよ」
「すみません」
「わしは、聞こえんかった」
力丸さんが、茶の間から言った。
娘さんは、口を結んで、何も言わずに勤めに出ていった。
茶の間で、ゆうべのことを話した。手を上げたら、逸れた。追ったら、風呂場のほうで消えた。
「逃げたとです。こっちが行ったら」
力丸さんは、しばらく庭のほうを見ていた。それから、湯呑みを置いた。
「イタチが居りたかったわけやなかでしょう」
とん、と踵が鳴った。
「うちが追い回したけん、床下に逃げ込みよっただけです」
力丸さんが子どもの時分、この家は庭で鶏を飼っていた。イタチに、よく取られた。
父親は、夜中に床下で物音がすると、箒の柄で畳を叩いて回った。そうして、台所の下から奥へ、イタチを追い立てた。力丸さんは、表へ回って、台所の側の通風口の前で、バケツを構えて待った。
「いっぺんも、捕まえきらんやったです」
イタチは、毎晩、反対の風呂場の脇の通風口から抜けていった。待つ口を替えても、そちらから抜けた。
「親父の死んでからは、追わんやった。追っても、捕まえきらんとですけん」
金網を張るまで、イタチは代替わりしながら、ずっと床下にいた。
「あれは、わしと親父が、走らせよったとです」
力丸さんは、また庭のほうを見た。鶏小屋のあったという隅に、物干しが立っていた。
居りたかったのではない。追われるたびに、同じ道を逃げていた。五十年ぶん、逃げ道だけを覚えている。
毎晩、風呂場の脇で消える。消えるのではない。抜けていくのだ。金網の張られた口から、いまも。
昼過ぎ、外から風呂場の脇の通風口を見に行った。
金網は、きちんと張ってあった。錆も、破れも無い。網の目に、細かい埃が溜まっていた。
跳ねを、ここに据えることを考えた。
据えた跳ねは、境を越えて入ってくるものを、外へ逸らす。出ていくものは、止めない。出ていこうとするものを、そのまま境の外へ流すだけだ。
据えれば、毎晩、外へ逃がしてやるのと変わらない。明日の晩には、また台所の下から走りだす。
翳せばいい。
跳ねは、込めたぶんを一息に吐き出す札だ。境に据えずに、手に持って当てれば、来た向きの逆へ押しやれる。
出口で待って、押し戻す。逃げ道の終わりで、一歩だけ。
本家に、今晩も帰らないと電話を入れた。
「はい」
それだけで切れた。
その晩は、力丸さんと娘さんに、二時を過ぎるまで部屋から出ないでもらった。
床下に潜って、風呂場の脇の基礎の際まで這った。通風口の内側に、腹這いになった。右手に跳ねを一枚。左の手もとに、留めを一枚。懐中電灯は消して、土台の石の上に置いた。
通風口の金網から、外の街灯の明かりが、土の上に四角く落ちていた。網の向こうで、虫が鳴いていた。
脇を見ると、風呂場の下は、コンクリートで固めた基礎の角になっていた。行き止まりだ。
待った。
二時を過ぎた。
遠くで、爪の音がした。台所の下だ。
足音になった。速い。奥の六畳の下を抜けて、こちらへ来る。
跳ねを持った手を、前へ出す。
短い祝詞をあげた。八文字。
足音が、目の前まで来た。
跳ねが、手の中で反った。
紙が内側へ巻いて、指のあいだから落ちた。
足音が、横へ跳んだ。土を掻く音が、基礎の角のほうへ走って、そこで詰まった。爪が、コンクリートを二度、三度掻いた。
それから、止まった。
留めを取って、角のほうへ翳した。八文字。そのまま、角の手前の土の上に置いた。
何も見えなかった。音も、もうしなかった。
それでも、角から先へは、何も動かなかった。
「もう、誰も追いよらんよ」
返事は無い。
仰向けになった。
懐中電灯を土台の石に立てかけて上に向け、帳面を胸の上で開いた。頭の上を、太い材が渡っていた。その向こうで、力丸さんと娘さんが寝ている。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。柱を、土台の石を、材に掛かった蜘蛛の巣を、何かが数えていった。
足を止めているのは、一つだ。代替わりしたぶんがいくつあったのかは、分からない。走っていた道は、一本だった。
イタチ、と書いた。漢字は、出てこなかった。
地行 イタチ 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
金網の向こうで、虫の声が戻っていた。
土の上に、反った跳ねが一枚落ちていた。拾って、胸ポケットに押し込んだ。
朝、娘さんが台所に出てきた。
「朝まで、寝ました」
目が、少し腫れていた。寝すぎた顔をしていた。
力丸さんが、茶の間から封筒を二つ持ってきた。見立ての一万円と、引き取りの三万円が、分けて入っていた。
座卓に封筒を置いて、力丸さんは、湯呑みに手を伸ばした。
「静かになりましたな」
娘さんが、こちらを向いた。それから、父親のほうを向いた。
「……聞こえよったと?」
力丸さんは、湯呑みを口に運んだ。踵が、畳を一度鳴らした。
「寝つきの悪か晩だけたい」
娘さんは、口を結んだ。結んだまま、しばらく父親を見ていた。それから、台所へ戻っていった。流しで、水の音がした。
力丸さんは、庭のほうを見ていた。
「親父の時分から、ずっとですけんな」
それだけ言って、茶を飲んだ。
木戸を出て、唐人町のほうへ歩いた。
朝の地行は、マンションの日陰が長かった。歩きながら、安藤さんに電話した。
「地行の古か家の、床下に潜りました」
「何がおった」
「イタチです。昔の」
「受けたか」
「受けました」
「俺なら、床ば剥がさせる」
床を剥がせば、上から見える。膝をついて、札を貼れる。潜らずに済む。
「剥がさせてくれる人や、なかったです」
「そうか」
それで切れた。
力丸さんは、床を剥がさせはしないだろう。家を出ないのと同じで、剥がさせない。剥がしたら、親父の建てた床でなくなる。
唐人町の駅に下りた。
改札の手前で、胸ポケットから、跳ねを抜いた。紙は内側へ巻いたまま、戻っていなかった。
打たずに余った跳ねは、四畳半の隅に積んである。まだ効く札は、捨てられない。
これは、もう済んだ札だ。
改札の脇の屑籠に入れた。




